父と娘
「わからない連中だな!」
円卓の間の扉の前まで来たアーニャの肩は、室内から聞こえてきた怒声に驚いてびくりと跳ねる。知らない男性の声だ。声の主はディウルスが招いた王のうちの一人だろうが、ディウルスはもちろんロイドやバルトロイではないようだ。
二日前から続く会談はずっとこの調子だった。ディウルスの様子が気になって円卓の間の前までいけば、必ず言い争う声が聞こえてくる。諸王は迎賓館に泊まっているのだが、円卓の間にいない時でも彼らの間にはぎすぎすした空気が漂っていた。さすがのディウルスも疲弊しているようだ。
平和的に解決するための会談だと聞いていたが、アーニャの勘違いだったのだろうか。扉の前に立つ騎士達に訊いても、「最終的には平和な方向にもっていきたいのは全員一致で間違いないとは思いますが、ことはそう単純じゃないんでしょうね」という曖昧な返事しか返ってこない。彼らの表情もすっかり疲れ切っていた。
諸王は朝早くから円卓の間に集まり、数度の休憩や食事を挟んで夜遅くまで論戦を交わしている。
アーニャがディウルスに会える時間はほとんどなく、わずかな隙間の時間を縫って様子を見るぐらいのことしかできないので会談の進展具合はわからなかった。
しかしちょうど一区切りがついたのか、円卓の間の扉が開かれる。外の空気を求めてか、四人の王が廊下に姿を現した。
その中にはバルトロイとディウルスもいる。バルトロイはアーニャを一瞥したが、声をかけようとはせずにそのまま向こうに行ってしまった。ほか二人の王に失礼に当たらぬよう挨拶をしてから、アーニャはディウルスのもとに駆け寄る。
「ディウルス様、大丈夫ですか? その、話し合いのほうは……」
「ん、ああ。お前が心配するようなことは何もないぞ。ただ、どの王もそれぞれ譲れない部分があってな。そのせいで何度も衝突しているだけだ。調整さえうまくいけばなんとかなるだろう」
「……やっぱり、わたしがトール皇子に嫁いだほうがいいんじゃないでしょうか」
トールがアーニャを欲していることを知っているのは、ディウルスとバルトロイ、そしてヴィーザルだけだ。
国の威信やディウルスとアーニャの名誉にかかわることだとして、ディウルスはヴィーザルにしかそれを伝えなかった。ヴィーザルに教えたのは、トールに対する抑止力になることを期待しているためだという。
しかし他の王がその裏事情を知らないとはいえ、アーニャさえ嫁いでしまえばトールはクラウディスへの侵攻をやめ、アライベルが戦争を起こすこともなくなる。
損害の補填を求めなければならないため会談を終わらせることはできないだろうが、少しはディウルスの心労を減らすことができるはずだ。
そう言って顔を伏せると、数秒とおかずにぐいと顎を持ち上げられる。俯くことを許されなかったアーニャは、ディウルスの目をじっと見つめるしかなかった。
「俺を信じろ」
言葉は短かった。すぐにディウルスの手はアーニャから離れる。仮眠を取ってくると一言残し、ディウルスは立ち去ってしまう。一人残されたアーニャは、いたたまれないやら嬉しいやらでなんだか自分の心の中がよくわからなくなった。
*
「アーニャ様。バルトロイ国王が、アーニャ様にお会いしたいとおっしゃっております」
「お父様が?」
「陛下からは、もしバルトロイ国王がいらしてもお通ししなくてもよいと仰せつかっておりますが、いかがいたしますか?」
夕食を終えてすぐのことだった。リアレアから告げられた急な来客が信じられず、アーニャは目をしばたかせる。
バルトロイは迎賓館での夕食を終えてまっすぐにアーニャのもとに来たらしい。先触れなどはなかったそうだ。しかし拒むだけの正当な理由があるわけでもなく、アーニャは父の訪問を受け入れた。
「久しいな、アーニャ。元気そうで何よりだ」
「……お父様も、お変わりないようで安心しました」
かつてはろくにこちらを見てもくれなかった宵闇の瞳が、今ではまっすぐに向けられている。アーニャは思わず目をそらした。バルトロイは構わず続ける。
「まったく、お前も災難だったな。婚礼を間近に控えた身だというのに、まさか帝国の皇子にまで求婚されるとは」
「トール皇子については、わたしの望んだことではありませんから」
責められるいわれはないと、ちくりとした棘を含んだ答えを返す。
アーニャに近しい人々は、アーニャがトールに対して好意的な感情などみじんも抱いていないことをよくわかってくれているが、下衆な勘繰りをしてくる者はどこにでもいる。そんな誤解はされたくなかった。特に父には。
「それはわかっている。……お前がこんな目に遭っているのは余のせいかもしれん。お前にその名をつけたのは、他でもない余なのだから。これもまた呪いなのだろうな」
巡る因果の娘アスタニア。クラウディスでは知らぬ者のいない寓話集の中に収録されている、先祖の犯した罪の償いを生まれながらにして課せられた少女の物語だ。その主人公こそがアーニャの名前の由来だった。
寓話の主人公アスタニアは、神の怒りに触れた罰として呪われている一族の娘だった。アスタニア自身は何も悪いことなどしていないのに、生きているだけで様々な不幸に襲われるのだ。そんな不条理な呪いを解くためアスタニアは熱心に神に祈り、日々善行を積んでいく。
しかし長い年月をかけて彼女の一族を蝕んできた呪いは根深く、その業はアスタニア一人では禊ぎきれなかった。誰にも助けてもらえなかったアスタニアは非業の最期を遂げ、死によってようやく呪いから解放される――――そんな救いのない話だ。
伝える教訓は、こんな悲惨な目に遭いたくなければ神に祈って真面目に生きろというものだったか。
アーニャはこの話が好きではなかった。さすがは名前の由来、アスタニアの物語は創作だと笑い飛ばせないほどにアーニャの置かれていた現状と重なっていたからだ。
バルトロイが言っているのは、アーニャの母ネルとその元女主人サリエッタのことなのだろう。
バルトロイを巡って二人の女が争い、敗れた女は呪いをかけた。そして今、アーニャを巡って二人の男が争っている。ディウルスとトールの間で板挟みになっているアーニャを見たバルトロイが、親世代の業が娘のアーニャに降りかかったと見るのも自然なことと言えた。そう、まるでアスタニアのように。
「それは違います、お父様」
だが、アーニャはそれを否定する。
こうなってしまったのは偶然だ。サリエッタの呪いはもちろん、親の報いなどではない。この期に及んで因果に左右されるなんて、そんなことは認めない。
「今のわたしを取り巻く問題は、お父様のそれとは違います。それにわたしは、アスタニアのように不幸ではありません。孤独なアスタニアとは違って、わたしには支えてくれる人がいます」
呪われた出自が、恵まれなかった幼少期が、ぶつけられた数々の悪意が、父のせいでなかったとは言わない。そのことを恨んでいないとは言わない。けれどそれは、今は関係のないことだ。
「……」
バルトロイは無言で娘を見つめた。アーニャもじっとバルトロイを見る。永遠にも思えるような沈黙のあと、バルトロイは気まずげに顔をそむけた。
「お前は……変わったな」
バルトロイは小さくそれだけ言って、この話はもう終わりだというようにわざとらしい咳払いをする。案の定、バルトロイはすぐに違うことを話し出した。
「国のことなら心配するな。トール皇子の私兵はまだいるが、正規の帝国軍でないならまだやりようはある」
クラウディスに届けられた書状が偽装であることは、すでに皇帝ヴィーザルに確認済みだ。
ヴィーザル曰く、印章は確かに皇家のものだが自分の筆跡ではないらしい。そもそもヴィーザルはクラウディスに使者など遣わしていないという。当然、帝国兵をクラウディスに潜伏させているということもない。すべてヴィーザルに無断で行われた、トールの独断だということだ。
トールの私兵が帝国の外に向かった様子もないから、私兵と言ってもその実態は各国から消えた傭兵だと思われている。もっとも、一国の皇子が私兵を無断で他国に潜伏させていた事実に変わりはない。非公式ではあるがヴィーザルはバルトロイに対して正式に謝罪し、クラウディスに対してもそれなりの便宜は図るという。もちろん理由は公にできないことなので、何かしらの大義名分が必要だが。
「余が長く国を空けるというのは不安だが、それほど心配することではないだろう。余の留守を任せている者はみな優秀な者ばかりだ」
「……そうですか」
なんと言えばいいのかわからなかった。アーニャは曖昧な返事をし、ティーカップに手を伸ばす。
バルトロイは“渋るディウルスを直接説得するため”という名目で周囲をごまかし、アライベルに来ていた。その訪問の本当の目的を知る者はクラウディス内にはいない。仮にトールの手の者の監視がバルトロイについていたとしても、アライベルの転移の陣を踏んだ時点ですべてを遮断している。それが人であっても魔術であっても、アライベルでのバルトロイの様子を知ることはできない。
だが、バルトロイがいないぶんトールの私兵や唐突な帝国の使者に対する抑止力が減るだろう。とても口にはできないが、バルトロイには早く国に帰って欲しかった。国防という意味以外にも、アーニャの心の平穏のためにも。
それがわがままだというのはわかっている。だから口には出さない。ディウルスはアーニャのために手を尽くしてくれていて、そこにバルトロイが同席する権利があっただけのこと。たとえ仲が冷え切っていても実の父娘であることにかわりはなく、アーニャがバルトロイを忌避する正当な理由はない。当然会談が長引くことに文句など言えるわけもないので、バルトロイのアライベル滞在はアーニャにとってどう対処すればいいのかわからない事態だった。
そんなアーニャの困惑を感じたのか、バルトロイは居心地悪そうに身をよじった。しかめっ面のまま紅茶で唇を湿らせ、バルトロイはもごもごと口を動かす。
「……お前とディウルス陛下の婚約発表をした宴だが、行けなくてすまなかったな」
「気にしていませんよ。お父様はお忙しい方ですし」
「あの時は代わりにリューハイルに行かせたが……だいぶ礼を欠いた振る舞いをしたと聞いている。ディウルス陛下から抗議の書簡が届いた時は驚いたぞ」
「……」
それに父がどう対応し、異母兄がどうなったかは知りたくもない。いくらディウルスが抗議したところで、リューハイルの母である第二王妃が過剰に彼を守るだけだ。とはいえアーニャとしては、リューハイルを罰してほしいわけではなかった。ただ一言、謝罪が欲しかっただけなのだが。
「あー……どうだ、最近。ディウルス陛下とはうまくやっているか?」
「ええ、大変よくしていただいています」
「そ、そうか。側近達はよくお前に仕えているのか?」
「はい。みなさん、とても優しい人ばかりです」
話題に困ったのか、バルトロイは突然そんなことを訊いてくる。淡々と答えるアーニャに調子を狂わされるのか、あるいは話題を膨らませられなかったのか、そんな問答もそう長くは続かなかったが。
それからバルトロイはアーニャのいない間のクラウディスの話をした。それはいわゆる世間話というもので、平和的で牧歌的なものばかりだ。
けれどそのほとんどはアーニャの知らないことを対象としたものだった。大酒飲みの騎士団長の名前も、ぎっくり腰になった侍女長の名前も、結婚が決まった宰相の息子の名前も、隔離されて育てられたアーニャは知らない。知る必要がないと言われたから。知る必要がないと思ったから。エバやウィザーを除けば、アーニャと外の世界を繋いでくれるものなどなかったから。
バルトロイの口から出る、知らない人達の近況。それはまるで別世界の話のようだった。どうしても興味が持てず、アーニャは話を聞き流す。けれどバルトロイは何も気づいていないようで、それが二人の間にある距離感を示していた。
もう話すことがなくなったのか、しばらくしてバルトロイは口をつぐんだ。不意に彼は真剣な眼差しをアーニャに向ける。
「……アーニャ。お前の目から見て、アライベルはどういう国だ?」
「いい国ですよ、とても。王妃としてディウルス様とともにこの国を守っていきたいと思うくらいには、わたしはこの国を愛しています」
「そうか。……ならばクラウディスは、お前にとってどういう国だった?」
「……」
何を言わせようというのか。アーニャは唇を固く引き結んだ。
もしアーニャがクラウディスにいた時にトールから縁談を持ちかけられていたら、迷うことなくそれを了承しただろう。しかしそれはクラウディスを守りたいからではない。国の利益になる結婚をすることがクラウディスの王女としての役目であり、疎まれている自分を求められては拒むことなどできないからだ。
見知らぬ異国に嫁ぐ悲壮感も、家族や故郷から遠く引き離されることを恨む気持ちも何もなく。ディウルスのもとに嫁ぐと決めた時と同じような心持ちで、アーニャはトールのもとに嫁ぐことを決心するだろう。それは愛国心というより義務感からくるもので、そもそも自分には拒む権利などないと思っているゆえの結果だ。
けれど、もし仮にアーニャが初めからアライベルの王族であれば、そんな風には考えなかっただろう。
国を想い、民を想い、戦争を厭い、泣く泣くトールのもとに嫁いだ。そんな気がする。
アライベルでなくてもいい。レンブリックでもエスラシェでも、とにかくクラウディスの王族でさえなければ――――あるいは国王バルトロイと第三王妃ネルの娘でなければ。
「……妙なことを訊いてすまなかったな。そろそろ余は帰るとしよう」
そう言ってバルトロイは立ち上がる。アーニャは座ったまま壁を眺めていた。背後からバルトロイが扉を開ける音がした時、アーニャは振り向かないまま口を開く。
「……お父様。わたしはアスタニアとは違います。わたしは彼女のように、心優しく寛容な人間ではありません」
「?」
バルトロイは足を止めて振り返った。娘の背中はどこか遠いもののように感じられる。その表情はバルトロイにはわからない。けれど、その肩はわずかに震えているような気がした。
「今まで黙っていましたが……わたし、お父様のこともお母様のことも、他のお妃様のことも、お兄様達やお姉様達のことも、それからクラウディスのことも、ずっとずっと嫌いでした。これからも、それは変わらないと思います」
「ああ、そうだろうな」
バルトロイは笑う。それ以上アーニャは何も言わず、バルトロイもまた何も言わずに部屋を後にした。
護衛であるアライベルの騎士を連れ、バルトロイは廊下を進む。アーニャの部屋からだいぶ遠ざかったころ、彼は小さな声で独りごちた。
「……余は、間違えてばかりだな」
つらい思いをさせてすまなかった。愚かな男の口から懺悔の言葉がぽつりと漏れる。だが、それを拾う者はどこにもいなかった。




