遅い告白
「その気持ちに嘘はありませんし、覚悟も揺らいでいません。ですから、そう何度もおっしゃっていただかなくても結構です。わたしの許しを得る必要などありませんよ」
そう言ってアーニャは笑うが、混乱しているディウルスには何が何だかよくわからない。助けを求めようにも、側近達はみな別の馬車に乗っている。馬車の中にいるのはディウルス達二人だけだ。
(姫は一体何を言っているんだ……?)
アーニャが自分と一緒にいたくないと思っているから、こう申し出ているのに。彼女の言い方だと、まるでこちらが彼女を厭っているようではないか。
ロゼルに付きまとっているという、彼女の従兄ハルトラス。彼と同じように強引な振る舞いをする気はないし、彼と同類になった覚えはない。しかしアーニャにしてみれば、国のために半ば無理やり婚約者になった自分も似たようなものに決まっている。だからこそ弁明をしたかったのだが、何かが彼女の気に触ったのだろうか。
好きでもない男にべたべたされるのは誰だって嫌だろう。それ以前に、自分が不用意にアーニャに触ったらうっかり壊してしまいそうだ。そういった理由からも、明確な用件もなくこちらから彼女に接する事はためらわれた。向こうも向こうでそのほうが気が楽だろう。
ディウルスとしては、国王夫妻としての最低限の義務をこなす時間さえ我慢してくれれば、あとはアーニャの自由にしていいと思っている。アーニャに恋愛感情を抱いていないというのは否定できないが、だからといって嫌いであるわけもない。愛とは呼べないまでも、好ましいと思えるぐらいの感情は芽生えていた。アーニャの内心はどうあれ、いつも穏やかに微笑んでくれる彼女とならばさほど悪くない夫婦関係が築けるだろう……と思っていた矢先にこれだ。
愛せないというより、まだそういう仲になるには早いというか。もう少し段階を踏んでからというか。笑ってくれれば王妃としての最低限の役目は果たせるし、他の事はこちらでどうにかするから何とかこの条件で了承してほしかった。結婚を強制したわけでもない事だって理解してほしい。ちゃんと喋ってちゃんと動く、血の通った人間を飾りだと思う事だって――――
(……まさか姫は、何か勘違いをしているのか?)
おや、とディウルスは首をひねった。飾り。そういえば以前、アーニャに向けてそんな事を言った気がする。つい今しがた、アーニャからも反芻されたばかりだ。“余計な事は何もしなくていい。お前はあくまで飾りだ”、と。
かつて彼女に言った言葉が蘇る。「愚かな王の横に座る、お飾りの王妃。それこそがお前に求める役割だ」――――これは“国王夫妻”という地位に対する皮肉を込めた自虐だったのだが、まさか彼女は額面通り受け取ってしまったのだろうか。
「姫。俺達の間には、何か深刻な誤解がある気がするんだが」
「……はい?」
ディウルスは神妙な表情で口を開く。もとはといえば言葉足らずの彼が大体悪いのだが、普段の彼は思った事をもっと率直に言える男だった。その性格のせいで余計なもめ事を何度も運んできたので、アーニャの前で失言をしないようにと各方面から釘を刺された結果があれだ。
用意した台本という名の側近達の頼みの綱は、残念ながら変なところで真面目なディウルスに受け取ってもらえなかった。誠意をもって対応するのにこんなものはいらない、自分一人でなんとかなると突き進んだ結果があれなので、もはや手の施しようがないが。
一度認識を整理しよう、と告げたディウルスに、アーニャは怪訝な顔をしながらもこくりと頷いた。
「俺は別に姫の事を嫌っていないぞ。むしろ姫が俺を嫌っているんじゃないのか?」
「わたし、が?」
沈黙が訪れた。外から聞こえる馬のいななきと街道を走る音だけが響く。突然の事に驚いたらしくしばらく動きを止めていたアーニャは、ディウルスに声をかけられた事ではっとして居住まいを正した。
「いえ、そのような事はありませんが……」
「正直に言っていいんだぞ? それが理由で破談にしようなどと思っていないからな?」
「そう言われましても、これがわたしの正直な気持ちですよ? 破談にしたいのは陛下のほうではないのですか?」
「まさか。お前に逃げられたら色々と困るんだ、そんな事をするわけがないだろう」
アーニャがディウルスに愛想を尽かして国に帰ってしまったら……想像するだけでも恐ろしい。彼女の機嫌を損ねないよう、便宜を図っていたというのに。自分との結婚を望んでいないであろうアーニャの神経を逆なでしないよう接触は最小限に抑え、様々な方面での自由を認めたのだ。これでも王妃になってくれないのなら、一生独身を貫いて当初の予定通りシェニラの子に王位を譲るしかないではないか。
「「……」」
ニーケンブルク宮殿はまだまだ先だ。どうせ他には誰も聞いていない。無礼だとか不敬だとかはさておいて、思っていた事を率直に伝えるにはまたとない機会だ。そもそも五か月後には夫婦になるのだし、細かい事を気にしていても仕方がないだろう。それはアーニャも同じ気持ちだったようで、戸惑いがちに揺れていた二色の瞳はだんだんディウルスに定まっていった。
「姫、姫は俺のような男が婚約者でがっかりしただろう?」
「がっかりというより、驚きました。正直に申し上げると、陛下はとても……その、お顔とお身体が立派ですから」
それはそうだろう。顔が怖いのは生まれつきだが、初見で物怖じしなかった娘はいなかった。今はなんでもないように振る舞っている者達も、昔は程度の差はあれ怯えていたのだ。誰に怯えられようとも、それで傷つくような繊細な心は持ち合わせていないので特に気にしていないが。
「でも、お話してみると、陛下はとてもお強くてお優しい方だというのがわかりました。……陛下こそ、婚約者がわたしではご不満でしょう?」
「不満はない。俺には分不相応だとは思うがな。……お前なら、望めばきっとどんな男のもとにも嫁げただろう。それこそ俺のような山賊まがいではない、正真正銘の王子めいた男にだ」
たとえばエスラシェ王国のとある伯爵令息。いけ好かない男だが、女性のあしらいがうまいとか。
たとえばイストロア皇国の皇子。やはりいけ好かない男だが、その才能は認めざるを得ない。
たとえばガルガロン帝国の第二皇子。案の定いけ好かない男だが、女性受けはいいらしい。
たとえばレンブリック連合王国の若き王。性格はかなり悪いが、見た目だけならアーニャの隣に並んでも遜色はない。もっとも彼の場合はすでに婚約者がいるが。
ディウルスと面識がある者だけでも、アーニャにふさわしい男は大勢いた。そういった男はもちろん国内にもいるのだから、挙げていけばきりがない。
「だから俺はお前に自由を認めた。俺は極力邪魔をしないようにするから、お前はお前で幸せになってほしいとな。王妃として最低限の義務さえ我慢してくれるなら、それだけで十分だ」
「あ、あれはそういう意味だったのですか?」
アーニャの言う“あれ”が何を指すのか、とっさにはわからない。そういった言動は数えきれないほど繰り返してきたからだ。彼女に思い当たる節があるというなら、きっとそれもその一環なのだろう。
「わたしはてっきり、陛下にはすでに心に決めた方がいらっしゃるのかと……。でもそんな女性の姿は……えっと、どこにも見えなかったので、ずっと不思議だったんです」
「生憎だが、そんな女がいたら俺もさっさと身を固めていただろうな」
心からの一言を呟くと、アーニャは苦笑を浮かべて「結婚できない事情があったのかと思ったんです」と答えた。しかし悲しいかな、そんな関係になった相手は一人としていない。
「……結局、本当にただの勘違いだったんですね」
「そうらしい。……すまなかったな。この一か月間、お前にいらない不安を覚えさせていた」
「わたしも陛下のお悩みに気づけなかったので、お互い様ですよ」
「改めて確認しよう。お前は俺との結婚が嫌ではないんだな?」
「もちろんです。陛下こそ、わたしが相手で問題ありませんか?」
「残念ながらある。お前が美人すぎて、どうしても気後れしてしまうんだ」
「まあ。お上手ですね」
二人はほとんど同時にぷっと吹き出す。誤解が解けたおかげか軽口を叩く余裕すら生まれていた。
ひとしきり笑った後、ディウルスは表情を引き締めてアーニャに向き直る。笑いすぎて目元に浮かんだ涙をぬぐいながらアーニャも居住まいを正した。
「何度も言うが、俺は阿呆だ。友人……これはアッシュやらリットやらその辺の連中の事だが、あいつらからもお手上げだと言われるほどのな。昔から剣の事と身体を鍛える事ばかり夢中になっていたせいで、人の感情の機微も付き合い方もよくわからん」
地方貴族からの無茶な欲求も、他国からの無礼な使者のあしらいも、大抵の事は黙って睨みつければどうとでもなった。民衆からの陳述だって、彼らの声をそのまま聞いてそのまま返せばあとは文官達がそれらしい体裁を取り繕った公的な記録を作ってくれる。他国の王達との会談だって、難しい事を考えずとももっともらしい事を言っておけばなんとかなるのだ。ディウルスが思っている事を口にしただけのその“もっともらしい事”が案外的を射ているためタチが悪いと評判になっている事など、とうの彼は知るよしもないが。
今までの人生では、対人能力を磨く必要性など感じられなかった。もちろん一国の王らしい振る舞いができないわけではないが、一人の人間として考えるとてんでだめだ。きっとデリカシーの類や空気を読む能力は母の腹の中に置いてきてしまったのだろう。
「そんな俺だから、何気なく言った一言がお前を傷つけるかもしれんし、不用意にお前の傍に寄ればお前を痛めつけてしまうかもしれん。そういう事もあって、必要に迫られたとき以外は仕事を理由にしてお前を避けるようにしていた。……だが、結果的にその行為がお前を傷つけていたのか?」
本当に怪我をさせてしまうとは限らないが、そのあたりは心情的な問題だ。幼いころから周りにいたのは屈強な騎士達ばかりで、彼らに手加減は必要なかった。二人の妹達の事は嫌いではないが、やはり不用意に近づいて何かあったら怖いのでなるべく気をつけて接していたし、令嬢達からは遠巻きに眺められていた。結局人と、とりわけ女性と接する時の適切な力加減は今もわからないままだ。
友人達が相手なら遠慮なくいけるが、婚約者が相手ではそうもいかない。何かあってからでは遅いのだ。アーニャに対しては、ディウルスはいつも以上に慎重だった。
「……陛下はお忙しい方です。お仕事があると思えば、そのお時間を奪おうなどとは思えません。ですが、避けられている、という事実のみを抽出するならば……やっぱり、少し悲しいです」
「そうか。……お前を壊れ物のように扱ったのは、失敗だったかもしれんな」
だが、怖いものは怖いのだ。アーニャは細くて小さい。ディウルスと並べばその華奢さはより際立つ。力加減を間違えれば握った手を砕いてしまうかもしれないし、まだ先の話ではあるが初夜の時に押しつぶしてしまうかもしれない。かつて彼女がリューハイルに絡まれていた時はとっさにその腕を取ってしまったが、きっと痛かっただろう。
「陛下。あなたが思っているより、人間は丈夫ですよ。そう簡単に壊れたりしません。それでも不安なら、少しずつちょうどいい力加減を探っていきましょう? そうしないと、きっとわたし達はいつまでもこのままです」
ディウルスの心中を察したのか、アーニャは微笑みながらそっと手を差し出した。労働を知らない白い手は硝子細工のように繊細で、気を抜いた瞬間に砕いてしまいそうだ。
一言断り、ディウルスは恐る恐る手を重ねる。当然ながら、触れただけでは何も起こらなかった。アーニャの笑みが苦痛に歪む事もない。彼女の反応を確かめながら、ディウルスは少しずつ適切な力加減を試していった。




