68.犬神の一族 上
荒野、最後の開拓村を出て一日。魔王城に向かう鬼姫の前に、一匹の犬が立ちはだかっていた。
「……犬神かの」
見上げるような大きな白い犬だった。
鬼姫はつづらを背負ったまま動かない。
相手の大犬も静かに鬼姫を見下ろしていた。
これが地元の人間たちには、フェンリルと恐れられる狼の魔物だとは鬼姫は知らない。人を襲って食らうことは無くとも、縄張りを侵すことがあれば人を襲い追い払うことは常だった。開拓民にとっては邪魔で恐れ多い敵だった。
開拓村にゆく途中で、数台の馬車とすれ違った。
「あんた、村はもうないよ」と声をかけられたものである。
ちょうど、最後の住人が開拓をあきらめて、離農するところだったらしい。
実際たどりついた廃村跡は人っ子一人いなくて、鬼姫は井戸で水を汲んで水筒に水を詰めるぐらいしかできなかった。
犬神だったら怨霊である。犬や貉などのイヌ科動物を残虐に殺し、その恨みを使役し祟りに変えて呪いとなす。
取り憑かれた人間は祟り憑きとなり乱心する。そんな祟り憑きが化け猫、化け犬、狐憑きと思われていたこともある。古の呪術師が使う禁術であった。
祠や神棚に祈りを捧げ犬神として祀って祟りを抑える土着信仰もあり、そこでは鼬のような姿に描かれることもある。祟り憑きのお祓いを頼まれたこともある鬼姫だから知っていることである。
犬と対峙するこの時、鬼姫はもし相手が祟り神だったら、どう対処するかを考えていたが、怨霊のような邪悪な気配は感じなかった。ただ、大きい犬と思った。
犬なら一番簡単なのは、鼻を金棒でぶん殴ることだろう。鼻は犬の弱点である。これをやればたいていの犬はキャンキャンと泣き叫んで逃げてゆく。
鬼姫は犬は嫌いではないが、こんな対処法を考えるのは人間を襲って噛みつこうとする野犬や野良犬も珍しくない時代に生きていたのだからそれは仕方がない。
お互い相手の出方を見守るにらみ合いが続いたが、ふと大犬は力を抜いたかのように目を細め、顎をしゃくって、後ろを向いた。
ついて来いと言うようにゆっくり歩いて振り向いたりする。
「……どういうことかのう?」
なんだか面倒に巻き込まれそうな気がするが、まあ犬相手にこの程度で怒るような鬼姫でもない。面倒さよりも興味が勝った。てくてくと後ろをついて行く。
長い距離を歩き、丘の上に来た。
そこには犬の石像が建っていた。
「……ご先祖様の像かの?」
大犬は首を振る。
近づいてよく見るが、非常に緻密で実物の大犬がそのまま石になったという感じである。鬼姫はその石像をよく調べてみたのだが、ここまで案内してきた大犬によく似ていると思う。新しい。出来上がって数年も経っていないだろう。
鬼姫が石像を調べている間も、案内してきた大犬はただ後ろで無言のまま佇んで、鬼姫を見ているだけである。
「……これはどういうことかのう?」
ゆっくり歩いてきた大犬は、くーんと悲し気に鼻を鳴らし、すりすりと石像に身を摺りつける。
犬はオス。石像はどうやらメスのようであった。
「娘?」
犬は首を振る。
「番かの?」
頷いた。
「番が石に変えられたのかの」
犬はくーんと悲し気に鼻を鳴らす。
……ギルドの資料で見た獲物を石に変える魔物。鬼姫はいくらなんでも無い話だと思っていた。日本では小泣き爺のように自分が石になる妖怪がいるが、人を石にする妖怪はさすがにいない。獲物を食べられない石に変えてどうすると思う。
「元に戻るかどうかはわからへんが、お清めしてみてもええかのう」
犬が頷いたので、鬼姫は祓串を取り出し、祝詞を捧げ、お清めをやってみた。
鬼姫が祝詞を唱え祓串を振る間、犬は神妙に頭を下げて共に祈りを捧げているようにも見えたが、残念ながら、なにも変化はなかった。
「……申し訳ないの。どうやら無理だったようじゃ」
犬は後ろを向いて歩き出した。振り返ってこっちを見る。
やはりついて来いと言いたいようだ。
鬼姫は素直について行く。
やがて、古い廃墟の街に入った。もう数十年も前に開拓をあきらめて廃村になったらしい。その中の崩れかかった大きな倉のような建物の中に入る。
鬼姫がランタンに灯りを灯し、中に入ってゆくと、犬は一枚の緑青の塊を咥えてきた。鬼姫はそれを受け取って見る。
「銅鏡じゃの」
平らな青銅でできた鏡である。さび付いて緑色の緑青に覆われ、今はもう姿を映すことはできないが、昔はこれをピカピカに磨いて姿見の鏡にしていたはずだ。
「これを磨いてほしいということかのう?」
犬は頷く。どういう事情があるのかはわからない。
「わかったのじゃ」
鬼姫はつづらから取っ手の付いた鍋を出し、「これに水を汲んできてくれぬかのう?」と頼んだ。
犬はそれを咥えて、外に出て行った。鬼姫は布を敷き、その上に銅鏡を置いて、さらにつづらから砥石を出す。いつも刃物を研ぐために持ち歩いていたものである。
ほどなく犬が鍋になみなみと水を汲んで咥えて持ってきてくれた。
「んー、意外と水場がねきにあるのじゃのう。あとで教えてもらえるかの?」
鬼姫は鍋の水をまずごくごくと飲んでから、残りの水に砥石を浸した。
「うちは神社で巫女をやっておってのう」
銅鏡の前に座って鬼姫は犬に語る。
「うちのおった紅葉神社の御祭神は天照様での、鏡が祀ってあったのじゃ」
伊勢神宮の八咫鏡が良く知られているが、全国に天照大神を御祭神とする神社は多く、天照の象徴である鏡が神棚に鎮座しているのは普通の光景である。
「その鏡を磨くのもうちの仕事でのう。宮司はどいつもこいつも不器用での、うちが一番上手だったのでやらされておったのじゃ」
砥石に十分水が浸透した所で、鬼姫は鍋から砥石を取り出し、まずは中砥からしゃーこしゃーこと、銅鏡を磨きだした。
「鬼の巫女様がありがたくも鏡を磨いてくれるとかおだてられてのう。文句も言わずやったものじゃ……」
久しぶりに鏡を磨く鬼姫。その様子は笑顔で、どこか嬉しそうだった。
まずは表面の錆びた緑青を落とす。次にすり合わせて平らにした砥石でゆがみが出ないように表面を研いでゆく。
平面が出たら、仕上げ砥石で丹念に研ぐ。
鬼姫の顔がぼんやり映るぐらいになった。
最後に仕上げ砥石をこすり合わせて細かい砥の粉を作り、仕上げ砥の研ぎ汁と混ぜ合わせ、それを布を丸めて作ったたんぽに付けて綺麗に磨いてゆく。砥石でできた研ぎ筋を消すように、ぴかぴかになるように。
鏡は手間をかけて磨けば磨くほど、美しく輝く。そんな達成感がある充実した仕事を久しぶりにできて鬼姫には楽しかった。青銅の鏡は、銀にほんの少しだけ金色がかった、傷一つない鏡に磨きあがった。
「ほれ、どうじゃ!」
ほぼ半日がかりの仕事であったが、その間身動きもせずに鬼姫の仕事を眺めていた犬は、磨きあがり自分の顔が映るようになった鏡を見てくうーんと声を上げて尻尾を振った。
「はあー……しんどいのじゃ。鍋を洗いたいのじゃが、水場に案内してもらえるかのう」
鍋に使ったボロ布を入れて、鬼姫は身を起こしてうーんと背伸びした。
倉の外に出るともう日は暮れていて、薄暗かった。
犬は廃墟の中央、岩が組まれた水が湧くオアシスの中心の小池に案内してくれて、鬼姫もごくごく水を飲んでから鍋に入ったボロ布をよく洗い、鍋に水を汲んだ。
「夕飯にしたいのじゃ。火を焚いてもええかのう?」
犬は頷いてくれたので、倉の外で崩れた煉瓦を組んで簡単なかまどを作り、廃墟から古い板材を集めて火を焚いて鍋を沸かした。
湯を沸かす間いなくなっていた犬はいったいどこから捕ってきたのか、鳥を咥えて戻ってきた。
「おおきい鳥じゃのう! 水炊きにするかのう!」
黒い白鳥、という感じの首の長い大きな鳥をせっせと羽をむしり、ぶつ切りにして調味料を少し目に、煮込んでみた。
「熱いからの、よう冷まして食べいな」
持ってきてくれた礼に、皿に載せて犬に分けてやると、ためらいなく食らいついた。鬼姫もニコニコしながら夕食にする。
焚火の前で夜空を見上げた。
「ここはいったいどこなのかのう……」
鬼姫にはこの世界の北極星がどこにあるのかわからない。
街道も無い場所で夜に歩くと、迷うことが多かった。
夜のうちにここを立ち去るのはやめておこうと思う。
「……今夜は泊めてもろて、ええかのう?」
犬は頷いた。
夕食を片付け倉に戻ると、犬が鏡の前で自分の首をひっかいた。
「?」
鏡に前足を置き、それを自分の首に当てるのである。
「首に吊るしてほしいのかの?」
犬は頷く。
鬼姫はつづらからロープを出して、それで鏡を括り付け、犬の首に下げるようにしてやった。
つづらから毛布を出して、それにくるまって寝ようとすると、犬が寄ってきて鬼姫をくるんと抱き込んでくれる。
「……もっふもふじゃのう」
久しぶりにあたたかいぬくもりを感じながら、鬼姫は優しい気分で眠りにつくことができた。
次回「69.犬神の一族 下」




