第四章 03
ここは、聖エイストロム教団の敷地内。さほど遅い時間でもないのに辺りに人気がないのは、教団側にしばらく礼拝堂跡地に近づかないようにと前もって頼んでおいたことと、念のため周囲に結界を張っているからだ。
「ご足労をおかけしました」
紫月が小さく頭を下げるのを、西園寺は軽く手を振っていなした。
「気を回さんでええ。で、何が話したかったんや?」
一瞬、言葉を発するのを躊躇う。が、ここまできて、黙りこんでも仕方がない。
「……下で、話しましょう。待っている人もいます」
「人?」
西園寺の問いかけにはもう答えず、踵を返した。男は視線を傍に立つ咲耶に向けるが、彼も無言で相棒の後に従う。
彼らが向かったのは、焼け落ちた礼拝堂だ。
月明かりがぼんやりと足元を照らしていたが、地下へ通じる階段から先にはそれはもう差しこまない。紫月が小さく呪文を呟いて、拳大の淡い灯りを作り出した。それはふわりと頭上に浮き、三人を先導する。
地下の礼拝堂へ続く扉は、僅かに開いている。その向こう側から温かな光が漏れていた。
軋みと共に、その扉を押し開く。
礼拝堂の壁に設えられていた燭台には、全て蝋燭が灯されている。その柔らかな光が室内をあますところなく照らし出していた。フロアの中央に円と直線、そして奇妙な文字を用いた図形が描かれていた。大きさは、直径が三メートルほど。それからさほど離れていない場所に、木製の椅子を置いて太一郎が座っている。
違和感に、西園寺が眉を寄せた。
「上におった時、こんな灯りは見えへんかったぞ」
一階部分の可動式の床は、今見上げても半ば近くまで開いている。下階の光が漏れない訳がない。
「当たり前だ。結界を張ってる。万一にも他人に知られたくはないんだ」
「張ってるって、外にはもう結界を張っとったやろ。更に内側になんぞ、できるわけがない」
結界とは、簡単に言えば空間を密閉させた状態のことだ。その密閉の程度により、結界の内外の出入りを可能にする範囲が決まる。
ただ、結界が既に存在している時は、どれほど密度を薄くしていても、その内側にもう一つ結界を張る、ということはできない。一つの空間の中に、結界は一つだけしか存在できないのだ。
今、地上に大きく礼拝堂を囲むような結界が張られている。その内部でありながら、一階から地階の部屋を伺えなかったということは、太一郎は二重に結界を張っていると言っていることになる。
小さく少年は吐息を漏らした。
「誰が結界を閉じていると言った? これは部分結界を組み合わせて使っているんだ」
鋭く、西園寺が息を吸う。視界の隅で、呆れたように咲耶が頭を振っていた。
通常、結界は目標点を中心に、球状に設置される。これが一番自然な形状だが、状況によって多少形は変わることがある。だが、程度の差こそあれ、何かに対して完全に密閉されているということが基本的な条件だ。隙間があっては、そこから入りこむものがでてきてしまうのだから。
部分結界とは、敢えてその隙間を作っているものだ。滅多に使われることはない。強度を維持するのに技量が必要で、設置の設定は酷く複雑であり、しかも単体では意味がないために複数使わなくてはならず、数が増えれば相乗的に難易度は上がっていく。その割にメリットはさほどない。
いや、メリットが生じるほどのレヴェルを維持できないのだ。一般的な術師が張るような結界であれば。
にやりと太一郎は嘲るような笑みを浮かべた。
「無駄に理解をしようなどと思わないことだ。限界の存在を納得することが、唯一お前たちの無謀さを和らげるのだからな、不良警官」
「……まあ、それはそれとして納得しといたるわ。で? わざわざワシを呼び出したんは、お前の差し金か?」
憮然として、西園寺が促す。
「まあ、そうだな。お前があまり長期に渡って周囲をうろつくかと思うと我慢ができなかったんだ。説得してやったのだから、感謝して欲しいぐらいだが」
「説得やて?」
それについて太一郎は無言を選び、そして意を決したような表情で、紫月が一歩前に出た。
「……杉野が、亡くなった日のことで。貴方に、話していなかったことがあるんです」
静かに西園寺は顔を向けた。咲耶は一歩退いて、片足に重心をかけて立っている。明らかにこの場は紫月に任せようとしているのだ。
「何や?」
太一郎に対していたよりはやや柔らかい口調で、西園寺は尋ねた。僅かに瞳を揺らせて、紫月が続ける。
「あの時、ここにいたのは、僕と、杉野と、咲耶と、それから、もう一人。いえ、杉野が召喚した悪魔が一体、存在したんです」
「悪魔?」
あからさまに顔をしかめ、西園寺が繰り返す。
紫月は暗い表情で頷いた。
「僕と咲耶がこの場を去った時には、杉野は無傷でいました。それは、間違いありません。でも、その時、まだその悪魔はこの場にいたんです」
男が無意識に親指で唇をなぞる。視線が、ざっと礼拝堂を横切った。もう、そこには当時のものは何も残っていないのに。
「……で?」
平坦な声で促される。
それに応えられないことが、本心から歯がゆい。
「その後のことは、僕たちには判りません。何があって、杉野が生命を落としたのか、全く」
刑事は長く吐息を漏らした。がしがしと手荒に短い黒髪をかき乱す。
「まあそう落胆するな。何のために僕がここにいると思っている」
何故か得意げに告げながら、身軽に太一郎が椅子から降りた。西園寺が心底胡乱な目つきで見据える。
「物事を引っかき回すのを楽しんでるようにしか見えへんけど」
「偏見で目を曇らせるのは感心しないな。簡単に言えば、僕がこの魔法陣で、これから、その時に召喚されていた悪魔を呼び出すんだ」
更に西園寺の表情に険悪さが増した。どう見ても、太一郎の提案に好感を持っているようには思えない。
しかし太一郎は宥めるように--もしかすると、煽るように、片手を振った。
「お前の懸念も判る。悪魔が現れて、お前の役に立つとも思えないのだろう。だが、この魔法陣は、召喚したものに真実だけを話させるような強制力を持っている。少なくとも、情報は増えこそすれ、邪魔にはなるまい」
そう告げられて、まじまじと魔法陣を眺める。だが、どちらにせよ西園寺の使う術とは全く違う理論に則っているのだから、理解ができる訳もない。
つまり、太一郎が巧言令色によって彼を陥れようとしていないとは、判断できない。
数秒迷うように沈黙して、口を開く。
「なぁ。この魔法陣、写メってええ?」
「お前……。今時の若者みたいな言葉使ってんじゃねぇよ……」
うんざりした声で、咲耶が背後から呟いた。
「やかましい。ワシはまだ若手や」
気分を害した風に、西園寺が反論する。
おそらく、咲耶の発言は、通信機器に対する嫌悪感からだろう。つまりは西園寺にとっては完全にとばっちりである。
「どこに送るつもりなんだ?」
太一郎が、むしろ面白そうに尋ねた。
「ワシは西洋魔術は専門やないからな。本部に、詳しい奴がおるさかい、ちょっと見て貰う。召喚した悪魔が、ホンマにお前の言うように動いてくれるもんかどうか」
「ふむ。まあ、それで任せて貰えるなら構わないが」
西園寺が背広の内ポケットから携帯電話を取り出した。数枚、位置を変えながら写真を撮る。その後、慣れた手つきでメールを打っていた。
あからさまに嫌そうな顔をして、咲耶は更に数歩後ずさっている。
結界は携帯の電波も遮断するものなのだろうか、などと紫月が呑気に考える。まあ今張っているのは部分結界だということなのだし、電波が摺り抜ける隙間はあるのかもしれない。
一分も経たず、西園寺の携帯が震えた。
「おぅ、見てくれたか?」
『ああもう、何を考えてるんだい、西園寺くん! 呪いの画像とか送ってこないでくれよ。しかもこれ生データじゃないか!』
「何が呪いやねん何が。とりあえず気ぃついたこと言うてくれ」
どこまで本気なのか、苦情を言い立てる相手を軽く流す。数秒、電話の向こう側でぶつぶつ言っている気配があったが、漆田は要望に応えてきた。
『西洋悪魔召喚の魔法陣だね。制限がかなり厳しい。並の悪魔なら、身動き一つできないよ。陣を描いてる素材によっては、もっときついかもしれない。あと、強制が幾つか。多分、[真実]と[平穏]と、そして[告白]だ』
短く礼を言って、西園寺は電話を切った。視線を向けると、促すように太一郎が見上げてきている。
彼が、電話の内容を聞いていても全く不思議はない。
「ええやろう。乗ろう」
西園寺の言葉に、目に見えて周囲の空気が緩んだ。
頷いて、太一郎が魔法陣へ向き直った。尊大に腕を組んで、床を見下ろす。
「来い」
その短い一言で、大気が震えた。
罵倒が口を衝きかけて、西園寺が堪える。常識的に考えて、そんな言葉で悪魔の召喚が果たせる筈がない。控えめに言っても失敗するだろう。
だが、ここで彼が声を出して更に悲惨な事態に陥る訳にはいかなかった。
咲耶と紫月が、僅かに顔色を青褪めさせて、術師と魔法陣とを見つめている。
一同の視線が集中する先で、空間が陽炎のようにゆらりと揺れた。
まるで一枚一枚と薄紙が重なっていくように、陽炎は密度を増し、その向こう側を覆い隠していく。
そして、とうとうそれがひとのかたちを成した。




