72.神楽舞
夢を見た。日本の夢だ。
懐かしい日本。ただのなんでもない日常。紅葉神社で、巫女をしていた自分が、境内の落ち葉を集めて燃やす夢。
近所の氏子たちも集まってくれて、みんな手伝ってくれる。紅葉が落ちてもうすぐ冬になる。
落ち葉が燃える焚火に集まって、みんなで暖を取る。子供たちが駆けまわっている。
みんな笑っていた。そんな中、鬼姫は一人、泣いていた。
どの人も、どの人も、もう今はいない。自分より先に亡くなってしまった、ご近所のお世話になった人たちばかりだった。自分の好きな人たちは、みんな自分より先に死んでしまう。
「なんでうちは鬼なのかのう……」
……目が覚めたら、やっぱり、鬼姫は泣いていて、そこは狭くて、簡素な魔王城の見張り部屋の一室だった。寝台の毛皮の敷物と毛布だけの寝床から起き上がって、涙を拭く。
「そや……。うちは、生き返って、こんなところに放り出されておるんじゃった……」
思い出の日本ははるか遠く、この世界のどこかにあるのかどうかもまだわからない……。
魔王城の大扉が開いていたことから、掃除する範囲が広がった。
また新しく使えるようになった通路を掃除していく。
大扉をくぐり外に出た。雑草が酷い。
だが石畳を歩いて振り返ると、雨上がりの濡れた魔王城もきらきらと黒光りしてそれなりに風情がある。
「うちはなにをやっておるのかのう……」
魔王城の掃除が一通り終わったら、次は周囲の草刈りをしないといけない。
それも一人でやっていくのはいくらなんでも大変そうだった。
鬼姫の魔王城の掃除、片付けはまだまだ続く。
さらに一か月がたち、廃墟だった魔王城はすっかり綺麗になった。
しかし、それとは逆に、鬼姫の姿は薄汚れ、くたびれ、汚くなっていた。
「ほんまにうちは、なにをやっておるのか……」
海辺に降りてみた。岩を削った階段が絶壁の下にまで延びていたのだ。
これも周囲を草刈りして見つけた遺跡である。
波打ち際を歩く。小さな砂浜ができていた。
そこに座って海を眺める。
「釣りがでけるかのう」
釣り道具を買ってこようかとも思う。そうすれば料理に魚も出せる。しかし町はここから遠すぎた。
海に漕ぎ出したくても、小船も置いていない。
この先に日本がある。きっとある。
ふいに涙が出た。
袖で涙をぬぐう。
拭っても拭っても、涙は尽きなかった。
嗚咽が漏れる。
うええ……。ひっく。うわああん……。
泣けた。
なんと孤独なことか。
ここで死んでも、誰にも看取られず、たった一人で死ぬしかない。
孤独すぎて孤独すぎて、鬼姫は号泣した。子供のように。
さんざん泣いて、へたりこみ、ぐずぐずと鼻を鳴らして、下を向く。
鬼姫はようやく決意した。
玉座の間に戻ると、驚いた。供え物の台の上に、反物が置いてある!
「……こんなん、どこにあったのじゃ? 魔王城をなんぼ探してもこんなものなかったがのう」
不思議である。丸めてある反物を広げると、艶やかな真っ白の生地。
あらためて自分の姿を見ると、薄汚れてほつれも目立ち、粗末な自分の姿に気が付いた。いくらなんでもこれはひどい。あまりのみっともなさに魔王があわれんで、これをくれたのかもしれなかった。
「ありがたく使わせてもらうの。礼を申す」
鬼姫は頭を下げて礼を取り、自分の部屋に戻る。それからは仕事の合間に、衣を縫い、新しく上下とも真っ白な巫女装束ができた。
……鬼姫は湯を沸かして身を清め、つづらを開き、羽織をまとい、鈴と扇を出した。それを持って、しずしずと玉座の間に入る。
「お別れに、舞を一興」
リーン。
鈴と扇がゆっくりと流れ、静かな神楽舞が始まった。
天地にき揺らさかすは、さ揺らかす、神わかも、
神こそは、 きねきこう、き揺らならは。
石の上、布瑠社の、太刀もがと、
願ふ其の 児に、其の奉る……。
舞いながら鬼姫は歌う。
魂を鎮める鎮魂歌であった。
猟夫らが、持た木の真弓、奥山に、
御狩すらしも、弓の弭見ゆ。
上ります、豊日孁が、御魂欲 す。
本は金矛、末は木矛……。
廃墟の中で朗々と響き渡る鬼姫の歌。そして真新しい巫女装束に包まれて美しく舞う鬼姫の姿を見る者は誰もいない。
三輪山に、ありたてるちかさを、
今栄えでは、何時か栄えむ。
吾妹子が、穴師の山の山の山もと、
人も見るかに、深山縵為よ。
御魂みに、去ましし神は、今ぞ来ませる。
魂筥持ちち、去りくるし御魂、魂返しすなや……。
玉座に向かって臥して頭を下げ、最後の礼を取る。
「今日でお別れじゃ。うちはほとほと魔王殿に愛想が尽きた」
ここまでほとんど何も反応が無かったのである。無理もなかった。
勝手に乗り込んできて勝手に掃除をし、勝手に酒と食い物をふるまった。魔王が文句を言われる筋合いはない。鬼姫の勝手な言い草である。そんなことはわかっていた。
しゃりん。
鬼姫は立ち上がる。
「ほな、達者での」
そのまま鬼姫は、裏戸に回り、岩階段を降り、海岸に出る。
それまで着ていた衣を脱ぎ、胸にはさらしを巻いて褌姿。髪は結い上げ、頭の上にかんざしで止める。
砂浜を歩いて波打ち際に行き、そのまま波に足を進めてゆく。
足が浸かり、腰が浸かり、鬼姫は海に浮いた。そのまま泳ぎ出す。
東へ、東へ。
「波が静かでよかったのう。この天気、続いてくれればの」
どんどん泳ぐ。
どこまで泳ぐか?
いけるところまでに決まっている。
「どこまでいけるかのう」
日本に着いたら、どうするかとか。
もしどこにもたどり着けなかったら、引き返すか、とか。
夢中になって泳ぐ鬼姫の脳裏にいろんな思いが浮かぶ。
「どこぞに嫁入りするのも悪くないのう」
「誰か嫁にもろてくれぬかのう……」
「最初に出会った神父、よい男じゃった。嫁に入るならああいう男もええかもしれぬ」
この世界に来てから、最初に自分に親切にしてくれた男が思い出された。
「神に仕える身ではそれもかなわぬか……。他に誰がおったかのう」
いままでにかかわった男たちを思い出す。
「ギルドを手伝ってやれば、ギルドマスターの嫁になれるかの?」
年寄や中年が多かった。すでに所帯を持っている可能性が高いだろう。
「ギルドには親切な職員も多かったの。なんといったかのう……。あんな男と平々凡々な所帯を持つのも悪くないの」
妖怪退治なんてやめて静かに暮らしたい。赤子を抱いて乳を飲ませるなんて幸せも自分にはなかった。
こんなわけのわからない異国の世界に来ても、自分の幸せが何なのか、結局はわからなかった。
「普通の幸せって、なんなのかのう」
振り向くと西の海に日が沈みそうになっている。周り一面水平線だった。
もう魔王城は見えなかった。
大地は丸い。いまさらのようにこの時に実感した。
前を見れば東だ。明日にはきっとその東に日が昇る。
鬼姫は泳いだ。東に向かって……。
次回「73.魔王」




