71.魔王城の巫女
風が強い。
海風が吹いていた。
夕暮れの断崖。波の音が聞こえる。
その断崖の上に、魔王城は建っていた。
夕日を浴びても、その石造りの壁は黒々として不気味である。
「海じゃ! 魔王城じゃ!」
とうとう着いた! 夢にまで見た東の果てである!
ここまで不思議と魔物は少なかった。
狼や野獣の群れを追い払ったり、まとわりつく飛虫の群れを焼き払ったり、その程度だ。時にははぐれ野豚や兎も仕留められたし、野生の者たちの痕跡をたどれば、廃墟となった魔族の砦もあったので、なんとか水だけは手に入った。
水が手に入らなくなった時点で、引き返そうと思い始めた鬼姫をかろうじてつなぎとめたのは、もう誰もいない魔族たちの廃墟と水源だったのだ。
中にはダンジョンと呼ばれる魔族、魔物の巣窟跡もあったのだが、鬼姫は深入りせずただ水だけ汲んで雨風よけの寝泊りに使う程度だった。奥がどうなっているかなど興味が無かったのである。
こんなに緑も少ない荒野が続いては、食べられるものも無く、いかに魔物とはいえ食物連鎖の頂点に立つ者は飢えてしまう。魔物が数を減らしていった理由もわかるし、数少なくなった魔物たちが人間の街に出るように、紛れ込んでいったのもわかる。
自然豊かな日本で暮らしていた鬼姫にはまるで魔族は最初からこんな荒野に住んでいたように見えるのだが、実際にはかろうじてバランスを維持していた自然を、破壊だけを行い生産をしない魔族自身がぶち壊し、砂漠化が侵食していたのである。
日本の妖怪と同じように、この世界の魔物も絶滅しようとしていた。限界生息数を下回り、もう魔族の国を維持するだけの力が残っていなかったと言えるかもしれない。
今まで人の住む場所に魔物たちが多く現れ、鬼姫が討伐していたのは、もはやこの地では魔物さえ生きられないから……と、鬼姫は肌で感じた。
そんな荒野の最果てに、魔王城はあった。
鬼姫は魔王城に歩み寄る。王都で見たような巨大な王城とは違い、地方の一領主の屋敷を防衛のための砦としている感じである。
近づいて門の前に立つと、既に廃墟になっていることが見て取れた。
「ここに魔王が封印されておるのかのう……」
門は固く閉じられている。入れる場所がないか探すため周囲を回る。
柵は壊れていたので裏手にも回れた。
海が見えた。断崖の上から、はるか遠くの水平線が見える。東の果てである。太陽は海とは反対側の西の地平線に沈もうとしていた。海の上にはもう星が光り始めている。夕焼けがきれいだった。
「明日になればこの海から日が昇る。日の本があれば島影が見えるかもしれんの」
海を隔てた隣国からは、日本の島が見えると聞く。
ここまで来ても、鬼姫はまだ東の海の果てに日本があると信じていた。
心の片隅に日本があると思うから、ここまで歩むことができたのだ。
いくつもの壊れた柵を踏み越えて、魔王城の裏手に回ると石の階段があった。
「だいぶ昔に壊されたのじゃのう。ここから入れるかもしれん」
途中いくつも落とされた踊り場がある階段を飛び跳ねながら、上っていく。かつては頑丈だったであろう、壊れそうな扉がある。力を入れて人が通れる程度に開いてみた。中を覗き込むと暗い。
「たのもう――――!」
大きな声を上げて、中に入っていく。
「勝手に入らせてもらうの――――!」
真っ暗な城内。なにもない。人も魔物もネズミもいない。
ただ一人、ランタンを吊るして石造りの場内を歩く。まるで牢獄のようでもある。
上へ、上へ。
鬼姫はできるだけ高いところに行きたかった。
階段を見つければどんどん上る。しばらく魔王城をうろうろしているうちにテラスに出た。
「おお――――!」
もうすでに真っ暗な海。目の前には黒い海が広がっていて、眼下はるか下の断崖には白波が打ち寄せている。
「……明かりが見えぬ」
この海の向こうに島や人が生活する土地があるのなら、水平線の空が少しは白んでいるはずである。それもない。
「朝になるまで眠るとするかの……」
鬼姫はつづらから毛布を出してくるまり、横になった。
「……おおお」
東の海から朝日が昇る。
朝焼けが美しかった。毎日この風景を眺めて暮らすのも悪くないと思えるほどに。だが、いくら遠くを眺めても、島影は無かった。
海の上には行き交う船さえない。
鬼姫は、やはりこの先の海に日本は無いのかと絶望しはじめていた。
涙がにじんでくる。
だが、その前にまずやることがある。
飽きるまで海を眺めた鬼姫は城内に戻った。
このテラスは海への監視・警戒のための展望台であったらしく、テラスの近くに番部屋があった。数人が寝泊まりできる。鬼姫は仮の住まいをこの部屋に決め、城内の探索を始めた。
廃墟である。埃も積もっているし、あちこち建付けが壊れている。
だが本当に誰もいない。
「幽霊ぐらいは出てくれないかのう。話を聞いてみたいわ」
そして一階、正門につながる通路の先に大きな広間を見つけた。
奥には玉座がある。
それは王都で見た大聖堂の教会の祭壇のようにも見えた。
見回すと、あちこちが壊れたり、焼け焦げたり、刀傷があったり矢が刺さっていたり、戦闘の跡があった。
「ここで魔王と勇者が最後に闘ったということになるのかのう……」
よーく周りを見回した鬼姫は、「よし、まず掃除じゃ!」と手を叩いた。
奥の通路で道具部屋を見つけた鬼姫。掃除道具を取り出し、まずは埃払いからだ。箒の柄に長い棒をつなぎ合わせ、高い場所のほこりを払う。
梯子をかけて窓を磨く。
厨房にはこんこんと水が湧き出る流し場があり、水はそこからいくらでも汲むことができた。綺麗に片付け、掃除を行い、鍋に湯を沸かして当面の食事を作る。
まずは玉座の前に台を持ってきて、粗末な食事と一杯の水を供える。
「今用意でけるのはこれぐらいじゃ。もう少しましなものを用意したいが、今は我慢じゃの」
供え物と一緒に玉座の前で昼飯を食う鬼姫。
「魔王殿。騒がせて申し訳ないと思うのじゃ。眠りを妨げておるなら詫びを申す。しかし、いましばらく我慢してもらいたいの。まずはここを掃除して、綺麗にしてから会いたいからの」
「昔はここにおおぜいの魔族が住んでおっただろうに、なんで誰もおらんのかのう……?」
「勇者、なかなかに容赦ないのう……。人の家に勝手に上がり込んでさんざ暴れるなど礼儀をなんと心得ておるのかのう」
「……うちの国でも多くの戦があった。城がいくつも燃え落ちたのじゃ。石造りの城は頑丈じゃのう。勇者との戦でも持ちこたえたかの」
返事はない。鬼姫の独り言だ。
だが、鬼姫はそこに魔王が座っているように話しかける。
そして毎日毎日、鬼姫は掃除をして、供え物をして、城の修理をし、まるで魔王に仕える侍女のように魔王城で働いた。
時には供え物にウサギ、野豚の肉が供えられることもある。
玉座はきれいに拭きあげられ、この玉座の間もずいぶんと綺麗になった。
しかし供え物は翌日になってもいつもそのまま。手が付けられた様子はなかった。
「しばらく留守にする。そろそろ食い物が無くなってきたのでの」
物資が尽きた鬼姫。メデューサが出た廃村まで戻ることにした。あそこにはまだ貯蔵されて放置された穀物や、野生化した作物が収穫できる。
「できるだけはよう戻るの」
玉座に挨拶をしてから、鬼姫は裏戸に回り、ススキの原を歩いてきた道を戻り、つづらを背負って魔王城を後にした。
一週間後。いろんなものを調達して一杯になったつづらを背負った鬼姫は魔王城に戻って驚いた。
正面の大門が開いている!
「魔王、復活したのかの!」
喜んで走り出す。
だが、その中は以前のままだった。
「門を開けてくれて礼を申すのじゃ、魔王殿! 歓迎されておると思ってよいのであろうかの?」
空の玉座に返事はない。
それでも鬼姫は嬉しかった。鬼姫はつづらを開ける。
「お土産じゃ!」
そこからは一本の酒が出てきた。これも廃村に放置されていたものだった。
「先日はこれを忘れておったのう。まずは一杯じゃ」
玉座の前の台の上にコップ一杯に酒を注いで、供える。
「さ、続きじゃ続きじゃ!」
また魔王城の侍女のように、掃除、建付けの修理、厨房の充実に働く鬼姫。
神社に仕えていた巫女の時も、毎日がこんなことの繰り返しであった。
古い社は野分(台風)に壊れ、妖怪に襲われ、野盗や落ち武者に襲われ、古くなっては修繕し、火事にあっては火を消しと、数百年の長きにわたり社とともにあった鬼姫にはそれが苦にはならなかった。
次の日、コップ一杯の酒が無くなっていた。
鬼姫はこれには本当に驚いた。
今まで何を供えてもなしの礫。一週間留守にして門が開いていたのには驚いたが、それ以外、人の住む気配が全くしていなかった魔王城の初めての変化であった。
「魔王殿、たしかにそこにおるのじゃのう……」
鬼姫は玉座に笑いかけた。
「旨かったかの?」
返事はない。
「うーん、毎日出してやれるほど量はあらへんしのう、週に一杯にしておくかの」
鬼姫は考え込む。
「うちが供える飯は不味いか? 手を付けたことが無いであろう?」
鬼姫はちょっとにやりと笑う。
「毎日ちゃんと食うなら、晩酌に出してやってもいいの」
その日から、供えた小皿に載せておいた料理が消えるようになった。
鬼姫はおちょこに見立てた小さい器に晩酌として、酒を供えた。
ある日玉座の前の台に、空になった皿と晩酌の横に金貨が置いてあった。
十枚。
「んんんんん? これは……、もろてええのかのう?」
考えてみれば魔王城で掃除をはじめて、ひと月。給料のつもりかもしれなかった。
汚れてすり切れた古い金貨である。以前、首なし騎士の遺産でもらった古銭のようだ。今の金貨は王の肖像が彫り込んであるがこれは違う。
「おおきにありがとう。……これは……、魔王殿かのう?」
金貨の横顔を見てみる。年齢はわからないが彫り深くなかなかの好男子。頭に牛のような角が生えている。
古く魔王領で流通していた金貨かもしれなかった。
「魔王殿、角が生えておるのか?」
これには鬼姫は驚いた。
「うちとおんなじじゃ!」
鬼姫は頭の髪飾りを取った。
カチューシャのような飾り。前に娼館のマダムからもらったアクセサリーは、鬼姫の角をそういうデザインのように見せていた。
「ほれ、うちにも角がある。うちは鬼族の最後の生き残りじゃ」
玉座に向けて頭を見せてやるが、返事はなかった。
「魔王殿、うちとおんなじ鬼の一族なのかのう。なら嫁にもろてほしいのう」
とんでもないことを言い出す鬼姫。
「まさか、魔王殿オーガではあるまいの? そやったらお断りじゃが」
ぴかっ どんがらがっしゃーん!
魔王城の外に雷が落ちた。
窓ガラスを雨が打ち付ける。
たちまち大雨になった。
「……この程度の冗談でこの騒ぎかの。案外器のちっこい男よのう」
ふんっと鬼姫は鼻を鳴らして、仕事に戻った。
何かの言い訳かのように、その夜、雨は一晩中降り続いた。
次回「72.神楽舞」




