新しい趣味(前編)
「やれやれ、アーニャ姫と結ばれる日がまた一歩遠のいてしまったな」
「……申し訳ございません」
謝罪の言葉を口にしながら、シアルフィは己の無力感を噛みしめながら俯いた。目的を達成できなかったどころか部下を失い自身も手傷を負わされ、挙句敵の追跡を許してしまったのだ。追跡自体は撒いたとはいえ、またいつ捕捉されるかもわからない。ほとぼりが冷めるまではおとなしくしていたほうがいいだろう。とんだ失態だ。
「珍しく殊勝な態度だな。お前がそんなざまでは私まで調子が狂うじゃないか」
そんなシアルフィを慰めるでもなく叱責するでもなく、主人はにやりと笑う。前髪をかきあげて彼は不遜に笑った。
「なに、恋には障害がつきものだ。幾多の苦難を乗り越えてこそ真実の愛は実るものだろう? 案ずるな、運命は常に私の味方だった。遅かれ早かれこの腕はアーニャ姫を抱き止める事だろう」
それを慢心だと切り捨てる者はこの場にはいない。彼が人並み外れた強運の持ち主である事はシアルフィもよく知っていた。これまで主人が実現してきた数々の奇跡を、シアルフィはその目でしっかりと見ているのだ。
だけど、と一抹の不安がよぎる。彼に舞い込む幸運は、彼の起こす奇跡は、果たして永遠のものなのだろうか?
「だが……いくら神が私の味方とはいえ、何もせずに待っているのはやはり性に合わないな」
そんなシアルフィの懸念など露知らず、主人は傲慢そうなエメラルドの瞳を窓の外に向けた。次は趣向を変えてみようじゃないか。そう言った彼の目は、遠い祖国がある方角をまっすぐに見つめている。
「予定より早いが、そろそろ国に帰るとしよう。少し派手に動きすぎたからな。少しぐらいは身を隠さねば、いつ嗅ぎつかれるかもわからん。なにより、新たな駒が必要だ」
「駒、ですか。しかし今以上の兵士を動かせば、必ず兄君に気づかれてしまいますが」
さすがにここまでくると主人のアーニャに懸ける想いがただの女遊びという言葉では片づけられないものだというのはわかるが、また武力にものを言わせるのだろうか。だが、主人はけらけらと笑った。
「一度失敗した事に何度も頼ろうとは思わんさ。今の人数をそろえるのだって、兄やその腰巾着どもにぐちぐちと文句を言われたからな。さすがの私だって、これ以上面倒を増やしたいとは思わない」
「では、どうするおつもりですか?」
「英雄譚に新しい刺激を加える。ディウルスの非道さを強調し、アーニャ姫をより不憫な境遇に落とし込むような、な」
* * *
アーニャがアライベルに来てもう三ヵ月目になる。すっかりクラウディスにいたころとの待遇の違いにも慣れ、心にも少し余裕が出てきた気がした。だが、そうなると新しい問題が出てくる――――そう、時間の使い方だ。
祖国にいたころは悩む必要などなかった。自由などほとんどなかったからだ。できる事はおのずと限られ、それ以外の事をするなどもってのほかだった。しかしアライベルでは違う。この国には自由に使える時間があり、自由に何かをしていい権利がある。読書以外の暇つぶしの選択肢を与えられてしまった今、何をすればいいのかアーニャはわからないのだ。
アライベルの王妃として身につけておくべき教養を学ぶ時間はすでに設けられている。最初は空いた時間をそれの予習や復習にあてようとしたのだが、側近達に根を詰めすぎるなと止められたのだ。結局自習時間も決められてしまったが、余った時間がまだたっぷりある。
お茶会をはじめとした様々な催しは毎日のように開かれているが、さすがに一日中やっているわけにはいかない。それに招待するのもされるのも日によって違う者達だ。ある日はシェニラやロゼルといった位の高い令嬢達、別の日は下級の貴族、今度は有力貴族の婦人達。短い交流が隔絶的に続くので、親しい間柄だと自信をもって断言できる者はそう多くなかった。それよりも、相手が自分と時間を過ごすことになってしまって迷惑していないかと肩身の狭い思いをする事のほうが多い。楽しくないわけではないが、すべての集まりが心から楽しめるものであるかというと否だった。
ディウルスも最近忙しいらしい。離宮へ赴いた事の出来事をきっかけにして、彼との間にあったらしい誤解はなんとか解けた。そのおかげか以前よりもディウルスは暇を見つけてはアーニャのもとに足を運ぶようになったし、アーニャも頻繁にディウルスのもとへ通うようになった。しかしある意味ではまだ周囲からの客扱いが抜けていないアーニャに対し、国王である彼は政務をこなさなければならない身だ。あまりに仕事が多すぎて、夕食を摂る時間さえもずれ込んでいるらしい。あまり時間を割かせるのも申し訳ないと、ディウルスが多忙そうだと気づいてからはアーニャも彼のもとに赴くのを少し自重している。
そんなわけでディウルスと会えない日々が続いていた。ここしばらくの彼との交流は、リアレアのすすめではじめた手紙を通して行われている。この程度なら負担にはならないと、ディウルスや彼の補佐をしているヴィンダールはもちろん宰相ニードからもお墨付きをもらっているので、アーニャとしても安心してできた。お互いに日常のささいな出来事を書き綴っているだけだが、それでも繋がりが感じられるだけ嬉しい。
とはいえ毎日暇なので、最近は書く事が尽きてなかなか思うように筆が進まなかった。この暇な時間を活かして何かディウルスの手伝いができればと思うのだが、もどかしい事に自分はまだ“婚約者”なのだ。正式に結婚しているわけではないので、身分の上ではアーニャはクラウディスの人間という事になっている。いくら未来の王妃といえど他国の人間にそうやすやすと国家の機密事項は触れさせてもらえないし、何より国王が扱う重要そうな案件をさばく力などアーニャにはなかった。
何もないのは平和な証拠だとは言うが、少しぐらい刺激が欲しいと思うのはわがままだろうか。この空いた時間を有効活用できる、楽しい事があればいいのだが。
「――というわけなんですが、何か思いつきませんか?」
アーニャが助けを求めたのはリアレアだった。ディウルスが言っていたからだ。困った事があったらリアレアに訊け、と。エバに訊いてもよかったのだが、アライベルの貴族であるリアレアならこの国の常識に沿ったものを教えてくれるでしょう、と判断した結果がこれだった。
「ええと……でしたら、趣味を持てばよろしいのではないでしょうか」
アーニャの真意をはかるように、リアレアはおずおずと口にする。趣味……とアーニャがおうむ返しに呟くと、リアレアは小さく頷いた。
「なじみ深いのは刺繍や絵画、音楽などでしょうか。アーニャ様、何か具体的にしたい事はありませんか?」
「そう、ですね……」
その発想はなかった。というのも、本や文具以外の品は与えられた事がなかったからだ。しかしここはアライベル。クラウディスとの生活とは何もかもが違うのはすでに今までの暮らしで体感している。アーニャが望めば、きっとなんでも与えてもらえるのだろう。もっと早くそれに気づけばよかった。いや、それはわかってはいたのだが、そこから趣味を見つけるという考えに至らなかったのだ。
「……じゃあ……刺繍と、あと、料理がしたいです。あ、えっと、料理と言っても、お菓子を作るだけでいいんですけれど……」
「料理も、ですの?」
リアレアはきょとんと目を丸くしていたが、否定されなかったという事は問題ないという事だろう。アーニャは期待を込めた眼差しをリアレアに向けた。
刺繍は女の嗜みだと、二番目の異母姉がよく言っていた。ねえ、貴方にこんな素晴らしい刺繍ができる? できないでしょう? そんな言葉とともに見せびらかされる彼女の刺繍の腕前はアーニャにはよくわからなかったが、白いハンカチを鮮やかに彩る花の模様は確かに綺麗だった。高貴な令嬢なら誰しもできるのだと教えられたそれは、刺繍針にすら触れた事のないアーニャを嘲笑するためのものだったのだろう。今までは大して気にしていなかったのだが、ディウルスの事を考えると焦燥感が生まれてしまう。クラウディスにいたころからアーニャの身近にいる女性で、刺繍も教えられそうな人物といえばエバだが、彼女は繕い物はできても刺繍はやった事がないという。エバに教わる事はできなかった。興味がなかった事、道具がなかった事、そして教えてくれる人物がいなかった事。それが今までアーニャを刺繍から遠ざけていたのだが、できて当然の事ができない王妃なんて恥ずかしいのではないだろうか。やらせてくれるというなら刺繍の仕方を学びたい。
お菓子作りもしたいと言ったのは完全な思いつきだった。というのも、ディウルスはよく仕事中に菓子をつまんでいる事を思い出したからだ。
あれはそう、リットの妻エリザレーテをディウルスの恋人だと勘違いしてしまった時の事だったか。ディウルスの執務机に置かれた菓子を、アーニャはエリザレーテからの贈り物だと思った。しかしそれは、実際にはエリザレーテからではないどころか置かれている事にも深い意味などなかったらしい。誰が作ったのかまでは聞いていないが、恐らく厨房の菓子職人だろう。本当にただの小腹を満たして糖分補給をするためそこにあるものというだけで、ディウルスに想いを寄せている少女からの差し入れだという注釈は存在しないようだった。
けれどそれなら、あれを自分が作ってもいいのではないだろうか。仕事の手伝いはできなくても、ディウルスを補佐する事はできる。仕事で疲れたディウルスを少しでも癒す事ができれば、自分も今よりは胸をはっていられるだろう。
そうリアレアに語ると、納得してくれたのかリアレアは一も二もなく賛成してくれた。どうやら講師に心当たりはあるらしく、すぐにお願いしてまいりますと言ってリアレアは部屋を後にする。ディウルスに講師を招く許可を取りに行ったのだろうか。それなら手紙に書くのでわざわざ今行かなくても構いませんのに……と思っていると、リアレアはすぐに戻ってきた。予想外の客人を連れて、だが。
「お呼びでしょうか、アーニャ様」
リットは酷薄な笑みを浮かべる。右目を覆うモノクルが冷たく光っていた。




