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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
参 アクセプト・プレイア
24/69

二十 準備




挿絵(By みてみん)




 ──三月十一日。満を持して、閉校式の準備が始動した。


 閉校式と言っても、今回の邸中学校では三年生の卒業式を兼ねて行われるので、準備の内容は例年の卒業式と大きく変わらない。生徒たちが関わらねばならないのは式の練習や装飾くらいのものだ。

 教師会議での協議の結果、会場の体育館では各クラスごとに担当のエリアが設定され、そのエリア内は好きなように飾り付けてもいいことになった。

 あらかじめ紅白幕は設置されている。既に校舎内の雰囲気には、間もなくやって来る卒業に向けての空気が少しずつ入り雑じり始めていた。ふとした瞬間に虚空を見上げたり、懐かしい壁をそっと撫でたりして、早くも名残を惜しむ上級生の姿も見られた。

 卒業シーズンが、いよいよ到来する。


 しかし、そんな後ろ向きな雰囲気など、送り出す側の中学二年生には無縁であった。翌日の朝の会はさっそく、どのように飾り付けをするかで盛り上がった。

「どうせだからさぁ、造花をすっごいたくさん買ってきて花畑にしちゃおうよ! 紅白幕なんかが見えるからみんな悲しくなるんだし!」

「えー、そんなの金ばっかりかかるだろ。それより俺はほら、薄い紙を何枚も使って花を手作りするのがあるじゃん? あれをいっぱい作れば心も込められると思う!」

「なんでみんな揃いも揃って花ばっかりなわけ? 紙テープをお洒落に貼り付けるとかでも、十分いいと思うんだけど」

「いやいや、そんな地味なの作っても楽しくねーから!」

「せっかくだから春待桜をネタにしたいしねー」

 各人が好き勝手を言うばかりなので、まるで議論が進まない。やれやれと頭を振った上川原が、立ち上がって紙を配り始めた。

「先に渡しておく」

 職員室の輪転機で印刷したものらしい。梢から紙を受け取った柚は、中身に軽く目を通す。閉校歌として式中で歌ってもらうものだと、紙が行き渡ったのを確認した上川原が解説した。

 『桜庭(さくらば)』。歌にはそんなタイトルが銘打たれていた。歌詞の両脇には音符が並べられ、裏返すと何行にもわたる五線譜の上でおたまじゃくしが跳ねている。

(こんな曲、あったっけ?)

 タイトルに見覚えのなかった柚は、思わず首を傾げた。つい最近になって発表されたのか、それとも柚が単に知らないだけか。

 紙をよくよく眺めていると、三年生は参加せずに一年生と二年生だけで歌うことになっているようで、各生徒ごとに担当のボーカルパートが細かく割り振られている。二番サビと三番の間には長い間奏が挟まれ、そこでは選抜された十数名が台詞を読むことになるらしい。台詞の中身はまだ、書かれていない。

「ボーカルパートに合わせて、当日の立ち順も表にしておいた。いずれ体育館での練習も始まるから、それまでに前後左右のメンバーを覚えておいてくれ」

 上川原の補注とともに、さらに席順の紙が改めて配られる。

 クラス全員の名前が紙面にびっしりだ。ここまで詳細に決めるのは大変だったろうなぁ──。他人事のような気分で表を眺めていた柚だったが、自分の名前をそこに認めた途端、心臓が止まったかと思った。

 あろうことか、樹の隣に並んでいる。

「…………」

 火照る顔を(さら)すまいと腕で隠しながら、柚は隣の樹をちらりと見た。

 樹は顔を埋めて居眠りしている。今日は登校した時からずっとこんな調子である。おかげで少しだけ、火照りを解消できたような気がした。話しかけようかと悩んで開いた口で、代わりに柚は静かに嘆息する。するとちょっとだけ頭が明晰になり、昨日の出来事がまざまざと思い出されて、またしても顔から火を吹きそうになった。

 そうだ。──柚はあの時、勢い余って樹に告白してしまったのだ。

「あたしたち、隣だねー」

 前の席から振り向いた梢が、暢気な様子で話しかけてくる。「十日間で仕上げられるといいけど……。でも、なんか、楽しみかも」

「う、うん」

 柚は懸命に平素通りの顔を保ちながら返事をした。柚のもう一方の隣人が樹であることに、梢はどうやら気付いていないらしい。別の子に話し掛けられて、また前を向いてしまった。

 やれやれ。

 胸を撫で下ろしつつ、誰にも言えない複雑な思いをそっと心の奥に押し戻して、柚は寝息を立てる樹の肩越しに校庭の春待桜を眺めていた。三寒四温、吹き荒ぶ風の中にもほのかに混じり始めた暖かな香りを楽しむように、春待桜はゆったりと揺れていた。

 長閑(のどか)な気分でいられていないのは、どうやら柚ただ独りだけのようだった。




 今朝一番に、梢に頭を下げられた。

『……その、昨日は色々と命令するみたいな言い方しちゃって、ごめんね』

 感情の()き出しだった昨日とは打って変わって、梢は悄気(しょげ)た様子だった。『柚ちゃんは何も知らないはずなのに、あたしったら自分の気持ちばっかり押し付けようとしちゃって……。あいつの隣で過ごしてる柚ちゃんの気持ちも、きちんと考えてあげなきゃいけなかったなって思って』

 その背後で林が親指を立てていたのを見ると、どうやら裏で林が仲を取り持とうと工作してくれていたらしい。とんでもないと、柚も謝り返した。

『私だって、強情になりすぎちゃったかなって反省してたところだったし……』

『それじゃあ、お互い様?』

『うん。そういうことにしようよ』

 よかったぁ、と梢はたちまち相好を崩した。

『せっかく柚ちゃんと仲良くなれたんだし、この期に及んで気まずい関係になっちゃうなんて嫌だもん』

 それから、黒板の横に掛けられているカレンダーに目をやった。

 閉校式は三月二十一日。もはや柚と梢たちがクラスメートでいられるのは、土日を入れてもたったの十日間だけだ。だから梢ちゃんは関係修復に焦ったんだ──。何となく事情を悟った柚は、梢には勘付かれないように苦い息を吐き出したものだった。

(残り十日の思い出のために仲直りしようとすら思えないほど、宮沢くんのことは嫌いなんだな)

 裏を返せばそういうことなのだと思えてしまったのである。



     ◆



 校長室に、ガチャンと甲高い音が二重に響き渡った。

 宮沢校長が受話器を戻した音と、紙袋を抱えた上川原が職員室に繋がるドアを開けた音が、ぴったり重なったのだった。机の前までやって来ると、上川原はA4サイズの茶封筒を差し出す。

「教育委員会への提出書類、書き上がっているものを(まと)めておきましたので」

「それはありがたい」

 どっこいしょと椅子に腰掛けた校長の顔に、穏やかな笑みが浮かんだ。「──あとは、閉校式を遂行した旨を報告するだけ。皆さんに資料作成を依頼するのも、これで最後でしたな」

「まったくですよ。せっかくこれで余計な資料作成に暇を取られることなく授業準備に取り掛かれるようになると言うのに、もう閉校式も目の前とは」

 上川原は皮肉たっぷりに返事をした。もちろん校長に責任があるなどと考えているわけではなかった。教師が授業以外のことに大量の時間を割かねばならないのは、人員や予算を増やす余裕のない日本の教育界が慢性的に抱えている問題である。

「そうですな。残りもわずか、十日ばかりですからな……」

 紙袋の中身を確認しながら、校長も寂しそうにつぶやいた。

 横長の机の上にメモ書きが放り出されている。電話番号の脇に『㈱日本綜合樹木保全』の名前を見つけ、上川原は受話器の置かれた音を思い返した。また今日も、当たっていたらしい。

「どうだったんです、その会社は」

 校長は虚を衝かれたように顔を上げ、やがて視線がメモ書きに落ちた。ああ、と彼は笑った。

「先月の樹木医の診断結果を伝えたら、やはりダメだそうだ……。枯死してしまった場合の責任は取れないとのことでしたよ」

「……またですか」

「諦めたくはないのだが、こうも同じ結論ばかりを突き付けられてしまうと、さすがにこちらも参ってしまうというものですな」

 そうだろうかと上川原は思う。校長はまだ、白旗を上げようとしているようには見えないが。

 春待桜の伐採の決定を朝礼で発表したにも関わらず、毎日のように暇を見つけては日本中の造園業者や研究者に連絡を取り、校長は懸命に伐採を回避する道を探っていた。そのことは上川原のみならず、職員室の誰もが知っている。以前、見かねた教師たちの中から、私たちも手伝いましょうかと教員会議の場で申し出があったこともあった。だが校長は、きっぱりと断った。

『これは校長としての私ではなく、一個人としての私が取り組んでいることです。皆さんに迷惑や負担をかけるわけにはいかん。皆さんは残された時間を、じっくり生徒たちと向き合うことに費やしてあげてほしい』

 正論であるのもさることながら、今なお衰えを見せない校長の強い情熱を目の当たりにして、教師たちは引き下がる以外の(すべ)を失ってしまったのだった。

 上川原は知っている。長くても三年間しか春待桜と触れ合うことのない生徒たちよりも、むしろ教師たちの方が桜に愛着を持っていることを。──自分も、その一人だから。

 そんな上川原が校長にしてあげられることがあるとすれば、ただ、ひとつだけなのだと思う。

「うちのクラスの閉校式装飾案が決まりましてね」

 上川原は初めと同じ場所に立ったまま、校長に声をかけた。校長が眉を上げた。

「段ボールとクレープペーパーで巨大な文字を作り、その周囲を画用紙から切り出した大量の花びらとペーパーフラワーで覆うことになりました」

「ほう、それはまた豪勢な。華やかな式になりますな」

「段ボール文字の文句は『ありがとう、桜と邸中』だそうですよ」

 校長の紙をめくる手が止まった。

「生徒たちもああ見えて、春待桜のことがちゃんと好きなんですな」

 付け加えた上川原は、失礼しましたと頭を下げ、そのまま校長の姿を見ずに扉へ向かって歩いた。

 ちょっと気障(きざ)っぽくなってしまっただろうか。まぁいいか、と口の端を持ち上げた。実際のところがどうであるのかは知るべくもないが、今は校長の意欲を少しでも刺激してあげることができれば、それでいい。

 果たして。

「──ありがとう」

 閉まりかけたドアの隙間から滑り込んできた細い声が、上川原の背中をそっと押した。







「宮沢くんのこと、『好き』って……言った」


▶▶▶次回 『二十一 タデとムシ』

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