73.魔王 ※
「……気が付いたか?」
鬼姫が目を開けると、心配そうに見下ろす男がいた。
黒い。
髪が黒く、服が黒く、部屋が暗く、男の瞳は黒かった。顔色は日の光に当たったことが無いように青白く健康的とは言えないが、まあ普通と言えた。
「どなたじゃの?」
「魔王ってことになってるな」
男はふっと笑う。
身を起こそうとしても体が動かない。
「無茶するなあお前。溺れて沈みそうになってたぞ。動けないだろ……。何も心配せずにまず休め」
天井を見る。廃墟の魔王城にこんな小奇麗な部屋があっただろうか?
火が焚かれているらしく光がゆらゆらしていた。
「おぬし、魔王じゃと」
「ああ……。城を掃除してくれて礼を言う。すぐに封印を解きたかったが、思いのほか時間がかかった。間に合わなかったら危なかったな」
そっと額に手を当ててくれる。暖かかった。
ふかふかの布団をかけられて寝台に寝かされていたことがわかる。
鬼姫から離れた男は、暖炉に薪をくべた。部屋の中が温かい。
「後でいっぱい話をしよう。今は休め」
男が部屋を出てゆくと、鬼姫は気が遠くなるようにまた、眠りに落ちた。
起き上がれるようになった鬼姫に、魔王と名乗った男は意外にもせっせと世話を焼いた。
鬼姫は寝台で全裸であったが、着物やつづらに入れておいた寝間着はハンガーにかけて吊るしてあり、起き上がれるようになった鬼姫はそれを着た。
食事はどれもこれも焼いたもの、煮たものといった粗末な食事でおせじにも旨いものではなかったが、それでもそれをふるまってくれる魔王の気持ちが鬼姫は嬉しかった。
「うちは鬼姫じゃ」
「俺は魔王やってたが、もう魔族の国も無くなった。王一人で魔王も無いな……」
そう自嘲して笑う。
歳の頃は見た目やや鬼姫よりは年上に見えるが、思いのほか若かった。
そうは言っても鬼姫も魔王も、もう何百年生きたかわからないぐらいの時を過ごしているはずだ。お互いの歳なんて関係ないだろう。
人相悪く眼付鋭いが、それでも鬼姫と話すときは柔らかな笑顔になり、なかなか美形だ。鬼姫から見ても、いい男と言ってよかった。
寝台の鬼姫と、横に座る魔王の二人はお互いの境遇を面白がって、身の上話を交互に始めた。
「うちは日本という国におった。最後の鬼の生き残りじゃ」
「俺みたいに角があるしな。鬼姫は魔物ってことか?」
「そうじゃ。子供のころから人に育てられたので、巫女になって神に仕える身として、神社の雑用と人のために妖怪退治をしておったの」
「魔王とやることは変わらんな……。俺も魔王の子として生まれ、魔族同士の争いを鎮める役割をしていた。ま、悪事を行う魔族をボコボコにしてやるってのがもっぱら俺の仕事だったが」
「うちは日本で死んだはずじゃが、この世界でなんでか生き返ったのじゃ。何で死によったのかはもう覚えておらんし、この世界に自分がおる理由もわからへん。うちは東に行けばきっと生まれ育った日本があると思って、東の果てまで来てみたのじゃ」
「……それで東の海に向かって泳ぎ出したと。馬鹿だなお前」
くっくっくと笑う魔王。だがその笑い方は優しかった。
「うちはこの世界ではなんも知らん子供なんじゃ……。魔王殿、この東の先に島国は無いのかの? なんか知っとるかの?」
魔王は考え込む。
「この東に島は無い」
「そう思うかの……」
魔王はこの世界の地球儀を持ってきて、鬼姫に見せる。
「西の果てで大地震があった。大陸の二つ向こうだ。その時発生した津波が、この東の果てを襲った。この下の断崖に何度も押し寄せるほど凄い津波だ。もしその間に列島や大陸があるのなら、西の津波が東に到達することなどあるはずがない。津波はこの大海を半周して西から東に打ち寄せたことになる」
南米チリで起きた地震が、津波となって太平洋を二十二時間で横断し日本を襲ったことがある。それと同じだろう。当時は日本が防波堤になったため、大陸に被害はなかった。
「俺も東の海を調べたことは何度もあるが、どこまでも海が続いているだけで、いけるところまでしか行けなかった」
「やはりさよかの……」
鬼姫は肩を落とした。あきらめがついたのである。
鬼姫は興味深げに地球儀をくるくる回す。
「……うちが西からたどってきた道は、たったこれだけなのじゃのう」
半年もかけた旅。長さは地球で言うヨーロッパを、二国、横切っただけだった。
「大陸は二つ。ここは東大陸。西にも大陸があり、南にも北にも、多くの国がある。この地球儀も人間が作ったものだ」
「この世界、国はぎょうさんあるのだのう」
「わかっているだけでも五十……、だな。実際は倍以上あるだろうな」
「こんなに世界は広いのだのう……」
「そうだな。俺も行ったことが無いが」
鬼姫はまるで日本を探しているようだった。それを魔王は、したいようにさせてやっていた。
「うちはこの大地がまあるいというのがどうしてもわからへん……」
「そう言う奴は多い。教会だって最初は大地は平らだと言っていた」
「下に住んでおる人間、落ちんかの?」
「この丸い大地の中心に向かって落ちるようになっているらしい」
「丸いってどうやってわかるんじゃ?」
「北の目印になる北極星、わかるか? あれは南に行くほど地平線に近くなり、やがて見えなくなる」
「わからへん。この世界の星座はうちがおった所と違うから、うちは夜に歩くと迷ってしまうの」
夜歩きして山姥に絡まれた。あれも夜道を歩いたからだ。
「太陽も月も南の空を左から右へ横切っていくが、赤道では真上を回り、赤道を越えると北の空を右から左に横切って見える」
「ほんまかの」
「赤道を越えたら月の模様は逆さに見えるぞ。満ち欠けも左右逆だ」
「そんなこと、あるんかの」
鬼姫はもう不思議で仕方がない。
「テラスから海を眺めてみろ。水平線が丸く見える」
「見てみるわ!」
「こっちに来る船があればわかるんだがな……。船はだんだん上から少しずつ見えてくる」
「そういえば途中で魔王城は見えんくなったのう……」
鬼姫は地球儀の、魔王城のある海岸から東に向かって指をたどった。
「泳いでも泳いでも、日本はいつまでたっても見えんかった……」
「そうか……」
鬼姫の目から涙がぽたぽた落ち始めた。
魔王は何にも言わず、ハンカチでその涙を拭いてやった。
次回「74.告白」




