第一章 04
廃工場の間を抜ける通路を歩く。
「そもそも、ワシは今日、一応書類上は有給取っとるやろうが。咲耶がワシを社会人として失格やとか思ってしもてたらどう責任取ってくれるんや」
隣を進む漆田に、西園寺はぐちぐちと文句をつけていた。
「多分彼は君のこと、既に人間として失格だと思ってるみたいだから、今更どうということもないんじゃないかな?」
「うっわめっちゃむかつく」
しかしさらりと感想を述べられて、低く呟いた。
「まあ、普段なら午前中ぐらいのロスは大目に見て貰えるんだろうけどね。今回は、ちょっと、相手が悪い」
歯切れ悪く漆田が呟くのに、不審な視線を向ける。
「相手が悪い、ってどういう意味や」
殊更今回そういう感想を告げられたのに問い質す。だが、青年はそれにしばらく沈黙した。
進んでいく通路の先に、車が停められていた。西園寺がここへ来るまでに乗ってきたものだ。駐車場に停めていては戦闘で被害を受ける可能性があるので、あえて離れた場所に置いておいたのだ。しかし今はもう一台、同じような黒い車が後ろに駐車されている。
漆田が白衣のポケットから茶封筒を取り出した。
「はい。キーは中に入ってる。資料はダッシュボードの中にあるし、ナビは本部長に直通のラインが繋がるようになってるよ。当座の必要なものは用意されてると聞いている。君の車は私が乗って帰るから。多分、料金は経費で落とせると思うよ」
片手で封筒を差し出し、もう一方の手を要求するように開く。肩を竦め、西園寺はレンタカーのキーをそこに乗せた。
茶封筒の中身を取り出す。電子キーの他には、焦茶色をした革の手帳のようなものが出てきた。慣れた仕草で西園寺が開くそれは、手帳と違い縦向きだった。
そこまで見届けて、漆田がレンタカーへ歩み寄る。ぺたん、とサンダルが軽い音を立てた。
「うん、まあ、今回はちょっと同情するよ。君たちに」
そう言い残し、車に乗りこんだ。そのまま滑らかに発車させる。
小首を傾げながらそれを見送り、電子キーを摘む。それは指紋認証と呪紋認証を兼ねている。本部に属する人間以外は起動させることは不可能だ。開発したのは、漆田だった。少なくとも、あの青年は有能ではある。色々と癖があるにしても。
簡単にロックを外し、運転席に入る。同時にナビが起動したらしく、名前を呼ばれた。時間がない、というのは誇張ではないらしい。小言を覚悟して、西園寺は姿勢を正す。
帰宅途中の喫茶店でモーニングを摂り、他愛のない話をしているうちに、咲耶の機嫌は直ってきたらしい。のんびりと少年たちがマンションへと戻ってきたのは、廃工場を出てから三時間ほど経ってからだった。
マンションを視界に入れたところで、唐突に咲耶の足が止まる。
路肩に一台の車が停まり、歩道側の扉にもたれて一人の男が立っていた。
「……近いうちって言ってたけど、やけに早いな……」
紫月が小さく呟く。咲耶はそれを黙殺し、大きく溜め息を落とし、そして肩をそびやかして勢いよく足を進めた。
男がこちらに気づき、眉を寄せて口を開く。
「遅いわ。何時間待ったと思っとる。青少年が朝っぱらからふらふら遊んで来とるんちゃうぞ」
「俺は一体どこから反論すればいいんだよ……」
疲労感がぶり返したのか、力なく咲耶は答えた。
だが、三時間前に会っていた時と、男の雰囲気は大きく異なっている。
あの時はこれから起きることへの期待からか、ひたすら楽しげな表情しか見せていなかったのだが。
今の彼は、咲耶に劣らず、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。火の点いた煙草を苛々と携帯灰皿へ放りこむ。その中からは、既に数本の吸い殻が覗いていた。
訝しげに、紫月は一歩離れてそれを見ていた。他人事だ、と思っていたのは確かである。
眉間に皺を寄せたまま小さく息を吸い、西園寺は二人に革の手帳のようなものを示した。ぱたん、と軽く表紙が縦に開く。
中から現れたのは、金属製の、威圧感のある紋章だった。
……いや。
「警視庁捜査零課所属、不可知犯罪捜査官、西園寺四郎や。杉野孝之さんが亡くなった件で、事情を伺いたい。同行して貰えるか? 弥栄紫月くん」
桜の代紋の前面には、左右から斜めに交差するように二振りの抜き身の日本刀があしらわれている。
西園寺の言動の全てに衝撃を受け、二人の少年はただ立ち尽くした。
車の内部は、沈黙に支配されていた。
だが、少年たちが、特に咲耶がずっと静かだったわけではない。
最初に同行を求められた時に、まず反発したのは黒髪の少年だった。
「任意同行か。断ることはできるはずだよな」
彼は、西園寺の就職先を知らないと言っていた。ましてや、度々自分を殺すために現れるこの男が刑事だったという時点で酷く動揺しても不思議はないのだが、咲耶が絶句していたのはほんの数秒だった。
だが、不機嫌な表情のまま、西園寺はそれに答えた。
「いや。普通の捜査方法やったら、確かにそうやけどな。『不可知犯罪捜査官』の辞令を受け取った時点で、この件に関してワシに一切の制限はかからへん。今は同行をお願いしとるけど、断られたら力ずくで連行するまでや」
「何だよ、それ」
苛立った声で、突っかかる。
「……あの」
しかし睨みあう二人は、横からかけられた声に顔を向けた。
「杉野が亡くなった件では、僕も今までに何度か事情はお話しているんですが。二ヶ月も前ですし、今更何を……?」
戸惑った風に問いかける紫月を、強い視線で男は見下ろした。
「ワシが辞令を受けたんは、つい三時間前や。今更、やない。二ヶ月の間、警察が何も調べてない訳でもない。杉野さんの特殊な技能も、それによる副収入の存在も、君に何をさせてたんかも、全部」
暗に示してくる言葉に、紫月の顔が強ばった。
杉野に、何をさせられていたのか。
あまり思い出したい記憶ではないし、知られたい事実でもない。
西園寺は、軽く後部座席の扉を開いた。
「乗りぃ。昼間っから、住んどるマンションの前でしたい話やないやろ」
「朝っぱらから住んでるマンション襲撃された俺の前で常識的なこと言うなよ」
咲耶が毒づく。
しかし、彼自身は是とも非とも返事をしない。
あくまで、同行を求められているのは、紫月だからだ。
断った場合、ここでどういう修羅場が起きるのかな、と僅かな興味が浮かぶ。
まあ紫月もそこまで人が悪くはない。
「判りました」
静かな返事に、咲耶が溜め息を零す。
「俺も一緒に行ってもいいか」
「咲耶?」
僅かに驚いて、名前を呼んだ。
「お前を一人でこの変質者と行かせられるかよ」
「いや、君の心配するところはそこなのか?」
呆れて返した言葉の終わりが、西園寺が車の屋根をどん、と叩いた音にかき消された。
「ええから二人ともさっさと乗れ。時間がないんや。早いとこ移動すんで」
その車は、朝に西園寺が乗ってきたものとは違っていた。
厳重に防御の呪が施されたそれに咲耶はあからさまに眉を寄せたが、無言で乗りこむ。自ら施した防御以外を信用しない彼だが、今それを言い立てる場合ではないと判っているのだろう。
続いて紫月が車内に入る。西園寺が運転席の扉を閉めた瞬間、不吉な響きと共にロックと更に厳重な呪で封じられる。
「息苦しいな……」
小さく咲耶が呟く。
「堪えてくれ。すまん」
率直に西園寺が謝罪する。少しばかり意外で、咲耶はそれ以上文句はつけなかった。
「これからどこへ行くんですか?」
落ちつかなげに、紫月が尋ねた。
「捜査零課の本部に向かう。ちょっと遠いけど、そこやったら多分安全やからな」
「……別に僕は暴れ出したりしないですよ」
咲耶とは違うし。
その言葉は続けなかったが、隣の相棒から胡乱な視線を向けられる。
「別に、坊ンを凶悪犯扱いしとる訳やない。……厄介なヤマなんや、ホンマに」
一つ大きく溜め息をついて、西園寺はアクセルを踏んだ。




