第一章 07
図書館は、かなりの容積を誇っていた。
見える限り、地上だけでも六階はある。
ここで本当に、たった一人の人間を探し出せるのか。
心配そうに呟いた咲耶に、案内役を買って出た青年は軽く手を振った。
「あいつは、大体同じところにいるからさ。せいぜい、本棚を十列ぐらい見て回ればいるよ」
閉館までにはもうちょっとあるし、大丈夫だろ、と続けて、彼はロビーの中に設置された、自動改札に似た機械に、慣れた手つきで取り出した学生証をかざした。
「あ……、俺、学生証は」
「忘れたのか?」
簡単に問うと、答えも待たず、開いたガードを片手で押さえつける。
「いいのか?」
カウンターの内側にいる司書を気にしながら、素早く通り過ぎる。
「大丈夫だって。みんなやってるから」
笑って、青年はホールの奥にあるエレベーターに向かった。
夏休みのせいだろう。人影はまばらで、その中には高校生らしき制服姿も見られた。
ホールを横断する間に、軽く尋ねてみる。
「その、養子って人も、学生なのか?」
「ああ、いや、高校の方な。何か、身体が弱いらしくて、通学を先生の車で一緒にしてるから、時々時間潰しにゼミの部屋にいるんだよ」
エレベーターの扉が開き、降りてきた人間がばらばらと散っていく。乗りこんだ学生は、手馴れた風に四階のボタンを押した。
僅かな重力の変化に、眉を寄せる。
「……あれ。杉野先生、今日来てないんだよな。何で、そいつは学校に来てるんだ?」
「そりゃ、別に、電車もバスもあるんだし、一人で来ることだってできるだろ。子供だってちゃんと通学してるぜ」
ゼミ生らしい彼は、特に不思議に思った風でもない。
だけど。
一人で通学できるなら、普段からそうすればいいだけだ。
黙りこんだ咲耶を軽く促して、学生は開いた扉から足を踏み出す。
そして、慣れた様子で通路を歩き始めた。
幾つも並んだ机の横を進み、書架の間を抜ける。
きょろきょろと周囲を見回していた青年が、やがて明るい声を上げた。
「あ、いたいた。弥栄!」
片手に数冊の本を持ち、更に一冊、手元で広げていた少年が、不機嫌そうな視線を向けてきた。
「……声が大きいですよ。山村さん」
低く発せられた注意に、悪い、と軽く片手を上げて、山村と呼ばれた学生は返す。
「ちょっと、こいつが、杉野先生に話があるって言うからさ。ええと、名前は」
「守島」
小さく会釈して、咲耶は相手をまじまじと見つめた。
高校生だろう。やや小柄な方か。僅かに茶色がかった髪は、短い。すらりとした手足を、夏ものの制服に包んでいる。きちんとネクタイを締め、スラックスと同色のベストも身につけていた。生真面目な視線が、まっすぐにこちらへ向けられる。
一見した限りでは、女生徒と間違えるかもしれなかった。しかし、それは、雰囲気が女性に近いというよりは、幼い子供の性別が判りづらい、というものに似ている。
彼は、明らかに子供ではないのに。
つまりは、無垢さ、か。
「で、こっちが弥栄紫月。杉野先生の養子で」
「あんな奴は養父でもなんでもない。実際、籍だって入っていないんですから。僕に何を頼んだって無駄ですよ」
が、そう値踏みされた当人は、苛立ちを隠そうともせずに言い切った。ぱたん、と本を閉じると、踵を返し、離れていく。
「……まあ、あいつ、気難しいけど悪い奴じゃないから」
とりなすように、山村が声をかける。
「ありがとう。ここからは、俺が何とかするよ」
親切だった青年に礼を言って、咲耶は弥栄の後を追った。
「おい、弥栄、くん」
「話があの男のことなら、何も言うことはない」
足音も立てずに、横合いの通路へ姿を消す。
「ちょっと、話を聞きたいだけなんだけどさ」
続いてその角を曲がったところで、咲耶は足を止めた。
見える範囲に、学生服の人影はない。
「しまった……!」
見失うほどの時間はなかった筈だ。闇雲に周囲の通路を覗きこんでいく。
その頃、弥栄は机に座り、本を開いていた。手元のノートに、時折何か書きつけている。
真剣な視線の先に、影が落ちた。
溜息をつきつつ、顔を上げる。
「いい加減にしてくれ。僕は」
「紫月様」
遮られた声に、表情を消す。静かに、紫月は椅子を引いた。
遠くで、がたん、という鈍い音と、人のざわめきが聞こえる。
反射的に、咲耶はそちらへ足を向けた。
しばらくの間、背の高い書架の間を通っていくと、ふいに視界が開ける。
机が並ぶスペースに出たのだ。
学生たちが遠巻きに眺める中心にいたのは、年齢的に学生とは言い難い男たちだ。人数は五人ほどか。服装はスーツを着ていたり、Tシャツやポロシャツ、デニムと、雑多だ。
その内の一人が、制服姿の少年の手首を掴んでいた。足元には、木製の椅子が倒れている。
「とにかく今日はお戻りください、紫月様。お義父様もお待ちになっておられます」
「関係ない。離せ」
頑なにそう言う少年には、見覚えがある。
「子供相手に大人げないじゃねぇか」
横合いから放たれた言葉に、その場の視線が集中した。
腕組みをして立っていたのは、長い黒髪を一つに結った少年だ。
「君は……」
小さく目を見開いて、紫月が呟く。
「ガキが口を出すな」
鼻を鳴らし、近くにいた一人の男が追い払うように手を振る。
目の前を通り過ぎたその手首を軽く掴み、咲耶はひょい、と捻り上げた。もう一方の手を、相手の背中に触れさせる。ずだん、という小気味いい音を立て、男の上体が手近な机の上に押しつけられた。
痛み、というよりは驚愕の悲鳴が上がる。
「何を……」
少年の細い腕でなされた蛮行に、周囲の者たちが呆気に取られ、動きが止まる。
咲耶が、視線をちらりと紫月へと向けた。
一瞬で我に返り、紫月は自分の手を掴んでいた相手を力任せに振り払う。
「あ、この……」
身を翻した紫月を追おうとした男の前へ、咲耶は身軽に回りこみ、素早くその足をひっかけた。
がたがたと騒音を立てながら倒れこむのを確認もせずに、紫月に追い縋る。
肩越しに向けた視線が、咲耶を認めて僅かに和らいだように見えた。
「出口はどっちだ?」
「右側だ。あのちょっと広くなってるところ」
言いかけた紫月が、息を飲む。エレベーターホールらしき空間には、数名、所在なさげにうろうろする者たちの姿が見えた。
追っ手なのだろう。
「階段は?」
「手前!」
待ち構えていた追っ手がこちらを認識したらしく、ざわめく。
二人は全力で通路を曲がり、壁に開いた空間に飛びこんだ。
「上向きか……!」
悔しげに紫月が呟く。そこには、ただ上方に向かう螺旋階段があった。
躊躇う紫月の背を押し、上へ向かう。
「何だこれ?」
登りながら尋ねると、僅かに息を乱して紫月は答えてきた。
「下に向かう方の階段と、ちょっと離して作ってあるんだよ。壁の向こうは吹き抜けで、そっちから見たら壁が膨らんでいるように見えるんだ。デザインの都合だろう」
「面倒くさいな」
幸いと言うべきか、階段の断裂はちょうど四階だけだということで、このまま屋上まで通じているらしい。
「上まで行けば、他に降りる場所もある。大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、紫月が呟いた。
そこに到達するまでに、他の出口を抑えられていなければ、だが。
「なあ、弥栄。あんた、高い場所は苦手か?」
「……いや?」
訝しげな声が、暗に問いかけてくるところを無視する。
背後から、小さく怒声が聞こえてきた。
最期の一段を、踏みつける。
すぐ目の前にある扉は、内側から南京錠がかけられていた。
焦った表情を浮かべ、紫月は背後の階段を振り返る。
咲耶が、全く動揺も見せず、その南京錠に手を触れた。声を出さず、口の中だけで一言、呟く。
かしゃん、と、小さな音を立てて金属の錠は外れた。
「……え?」
ぽかんとした顔で、紫月は向き直った。
「ちゃんと嵌ってなかったみたいだぜ」
軽く返すと、南京錠を後ろに放り投げた。からんからん、と高い音を響かせて落ちていくのにつれて、時折驚いたような声が上がる。
押し開いた扉の外は、むっとした熱気に満ちていた。
コンクリートの床が、夏の太陽光にじりじりと温められている。多少風が吹くのが、せめてもの救いか。
現状、誰も屋上にはいない。
暑さにげんなりした顔の道連れを置いて、紫月は小走りにそこを進んだ。十五メートルほど離れたところに、もう一つ小さな建屋がある。
が、扉ががしゃがしゃと内側より音を立てているのに気づき、足を止めた。
「向こうからも来てるな」
のんびりと追いついてきた咲耶が呟いた。
おそらく、鍵が開かないのだろう。
「紫月様!」
背後から、声がかかる。
唇を引き結び、制服姿の少年はそれに向き直った。
四人ほどの男が、螺旋階段より姿を見せていた。少年たちよりもあからさまに肩で息をしている。
普段からあまり運動をしていないらしい。
「お戻り、を、どうか」
「嫌だ」
じり、と半歩下がって、拒絶する。
だが、逃げ場はない。
そのうち、残りの追っ手がやってくることは確実だ。
そして、下に下りる階段は相手に抑えられている。
どうしようもない屈辱に、紫月の顔が歪みかけた時に。
「ん。それじゃ、とっとと逃げるか。弥栄」
悠然と、隣に立つ少年が声を上げた。
幾度目か、その場の全員がぽかんとする。
「君は一体なにを……」
「奴らに拉致られたくはねぇんだろ?」
「いや拉致って」
流石に不穏な言葉に、苦笑する。
それに応じるように不敵に笑んで、咲耶は小さく呟いた。
「来い。桂」
ざあ、と、突風が吹き上げる。
呼吸すら止まり、目を開けるのも困難な中、大きく何かが羽ばたく音がする。
一人、長い髪を乱して立つ少年の背後、屋上の柵の向こう側に、白い鳥が浮かんでいた。
翼の差し渡しが、五メートルほどはありそうな。
「な……」
「莫迦な、あのガキ、こんなところで!」
軽く、足を柵の上にかけて、よ、と咲耶はその鳥の背中に飛び乗った。背後を向いて、片手を延ばしてやる。
覚悟を決めたような悲壮な顔で、しかし紫月はその後を追った。咲耶に手を捕まれ、引き寄せられる。
飛び移った場所は、意外と足元が安定していた。斜めになっていたり、滑ったりするような感覚はない。
すぐにふぅ、と浮遊感に襲われる。静かに、ゆっくりと羽ばたく動きに乗せられて、鳥はぐんぐんと上昇していく。
咲耶は、屋上に取り残され、騒ぐ男たちをじっと見つめていた。
「これ、は、何だ?」
不審そうな声に、振り返る。
紫月はその場にしゃがみこみ、片手を鳥の背に乗せていた。
こんな状態で空を飛んでいるというのに、彼らの姿勢は全く揺らぎもしない。
「俺の……、式神だ。聞いたことはあるか?」
「いや」
紫月の、生真面目な視線が、じっと見上げてきた。




