69.犬神の一族 下
朝、目が覚めると鬼姫は古い倉の中に一人だった。
大犬の姿は無い。
「朝餉の狩りにでも行ったかのう?」
鬼姫はしばらく犬の帰りを待ったが、戻らないのでもう一度火をおこし鍋を温め直して昨日の夕食の残りを食べた。
「どこに行ったのかのう……」
まあ鏡は磨いてやったのだし、一宿一飯の礼としてはもう十分だろう。
気にせず旅立つことにして、よく片付けてからまたつづらを背負う。
引き返す道で、少し予感がしてもう一度あの丘に行ってみると、石像が二つになっていた。
「?!」
鬼姫はつづらを置いて丘まで駆け出す。
昨日の石像の横に、もう一つ石像ができていた。
……その石像は巨大な犬が蛇女を襲い、覆いかぶさり、二匹とも共に石に変えられ固まったように見えた。
「かたき討ちかの……」
どうやったのかは知らないが、自分の番を石に変えた蛇女をここまでおびき出し、闘い、石に変えられたのだ。
石になった蛇女は下半身が蛇。頭も髪のかわりに蛇が生えていた。
「ハンターギルドの書庫にあったのう。見た者を石に変えると言うめでうさが」
メデューサである。ギリシャ神話では英雄ペルセウスが鏡の盾を使って、見ただけで相手を石に変えるというメデューサの首を落とした。この世界でもこの大犬が鏡を使ってメデューサに立ち向かった、ということになるだろうか。
「……ようやったの」
蛇女を押し倒し、その首からつるした鏡を蛇女に見せつけた大犬。ペルセウスに劣らない英雄である。鬼姫はその石の首を撫でてやった。
ぱきっ。
鬼姫がその音に驚いて蛇女を見ると、その体にひびが入った。
ぱきっぱきっとひびは広がり、メデューサの蛇のウロコが現れた。
「復活でけるのかの!」
自分の術は自分で解くぐらいのことはできて当然かもしれなかった。
「そうはさせぬわ!」
鬼姫は五尺の金棒を出し、それを思い切りメデューサの首に振り抜いた!
メデューサの首が砕けて、岩の破片から血しぶきが上がる。
首が転がる。
そうしている間にもメデューサの体はどんどんひび割れ、岩かぱりぱりと剥がれ、蛇のような体があらわになる。さながら蛇の脱皮である。
「うりゃあああ!」
鬼姫は、もう髪の蛇がにょろにょろしだしたメデューサの首を思い切り蹴飛ばした!
首は見えなくなりそうになるぐらい吹っ飛んで、丘から谷底へ落ちて行った。メデューサがどうやって敵を石にするかなんて知らないが、すぐにでも距離を置くべきだと直感したのだ。
「いったああああ!」
岩みたいに硬かったメデューサの首。さすがに足を押さえて悶絶する。
メデューサの体のほうは蛇らしい生命力で、なかなか死なずにしばらくうねうねしていたが、首から血をだらだら噴出して、やがて動かなくなった。
「ふー……。悪く思うでないぞ」
それは無理と言うものかもしれないが、呪えるものなら呪ってみろとせせら笑ってやった。呪いだったらもう嫌と言うほど受けている。こんな蛇女の呪いぐらい、どうってことはなかった。
鬼姫はそこらじゅうから小枝、朽木を集めてメデューサの死体の上に組み、燃やした。二つの犬の石像に見守られ、鬼姫はその焚火の炎に祝詞を捧げる。
掛けまくも畏き
伊邪那岐の大神
筑紫の日向の橘の
小門の阿波岐原に
禊ぎ祓へ給ひし時に
生りませる祓戸の大神たち
リーン。
二体の石像は無言のまま。
諸々の禍事、罪、穢、有らむをば
祓え給い
清め給へと白す事を
聞こし食せと
恐み恐みも白す
リーン、リーン、リーン。
深く頭を下げ、次に二体の石像それぞれに、祓串を振るう。
何かが起こる、なんて奇跡は無く、二体の大犬の石像はそのままだった。
「……これ以上何もしてやれぬ。申し訳ないの」
鬼姫は静かに礼をした。
この世界に来て、一番無力を感じたかもしれない。ただ、切なかった。
「せめて二人、このまま像が朽ちるまで、達者での」
笑顔になった鬼姫の目には、涙が流れていた。
鬼姫は丘を降りる。
ちょっとだけ、痛い足を引きずって、東へ。
きっとその先に、なにかが待っている。明日はきっといいことある。そう信じて。
誤字報告ありがとうございます。
また、既に公開済の話についても、煩雑に修正、追記、方言の変更、ルビの追加等、内容の充実に尽力しておりますので、よろしくお願いいたします。
次回「70.蛇女の村」




