蚊帳の外、あるいは籠の中の鳥
「ほう、お前がこれを作ったのか」
「はい。お口に合えばいいんですが」
食後のお菓子はあらかじめ料理人に頼んでいた通り、アーニャが作ったベリーのケーキだった。フォークを片手にディウルスは興味深そうにケーキを見ている。
「安心しろ。俺は食える物なら何でも食える」
なんでそういう言い方になるかなぁ……とでも言いたげな顔のアッシュやヴィンダール、リアレアやミリリなどには目もくれず、ディウルスはケーキを口に運んだ。アーニャも側近達の表情の変化に気づかないままケーキを食べ始める。
ケーキはベリーの酸味と甘みがほどよく効いていた。それと同時にしっとりとした生地がベリーの味の濃さを消し、ちょうどいいぐあいに調和させている。これなら飽きが来る事なく食べ続けられるだろう。我ながら会心の出来だ。
「なんだ、思ったよりうまいな。これもリットに教わったんだったか?」
「そうです。リット様にはとてもお世話になりました」
そう言うと、ディウルスは少し嬉しそうに口元をほころばせた。お前はリットを怖がらなかったんだな、そんな小さな呟きが耳に入る。
リットの事が怖くなかったかと言われれば嘘になるが、だからといって彼に怯えていたかと言われればそういうわけではなかった。もちろん初対面の時は彼に対して恐れを抱いていたが、リットの人となりを見ているうちにわかってきたのだ。この人は見た目ほど悪い人ではない、と。彼も見た目で苦労してきたのかもしれないと思うと、むやみやたらと見た目や雰囲気で判断する気にはなれなかった。
「裁縫と料理はあいつの得意分野だからな。これからも何かあればあいつを頼るといい。自分の腕がお前の役に立つならあいつも喜ぶだろう」
「ええ、そうさせていただきます」
リットに刺繍と菓子作りを教わると言った時もディウルスは似たような事を言っていた。刺繍にしろ菓子作りにしろあまり貴族の子息がやるような事ではないと思うが、それを今さら口に出すのも野暮というものだろう。
「で、これがお前の刺繍か。……ほう、よくできてるな」
箱の包装を解き、ディウルスは白いハンカチをつまみあげる。ディウルスは感心したようにしげしげと眺めていたが、すぐに我に返って「俺が持っているとすぐ汚してしまいそうだ」と笑いながらヴィンダールにハンカチを預けた。
「あまりお前のための時間が取れなくて悪かったな。これからしばらくはそう急ぐような仕事もないから、これまでの穴は埋めさせてもらおう」
「気にしないでください。陛下がお仕事を優先させるのは当然の事ですから。それに、こうして物作りに没頭できましたし……陛下と文通もできましたから」
「そうらしい。退屈しているかと思ったが、何かと充実していたようでなによりだ」
「ええ。でも、お仕事が片付いてよかったです。心配していたんですよ。陛下はとってもお忙しそうにしていましたから」
「……もう終わった事だから、言ってしまっても構わんか」
軽やかな笑いに満ちたやり取りの後、ディウルスはわずかに表情を引き締めた。少し悩む素振りをしながらも、ディウルスは口を開く。
「実は、ある地方が大雨に見舞われてな。そのせいで川が氾濫して、洪水まで起こってしまったんだ。避難誘導と災害対策がしっかりしていたおかげで死人はいなかったが、あちこちで橋や家が流されたり畑がだめになったりしたらしい。死人が出なかったのが不幸中の幸いとはいえ、そういった被害の補填で忙しかったんだ」
「わたし……知りませんでした。そんな大雨が降っていたなんて」
「国の端のほうの出来事だ。お前が知らなくても無理はない」
「……ですが陛下は、教えてくださいませんでしたよね?」
確かに王宮で過ごすアーニャの耳に、そんな話は入ってこなかった。王都では大雨などという言葉とは縁遠いような快晴が続いていたからだ。もちろん一度も雨が降らなかったわけではないが、それにしたって被害を心配するような雨量ではなかった。
だが、それはアーニャが身を持って体験していないというだけの事だ。誰かが伝えられたはずだった。事実を事実として、誰かがアーニャに言えたはずだった。たとえばそう、毎日のように手紙のやり取りをしていたディウルスとか。
にもかかわらず、ディウルスは口を閉ざす事を選んだ。だからアーニャは、ディウルスが取り組んでいるのは国家機密なのだと判断した。いまだ他国に属しているアーニャにも言えないのだから、それはそれは重要な案件なのだろうと。しかし実際は悪天候による被害についてで、それがアーニャに隠さなければいけない事柄だとはどうしても思えない。
「……そうだ。お前に伝えるまでもない事だと判断したからな」
わずかに咎めるような語調を含ませると、ディウルスは表情を渋くさせる。続けられた「お前に知らせる必要を感じなかった」という言葉が、アーニャの胸にのしかかった。しかしその程度で覚悟を決めたアーニャを止める事はできない。
「でも、知りたいんです。知らないところで誰かが苦しんでいるなんて耐えられません。だってわたしは、この国の未来の王妃となる身なんですよ。それなのに、知らなかったなんて言い訳は許されるのでしょうか」
蚊帳の外は嫌だ。アーニャだって馬鹿ではない。たとえ自分が何も知らなくても、知らないところで別の誰かが何かをしている事ぐらいはわかっている。
アーニャの知らないところですべてが行われるのは、ディウルスや側近達が優秀だから。アーニャが何も知らないのは、彼らがあえてアーニャに伝えない事を選んだから。だが、いつまでもそのままでいいのだろうか。頼ってばかりで、何も変わらないままで。無知を言い訳にして目をそらしていては何の意味もないような気がした。
「どうやら俺は、お前への扱いをことごとく間違えていたようだな」
アーニャの強い意志を悟ったのか、ディウルスは小さくため息をついた。側近達のうかがうような視線を振り払い、ディウルスは物々しく口を開く。
「だが、俺は自分の考えを曲げる気はない」
「何故ですか?」
ディウルスの事だから、アーニャを無知なまま鳥籠に閉じ込めるように飼い殺したいわけではないはずだ。だからこそ彼の、彼らの意図が読めない。何故ディウルスは、側近達はアーニャから真実を遠ざけるのだろう。
「では訊こう。お前が知ってどうなった?」
「え……」
「お前が現状を知る事で、何か状況は好転するのか? 悪いが、俺はそうは思わない」
あなたに何ができたの? ディウルスの言葉がもう一人の自分の言葉となって突き刺さる。
「俺はお前が……その、嫌いではない。嫌がらせでこんな事を尋ねているわけではないんだ。これはそう、純粋な確認作業とでも思ってくれ。たとえば今回、大雨とそれに伴う洪水で多くの村が被害をこうむったが……お前がそれを知ったところで、お前はその村の連中に何をしてやれた?」
何もなかった。一つも思いつかなかったのだ。
土木作業や救助活動などもってのほかだ。そんな事、アーニャにはできない。現地の兵士達に任せたほうがよほど安全で確実だろう。
アーニャが被害者達の事を知らないように、彼らもアーニャの事をよく知らない。慰安のための訪問にいったところで何もならないだろう。それどころかアーニャのために形だけの歓迎の宴を開かなければならず、限られた物資を無駄に浪費する事になる。では、物資を被害に遭った村々に送るのはどうか。いや、そんな事は別の誰かがとっくにやっているだろう。彼らのために動くのはアーニャでなくていいし、アーニャが動くより早く正確に別の誰かがその仕事をしているのだ。
「お前は今悩んでいるだろう? それが、俺達が口をつぐむ事にした理由だ。俺は……いや、俺だけじゃない。俺やお前の側近も含め、俺達はお前の心を無駄に煩わすべきではないと判断した。お前を悩ませるものは、極力ないほうがいい」
何も言えなかったアーニャを見つめながら、ディウルスは淡々と告げる。すべてはアーニャのためなのだろう。何もできないアーニャを自責の念で苦しめないための。降りかかる面倒事からアーニャを守るための。何の憂いもなく、アーニャを生活させるための。
(……けれど、それでいいはずがないんです)
月と宵闇の瞳を固く閉ざす。ゆっくり呼吸を繰り返すうちに思考がはっきりしてきた。主張が拒まれる恐怖、見当違いの事を言って嗤われる恐怖、自我を押し出してしまってディウルスの機嫌を損ねる恐怖。それらすべてを振り切り、アーニャは再び目を開ける。
「適材適所、だ。誰しも自分の仕事がある。だが、これはお前の仕事じゃない」
「……では、わたしは何も知らず、笑っているだけでいいんですか? それがあなたの言う、王妃の仕事ですか?」
「そうだ。たとえどんな苦しい状況であれ、国の象徴たる王妃が笑っていれば民は安心するからな。だからお前は、」
「それは……その、違う……と、思います」
知る事まで含めてわたしの仕事ではないでしょうか。震える声で告げた言葉に、ディウルスが目を見張るのがわかる。彼の言葉を遮ってまで続ける主張は果たして正しいのか、迷う事も忘れてアーニャはぎゅっと拳を握った。
「初めてあなたにそう言われたときは、何も考えずにただ笑えばいいのだと思っていたのです。それこそ飾り物のように、綺麗に。けれどこの国で暮らすうち、少しずつ学んでいきました。そして気づいたんです。黙って笑っているだけじゃだめなんです。受け入れていなければ、意味がありません」
「……なに?」
「何故笑うのか、誰に向けて笑うのか、その意味を考えたうえで、何も言わずに笑うんです。頭をからっぽにして浮かべた笑みでは、きっと王の隣に立つにふさわしくはありません――民の心には、響きません」
黙って笑っていればいい。それで民は安心できる。ディウルスはそう言った。だが、それはきっと意味が違うのだと思う。
見舞われた不幸も何も知らず、へらへらと笑う事。見舞われた不幸を受け入れ、それでもなお国の力を信じて気丈に笑う事。この二つの間には、きっと天と地ほどの差があるに違いない。そして本来王妃に求められるべきは、後者の笑みだ。
「お前は……そこまで背負ってくれるのか?」
それは驚きだった。アーニャの考えが、ディウルスが期待していたのであろうものの証明だった。
きっとディウルスは、その期待をすぐに打ち消してしまったのだろう。それはアーニャが頼りなかったからか、あるいはディウルスが自分の期待しすぎに気づいたか。その両方であるように見えた。
「正直に言おう。俺は不安だった。お前のような華奢な娘が、国の頂に立つ者の重責に耐えられるのか。為政者につきまとうおぞましい闇を直視できるのか。血の道の上を歩いていると気づいて立ちすくむ事がないのか」
アーニャのために誰かが血を流していた。アーニャのために誰かが夜も眠らず苦労していた。アーニャのために、アーニャのために。湧きあがる可能性とそれに伴う罪悪感に押しつぶされそうになる。
クラウディスにいたころは、そんな事は考えなくてよかった。自分のために何かをしてくれる人がいる、なんて事はなかったからだ。生きている事への罪悪感はあっても、自分が生きている事によって迷惑をかけている人達への謝罪の気持ちはあまりなかった。エバやウィザーといったごく一部の例外を除けば、彼らの多くは仕事でアーニャを生かしてくれているに過ぎなかったからだ。
それに見合うだけの対価は父王から支払われていた。彼らはアーニャ個人の側近ではなかったため、父王の払う対価を彼らが受け取り、そして彼らが父王から命じられた仕事をこなす事にアーニャはどんな感情を持つ必要もない。父王からアーニャに渡されるすべてのものは、アーニャを産ませてしまった事に対する謝罪と恐怖の表れだ。だからこれについてもアーニャが委縮する必要はなかった。
だが、アライベルは違う。もともとアライベルの人間達とアーニャとの間には、なんの貸しも借りもなかった。そもそもクラウディスの人間とアライベルの人間の仕事ぶりは、そしてアーニャに対する扱いは大きく異なる。きっとアライベルの人間もそれに見合うだけの対価をディウルスから、あるいはアーニャの予算から支払われているのだろうが、祖国の人々と一緒にするのはアライベルの者達に失礼だ。だって少なくともアーニャの側近達は、望んでアーニャに仕えてくれているのだから。ディウルスに命令されたからではなく、彼女達が心からアーニャに忠誠を誓ってくれているのは今までの付き合いでわかっていた。
だから戸惑う。無償の忠誠に、無償の献身に、何をもって返せばいいのか。これだけの厚意が無償で受け取れるはずがない。見返りを用意する必要があるはずだ。金を積めば許されるのか。だが、本当に彼らの望んでいるものは金なのか。わからなかった。
頭が真っ白になっていくアーニャの怯えを感じ取ったのか、ディウルスは鋭く言い放った。「余計な事は考えるな」その一言ではっとなる。ああそうか、きっと彼らはわたしがこうなる事を見越して口をつぐむ事を選んだんだ。
思えばエバとウィザーもそうだった。祖国で唯一味方だと信じられるあの二人ですらも、アーニャにすべてを伝える事はしなかった。けれどそれはアーニャを傷つけないためで。不都合な真実を、悲しい現実を、常にアーニャから遠ざけてくれていた。たとえその事にアーニャが気づいていないふりをしていただけだとしても。
「そもそもお前にああ言ったときは、お前の人となりをこれっぽっちも知らなかったし、なんとしてもお前に婚約を承諾させなければいけなかったからな。とにかく、王妃というものを楽な地位にしようと思った。だから俺は、お前に面倒事を知らせない事を選んだんだ」
ディウルスは静かに語る。正直、アーニャにも自信はない。今までディウルスが王として何と接してきたかは知らないが、それと同じものを果たして自分も受け止め切れるのだろうか。
けれど、逃げていては何も始まらない。決めたではないか。王妃に、彼の妻になるのだと。
深く息を吸って吐いた。彼らの気づかいを無にして庇護の籠から抜け出す事を選んだのは他でもない自分自身だ。アーニャの目つきが変わったのを見て、ディウルスはふっと微笑んだ。
「……だが、それはどうやら杞憂だったようだな。発言は訂正しよう」
これでようやくディウルスと対等な立場に立てる。今まで支えてきてくれたすべての側近達に胸を張れる自分になれる。
「これからはお前に話す事にする。だからお前も、俺と同じものを一緒に背負ってくれるか?」
「もちろんです」
些細な事で自分を責め、どうしようもない罪悪感に囚われるのはきっと悪い癖だ。それを克服しなければ、きっとディウルスの望むような笑みは浮かべられないだろう。それでもアーニャは真実を共有する事を選んだ。無知なままでは何も変わらないからだ。すべてを知り、それでもなお受け入れ、人々を安心させられるような笑顔を浮かべられるようになったとき、きっと自分はアライベルの王妃にふさわしい女になれる。
ことの行く末をやきもきしながら見守っていた側近達にディウルスは軽く目配せをする。
「明日の予定は変更だ。セレスに伝えておけ。明日俺と姫がお前のところに行くから何が何でも時間を作れ、と。……姫、構わないな?」
「セレスティア様のところというと、教会ですよね? それは構いませんが、何をしに行くんですか?」
背中に白い翼の生えた女大司教の名を唐突に告げられ、アーニャは小首をかしげる。届けられたお茶会の招待状にはセレスティアの名前も何度か登場していたが、あまり長い時間お喋りに興じるような事はできなかった。彼女も忙しいだろうに、いくら国王とはいえ予定をねじ込んでも大丈夫なのだろうか。
「なに、大事な話をしに行くだけだ。今まであえて触れてこなかった、お前にまつわる話をな」




