22.餓鬼道 上
鬼姫は駆けていた。
街道の登り横道を物凄い俊足で駆け上がる。
「さいぜんの感じはなんじゃ。魔法か?」
その額を冷や汗が伝う。
初めての村で神父にかけられた言語翻訳の魔法。あの全身を触られたかのような鳥肌の立つ異様な感覚。それと似た気配を遠くで感じたのだ。
それが何なのかは鬼姫には分からないが、はるかに邪悪な感じがする。
その気持ち悪さが鬼姫を焦らせ、走らせる。
煙が上がっている。かまどや焚火の煙ではない。火事ではないか。
小川が流れる森の小道を通り抜けると、そこは地獄だった。
白濁した目、変色した腐りかけの体、不気味によたよたと歩く男、女。そんな不気味な人間たちが、集落を徘徊している。
「餓鬼か!」
餓鬼。生前悪い行いをしたものが地獄に落とされると餓鬼になると言われている。地獄絵図で鬼に責め苛まれるのはこの餓鬼の場合もある。これが何かの間違いで現世に現れると、地獄と同じように常に飢え、渇きに苦しめられ、人を襲う悪霊となる。
餓鬼は仏教の教える悪人の行く末であるが、日本の歴史においても、深刻な飢饉が起こると多くの人が飢えに苦しみ人肉にさえ手を出した。がりがりに痩せ衰え、内臓を支える肉さえなくなって腹が突き出す不気味な姿となり、それが餓鬼のようだとされることもあった。
「悪霊――――!」
鬼姫の上げた大声に気がついたのか、五匹いる餓鬼たちが振り向いてこちらに向かってくる。
祓串を出した鬼姫は早口で祝詞を捧げた。
「掛けまくも畏き伊邪那岐の大神筑紫の日向の橘の小門うぉっ!」
一人、つかみかかってきた。それを身をよじってかわす。
「つうっ、小門の阿波岐原に禊ぎ祓へ給ひし時に生りっ、なんじゃこいつら!」
悪霊ではないのか?
実体がある!?
そもそもこの者たちは、やせ衰えた餓鬼ではなく、泥だらけではあるが生前はこの世界の民のごとく、労働者の体躯、風体であり、まるで死体が動いているようだった。
死後硬直で動きにくい体を無理やり動かしているような。
「……生りませる祓戸の大神たち諸々の禍事、罪、穢、有らむをばっ、放せ!」
つかみかかる数人を振りほどき、離れる。
かわしながら祝詞を唱えるうち、囲まれてしまった。
「祓え給い清め給へ!」
祓串は全く効き目が無い!
のろのろとした動きのくせにいつのまにか取り囲まれている。餓鬼の怖いところであった。切羽詰まった時の鬼姫は、目が吊り上がり牙と歯が尖る鬼の形相が出る。いつものような余裕が無い証拠である。
「ふんっ!」
鬼姫は祓串から大薙刀に得物を替えて振り回した。刃渡り二尺五寸、全長七尺五寸の伝、宗近の岩融である。
振り回したのは柄のほうだ。これが餓鬼であろうと元は人間、斬って捨てるわけにはいかなかった。五人の餓鬼が跳ね飛ばされて倒れ伏す。
「祓え給い清め給へと白す事を……くっ」
人間だったらこれで全員気絶である。それほどの打ち込みだったはず。
だが餓鬼たちは鬼姫の打ち込みをまるでなかったかのようにのろのろと起き上がり、再び迫ってくる。死臭が漂い猛烈に臭い……。
「聞こし食せと恐み恐みも白すっ!」
「うわああああ――――ん!」
燃え上がる小屋から子供の泣き声が聞こえてきた。
誰かが火に焼かれようとしている。一刻の猶予もなかった。
「御免!」
鬼姫はたまらず、餓鬼たちの足を柄で薙ぎ払った!
全員膝をついて倒れる。
だが、再び起き上がり鬼姫につかみかかろうと追いすがる。痛みを感じている様子は全くない。
「これでもかっ!」
腹を決めた鬼姫は薙刀で餓鬼の一人の首を刎ねた!
ばたっと倒れる餓鬼。
やむなく鬼姫はその場にいる残り四人の餓鬼の首を次々落とす。
「助けて――――!」
子供が泣いている。
「臨兵闘者皆陣裂在前……」
薙刀を捨て印を結びながら燃え上がる小屋に突入する。
ぶわっと小屋から大きな炎が噴き出し、窓を突き破って子供を抱きかかえて飛び出した鬼姫は地面に転がった。
黒く薄汚れた鬼姫と小さな女の子。二人、危なかったと座り込む。
「……娘、大丈夫か? やけどはしておらぬかの」
「熱い……。痛いいいい……ぐすっ」
「もう大丈夫じゃ。少し我慢じゃぞ」
鬼姫は女の子を抱きかかえ、井戸を探した。
街で見たのと同じ手漕ぎポンプがある。その水場に女の子を横たわらせ、ポンプを漕いでやけどした手足に冷たい井戸水をかけてやった。
「誰かおらぬか――――!」
声を上げて見回すと三軒ほどの、丸太組みの人家が建っている森の中の集落だ。
「誰か――――!」
丸太小屋の扉が開いて、二人の男の子が出てきた。助けた女の子より更に幼い。
「……お前、誰だ?」
二人、恐怖に震え、スコップと斧を突き出してくる。
「鬼姫じゃ。ハンターをやっておる……。まあ助けに来たと思ってもろてええ。小僧、一体ここで何があった?」
「うわーん!」
三人が鬼姫に抱き着いてきて泣きじゃくる。話を聞くどころではなかった。
燃え上がる丸太小屋はもう手の施しようがない。燃えるに任せ、鬼姫はすまないと思いながらも残された小僧たちの丸太小屋を勝手に家探しする。
女の子をベッドに寝かせ、布を縛りやけどを覆い、治療をした。
ありあわせの食べ物をかまどに火をおこし、鍋料理をしてふるまう。
「……この娘の親御殿が亡くなったのだな?」
「僕たちはお父さん、お母さんと仲間たちで、ここで砂金を採っていたの」
山の集落。小川で砂金が採れるらしい。金持ちにはなれなくとも、三家族が生きていけるぐらいの収入はあったのだろう。
三家族で三軒の家。娘は父と二人、男児はそれぞれ両親と子一人であった。八人で一つの家族のように山師をしていたということになる。
娘の父はなぜ死んだのかはわからない。事故とも他殺とも取れる死に方で砂金の採れる川で倒れていた。
街までは遠い。やむなく祈りを捧げ土に埋めたところ、今日になってその死体だった娘の父が、墓から起き上がり土を割り中から蘇り、この男の子たちの両親たちをも襲ったとのことである。大人たち全員が餓鬼になった理由はわからない。
子供たちは扉につっかえ棒をして隠れ、身を潜めていた。
娘は父を失った悲しみに耐え、なにか食べねばと火を起こしていたときにその事件が起こり、蘇った父だった餓鬼が小屋を襲い、娘が隠れているうちに火元をひっくり返し火事になったらしい。
実の両親たちが餓鬼になったのである。さぞかし怖かったに違いない。
子供たちは泣き疲れて寝てしまった。
もう夜になった。
子供たちが寝ているうちに、鬼姫は燃えて崩れ落ちた娘の丸太小屋を片付けた。
集落に集めてあった薪を組み、地面に転がったままだった五人の首と、首なし死体を薪の中に集めて、口から火を噴いて荼毘に付す。
土葬した死体が蘇ったとなると、さすがに埋め直すわけにはいかず、火葬にするしかなかったのである。
燃え上がる炎に向いて、鬼姫はお清めの祝詞と、死者を送るための祓串を振るう。
リーン、リーン。
深夜の森の中、赤々と炎に照らされたちいさなちいさな集落に、鈴の音が響き渡った。
次回「23.餓鬼道 中」




