夜会を終えて
「なんだと?」
蒼褪めた表情のロゼルの報告を聞き、ディウルスはわずかに眉を上げる。周囲をぐるりと見回してみても、アーニャの姿はどこにもなかった。
「心配には及ばないわ。アーニャ様には精霊がついているもの。彼らがいる限り、誰であろうとアーニャ様に手出しはさせないわよ」
そう言ってミリリはゼクトの注がれたグラスに口をつける。彼女のエスコート役として同行していた青年、アルトは苦笑いを浮かべていたが、その言葉を否定はしない。二人が漂わせる余裕は絶対の自信の表れだ。それでもディウルスは嫌な予感をぬぐえなかった。
「だが、万が一という事もあるだろう?」
「そうね。そろそろ場所がわかると思うから……ああ、そう。そこにいるのね」
ふとミリリの視線が虚空に向かう。そこにいるものはディウルスには視えない。だが、きっとそこにはミリリが同胞と呼ぶものがいるのだろう。
「アーニャ様はテラスにいるらしいわ。迎えに行ってあげて」
「わかった、すぐに向かう」
「儂らがついていかなくて平気か?」
「問題ない。リューハイル王子がどんな人物であれ、さすがに招待国の王族相手に妙な真似はしないだろう。アッシュとヴィンダールはリューハイル王子の従者達の相手でもしていてくれ」
言うが早いかディウルスは足早にテラスへ向かった。アッシュとヴィンダールもすぐにその場を離れる。エバとウィザーは不安げな面持ちのままだったが、ロゼルとレイディズはほっと安堵の息を吐いた。
去っていくディウルスを見送り、ミリリは同胞――――精霊の声に耳を傾ける。報告に来た精霊はどんどん増えていた。
[今は風の精霊達と闇の精霊達が相手をしていますが、あまりいい雰囲気ではないようです]
[そのリューハイルという男は、この国を侮辱した挙句アーニャに危害を加えようとしているぞ。我々の目から見ても、あまり気分のいいものではないな]
「げ、まじかよ。最低だな、そいつ」
「アルト、口を慎んでちょうだい。気持ちはわかるけど、一応リューハイル様は他国の王族なのよ」
「心配すんなって。さすがに面と向かってなら態度も取り繕うからさ。……あー、でもあんまり会いたくねぇな」
「ど、どうしましょう……。無理を言ってでも、わたくしもついて行ったほうがよかったのかしら」
[でもあのひと、ロゼルのこともおこってたよ。ロゼルがいってたら、ロゼルもいたいことされたかもしれないよ]
「うぅ……。で、でもアーニャ様だけを危険な目に遭わせるわけには……」
「ロゼル、落ち着きなさい。アーニャ様はご無事だから」
[どうするの、ミナ。やっぱりおこる? おこるならぼくらもてつだうよ?]
「いいえ、私だけで大丈夫よ。どうせ陛下はあまり強く出られないでしょうし……陛下の意に反さない程度に報復してくるわ」
昏い紫の瞳に剣呑な光を宿し、ミリリは低い声でそう呟く。そのまま彼女は傍らに立つアルトに声をかけた。
「そういうわけだから、ちょっと行ってくるわね。精霊達が悪ふざけをしないように、アルトも気を配ってあげて」
「任せとけ。んじゃ、俺はルルクに話を通してくるか。……あっ! ミリリもあんまり危険な事はするなよ!」
ミリリに声をかけ、アルトはエバ達に一礼して去っていく。視えない何かと会話していた三人、そしてそれを平然と受け入れるリアレアとレイディズを、エバとウィザーは呆然としながら見つめていた。
* * *
「あの方はアーニャ様の兄君だったのですか? そうとは知らず、大変失礼な真似をしてしまいました」
アーニャの元にやってきたミリリはしらじらしくそう言った。当然悪びれた様子もない。たしなめるべきか礼を言うべきかわからず、アーニャは微苦笑を浮かべた。
「では、私はこれで失礼します。ご用があればお呼びくださいませ」
それだけ言ってミリリは再び人の波の中に消える。ロゼルも家族の姿を見つけたらしく、名残惜しげに去っていった。
「だいぶ興が削がれてしまったな。どうする? 今日はもう下がるか?」
「……そうですね。わたしも少し疲れてしまいました。ですが、わたしが下がってしまっても構わないのですが?」
「気にするな。どうせこの後は酒盛りぐらいしかする事がないからな。姫が残っていても面白くはないだろう。酔っ払いに絡まれて面倒が増えるだけだ」
アーニャの記憶が確かなら、まだディウルスのもう一人の妹だという女性に挨拶できていない気がする。だが、ディウルスが何も言わないという事は問題はないのだろう。その言葉に甘え、アーニャはおとなしく下がる事にした。
*
「あら愚兄、こちらにいらっしゃったの?」
「なんだ、愚妹」
馴染みの侍女と騎士を連れたシェニラがディウルスの元にやってきたのは、アーニャが下がってしばらくしてからの事だった。果実水の注がれたグラスを手にしたシェニラはきょろきょろと周囲を見渡す。
「アーニャお義姉様はどこかしら?」
「姫なら今日はもう下がらせたぞ。ただでさえ疲れがたまっているようなのに、酔っ払いどもの相手までさせるのは酷だからな。お前もさっさと部屋に戻ったらどうだ?」
「ええ、そうさせていただきます。ですが、その前に報告を。……マリベーラお姉様がまた暴れたそうですわ」
「なんだと? 姿が見えないと思ったら、また何かやらかしていたのか。姫に挨拶もせず、一体何をしているんだあいつは……」
妹が運んできた新たな厄介事の予感にディウルスは頭を抱える。よく冷えたビールが遠ざかるのを感じながら、ディウルスは深々とため息をついた。
* * *
「普段セレスティア様は大司教区……王都とは少し離れたところにいらっしゃるのですが、今日は王都の教会にいらっしゃるそうです。そこでぜひアーニャ様もセレスティア様にお会いしたらどうかと、陛下がおっしゃっています」
翌朝、やけに清々しい気分で目覚めたアーニャのもとに舞い込んできたのはセレスティアという女性と会わないかという打診だった。
聞けば半年後のディウルスとの結婚式もセレスティア主導のもとそこで行われるというから、その打ち合わせも兼ねているのだろうか。アーニャとしては拒む理由もないので、特に拒絶はしなかった。
約束の時間になり、アーニャはリアレアとミリリとともに教会に赴いた。今日はエバとウィザーは留守番だ。思えば宮殿の外に出るのは初めてだったので、少し気分が弾む。ディウルスの許しさえ得られるなら、いずれ城下町も見て回りたい。
「大きくて立派な建物ですね。これがルーテス派の教会ですか?」
「はい。このザンクト・アンゼルム大教会は、アライベルで最も大きく歴史のある教会なんです」
アライベルとクラウディスの国教は一応同じだ。遠い昔、大陸から流れ着いた宣教師が布教した聖天教は長い年月をかけてクラウディスの国教となった。しかし厳密に言えば同じ宗教でも宗派が異なっていて、アライベルが国教に定めるルーテス派の様式はアーニャにはよくわからない。もっとも、礼拝に行く事すら許されなかったアーニャにとっては自国の宗派ですら縁遠いものだったが。
ルーテス派は聖天教の中でもやや異端とされているらしく、それが周辺諸国との摩擦の原因にもなっているという。他にも土着信仰が根強いと言うので、昨日リューハイルが異教だの蛮族だのと言っていたのはそのせいでもあるのだろう。
「セレスティア様は女性の身でありながら大司教の位につくお方で、アライベルではもっとも高位の聖職者であらせられます。ですが気さくなお方なので、そう緊張なさらずとも大丈夫ですよ」
リアレアはアーニャに向けて微笑みかけ、教会の守衛に話しかける。すぐに教会の中から少年がやってきた。飾りのないくるぶし丈の黒い服を着た少年は人懐っこい笑みを浮かべ、アーニャ達に向けて恭しく一礼する。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ」
少年の案内に従って、アーニャは教会の中を歩く。壁のいたるところにステンドグラスの窓や壁画が描かれている。壁の装飾を見てみようと顔を上げた時はその天井の高さに圧倒されてしまった。教会というものはどこもこうなのだろうか。
セレスティアは執務室にいた。アーニャ達の入室に気づき、セレスティアはかけていた眼鏡を外す。
「貴方がアーニャ・クラウディス? ……ふぅん、なかなか面白いものを連れてるじゃない。ちっとも笑えないわね」
肩にかかったトウヘッドの髪を払い、セレスティアはけだるげに呟いた。大司教という地位にはそぐわないほど若く美しい女だ。おそらくまだ二十代半ばだろう。
「初めまして。あたしはセレスティア・マリエル・ルージュナー。先に言っておくけど、あたしは貴方が何者であろうと特別扱いはしないわ。だって、王も奴隷も等しく人間ですもの。地位も身分も人間が勝手に決めた枠組みに過ぎないわ。神の前ではみな同じよ」
セレスティアは執務机から離れ、来客応対用らしきソファに座った。アーニャ達にも着席を促し、セレスティアは再び口を開く。その間に少年がお茶の用意を始めた。
「だけどこれはあたしの持論。これを他人に押しつけるほどあたしは厚かましくないわ。だから貴方は好きにすればいい。あたしを特別扱いするのもしないのも貴方の自由。もちろん貴方のやりやすい接し方で接してくれて構わないわよ? あたしもあたしで好きにやるもの」
「……」
アーニャは一切の返事ができなかった。だが、それはセレスティアの発言が受け入れがたいものだったからではない。返事をするのも忘れてしまうぐらい衝撃的なものがあったからだ。
大司教セレスティア・マリエル・ルージュナー。彼女の背中には、天使のような純白の翼が生えていた。




