1.鬼姫、蘇る ※
古都。平安より続くと言われる紅葉神社。
その神社の近くの河原に小さな祠があった。
最後の生き残りであった、女の鬼が祀られているとされる、どこか女性的なかわいらしさを感じさせる祠である。
様々な伝説に残る、英雄と妖怪たちの戦いの歴史はそのほとんどは実話ではないかもしれない。この祠に祀られた最後の鬼も、伝説に残る物の怪の末裔とも、人間と共存し穏やかにその生涯を終えた鬼とも言われるのは事実かどうかはもうわからない。
そして現代。その小さな祠は、最後の鬼が女だったという伝説のため、昨今のご当地ゆるキャラ、擬人化、二次美少女ブームに乗っかってキャラ化され、「鬼姫様」、「鬼子ちゃん」などと親しまれ、地元の古都市民だけでなく観光客や歴女、オカルトマニアの聖地として参拝客も絶えず愛されていた。年に一度の神社祭には神楽舞も披露され、古都の人気スポットの一つである。
だがその日、発達した超大型の台風は予報を大きく外れ、古都を直撃するコースをたどる。市の中央を流れる川は増水し、濁流となってどんどん水位を増していた。
「おーい! このままじゃ鬼姫様が流されるぞ!」
「なんだって!」
「早く! このままだと鬼子ちゃんが!」
地元の消防団、青年団が慌てて河原にやってくる。暴風雨の中、その祠はもう半分以上濁流に漬かって傾いていた。
「ロープ掛けろ!」
「離すなよ――!」
「気をつけろ――! 木が流れてきたぞ!」
「危ない――――!」
その救助活動を見守っていた多くの市民の悲鳴は暴風雨にかき消される。
流れてきた倒木は濁流に揉まれ暴れながら、腰まで水に漬かって作業をしていた六人の青年団、消防団のメンバーを押し倒し、祠と共に泥水に飲み込まれ、あっという間に流されて急流の中に消えていった……。
すぐに行方不明者の捜索が行われた結果、六人の男たちが下流の川岸に打ち上げられ、気を失って倒れていたのが発見された。
命に別状はなく無事であり、多くの人は「奇跡だ」、「あの濁流の中、よく助かった」とその幸運に胸をなでおろしたが、「鬼姫様が助けてくれはったんや」、「鬼子ちゃんのご加護だ」という古都市民、ネット住民の声も大きく盛り上がってしまった。
地元では人気の観光スポットであったこともあり、すぐに祠の再建が決められたが、「また台風になったらどうする」、「立地を考えろ!」と代替地を求める声と、「あの場所を動かすのは鬼姫様にとっても本意ではない」とか、「紅葉神社に鬼を迎えるのか!」という反対の声も上がり揉めに揉めている。
また、濁流に流されてしまった祠も結局見つからず、紅葉神社は対応に苦慮しているとのことである。
紅葉神社 鬼姫絵馬
◆ ◆ ◆
「ぶはあっ!」
穏やかな水面から水しぶきを上げて、女が顔を上げた。
泥だらけになった黒髪と顔が、大きく息をする。
「はーはーはー……。まったく、いらん手間かけさせおって……」
そして周りを見回す。
「ん? 野分(台風)はどうなったん? 雨風がやんどる」
不思議そうな女はそのまま川岸に向かって泳ぎ出した。
足が付く深さになり、立ち上がった女は、岸に向かって歩き出す。
「……べべが泥だらけじゃ。まったく」
女はその場で着物を脱ぎ、水に浸して洗濯を始めた。
女としては大きな体躯。鍛えられた見事な肢体にくびれた柳腰。そして腰まである長い黒髪。まだ若き美女であった。
そしてその頭には、一寸五分の角が左右に生えている……。
「川の水がきれいじゃの。野分が過ぎてもう数日は経っとるのう」
ついでに体も洗った女は服をまとめてねじり、絞って肩に担ぎ、岸に上がった。白い肌が美しい、褌一丁に胸にさらしの半裸である。
その身の丈は六尺近い。
「んー人気が無いの。ずいぶん流されたのう。どこじゃのここは?」
見回しても林の中を流れる清流。覚えのあるはずの川幅も狭く、鳥がさえずり、自然豊かな山林と言えた。
「下流に流されたのならもっと川幅が広いはずじゃ……。あやつらは無事だったかの?」
祠と一緒に流された六人の男たち。面倒でも助けてやらぬわけにはいかなかった。夢中でそこまでしか覚えていない。
「ふふっ。鬼子のうちを祀り、うちを守り、助けようとするか。これだから人っちゅうもんはおもろいのう……。まだまだ情けというもんがあるんじゃのう」
腰ひもを木と木の間に渡し、着物を広げて干す。古の紅葉神社の巫女装束である。
流木を拾ってきて積み上げた。もうすぐ日が暮れる。
「どこだかわからへんが、是非もなし。今日はここで野宿じゃの……」
大きく息を吸い込み、口に指先を触れ、吹く。
鬼の大女の口から細く、火炎が噴出して集めた流木に吹きかけられる。
しばらくして、乾燥した流木は燃え上って焚火となった。
火に照らされ、手を前に伸ばし、手のひらを広げたり閉じたりして、自身の腕を見る。
「んー、なんで体があるんかの? けったいやのう……。うちは普通に死んで葬られたはずじゃ。なんぼ鬼だからいうて、訳もなく生き返ったりできひんわの……」
数百年も前の事なので、自分が何で死んだか、いつ死んだのかも定かでない。
「紅葉神社の居候で雑用ばかりやらされとって、それでも何代目かの宮司はうちが死ぬときは手を握って床に涙を落としたものだったがのう……」
一番近いはずの記憶が、一番遠い記憶のようでよく思い出せない。祠に祀られていた、という記憶もあるのだ。自分の死後のことのはずなのだが。
思い出したくても断片的すぎて、だんだんどうでもよくなってきた。
「それにしても腹が減ったの! なんぞ食えそうなものはないんかのここは!」
誰かいればいいと思って上げた大声だったが、がさがさと音がして、月明かりの中、対岸より何かが近づいてくる音がした。
「お、晩飯かの!」
鬼女は立ち上がり、暗闇に目を凝らした。
草むらの中から顔を出したその物の怪は、熊だった。
「大きいから妖怪かと思うたら熊かの。この辺にもまた熊が出るようになったのかのう……。こんな都には出んようになってずいぶんたつはずじゃが」
黒い熊は水しぶきを上げ、川をバシャバシャと対岸より渡ってくる。体躯は六尺以上あり、目方は五十貫を超えそうだ。
「人を恐れんクマじゃの。あんなんではいつ人を襲うかわからへん。気の毒じゃがこれはもう晩飯になってもらうしかないのう」
鬼女は背中に手を回し、「はっ」と声を上げて振り下ろした。
その手にはいったいどこから出したのか、五尺の金棒が握られていた。鬼といえば金棒。その金棒は黒鉄の長い先太に、ごつごつと尖った鋲が無数に生えている巨大な得物だ。それを両手に握り、振り上げる。
熊は白い半裸の鬼女に向かって、そのまま力ずくで押し倒そうと全力疾走してきた。熊の最大攻撃は爪でも牙でもなく、その巨体と鹿をも追い襲う脚力を生かした押し倒しである。
あの巨体で組み敷いてしまえばどんな獲物も無力にならざるを得ない。あとは嚙み千切ろうと、爪で引き裂こうとやりたい放題であると熊は知っている。強靭な毛皮、重い体躯、恐ろしい腕力を存分に使った反撃を一切許さぬ一方的な攻撃だ。
だが鬼女は逃げなかった。ドスドスと駆け寄ってくる熊に正対したまま、金棒を身構える。
熊がその巨体を伸ばして牙を剝き、両前足を前に伸ばし飛びかかったその瞬間、金棒は物凄い勢いで振り下ろされた。
熊はその金棒を真正面で受け、頭蓋を砕かれ、顔を河原に突っ込み、前倒れに地に伏せ勢いのまま転がった。
それを避けた鬼女は打ち下ろした金棒を再び振り上げ、もう一度頭に叩き伏せる。頭蓋はすでに砕けている。血しぶきが舞った。
月光に血を浴びながら、鬼女は何度も何度も金棒を熊の頭に叩きつけた。
ふと手を止める。
「ん? もう死によったかの?」
金棒でつんつんととっくに動かなくなっている熊をつつく。
「うーん……。臭いのう。食えるのかのこれ……」
野生動物特有の獣臭が周りを包む。
「うちまで臭うなりそうじゃ……。ま、贅沢は言うてられんの」
倒れた熊をひっくり返し、またどこから取り出したかわからない短刀で腹を裂く。
せっかく頭だけを潰して仕留めた熊だ。きれいに剥いで一枚物の毛皮にしないと宮司の奴もがっかりするだろうと思う。以前長刀で滅多切りにしたら「毛皮がわやくちゃや!」と怒られた記憶が蘇る。
「晩飯じゃ晩飯じゃ! まずは腹ごしらえといこうかのう!」
終始笑顔の血まみれ鬼女は、熊の四肢の毛皮を剥ぎ、背肉の一番うまいところを切り取って枝に差し、焚火にかざして火炙りにしてからかぶりついた。
「うーん……。不味い。やっぱり獲ったばかりの肉は臭くてかなん」
鍋にして味噌煮にしないとだめかと思う。
「……? 月の輪ちゃうんかの。こんな熊見たことおへん」
剥いだ毛皮を広げて改めて見る。喉元下に白い毛が無い。
殴られてぐしゃぐしゃの頭だが牙が長い。口から大きく下に伸びてまるで海獣のような牙だ。
鬼女はこんな異様な熊は知らなかった。
「うちはいったいどこに来たんじゃ?」
見上げた月は、餅を突くうさぎとはなんだか模様が違って見えた。




