絶幕
卓の上に並べた道具を、ひとつひとつ確認する。不備はない。
強く、襟を正した。慣れた手つきで襷をかける。
身は既に清めてある。あとは、集中して作り上げるだけだ。
幾度も経験していることではある。だが、この緊張感はいつまでも慣れない。
不愉快ではないが。
畳の上に、きちんと正座する。最後に深呼吸を、と息を吸ったその時に。
「咲耶! ちょっと、来てくれないか?」
……なんとなく、このまま畳の目を数えたい衝動に駆られる。
「咲耶?」
「判ったよ、今行く!」
更なる呼びかけに、半ば自棄になって怒鳴り返す。ぶつぶつと文句を呟きながら扉を開き、階段を下りた。
階下のリビングには、憤然とした様子の紫月が待ち構えている。
「……何の用だ?」
不機嫌さを露に問いかけるが、しかしそれを気にした様子もない。
「聞いてくれよ、咲耶! 太一郎くんときたら、斎藤さんを玄関の外に待たせっ放しにするつもりなんだぞ!」
苛立つ相棒と、憮然として椅子に座す子供とを、交互に眺める。そして、おもむろに視線をベランダへと向けた。
差しこむ強い日差しは、レースのカーテン越しにすら、その威力を窺い知ることができる。
「……ちょっと、まだ暑すぎるんじゃないか?」
「だろう?」
「お前たちは、何も判ってない。あいつは、こちら側の人間じゃないんだ。不用意に同じ部屋にいて、全く支障がないとでも思っているのか?」
確かに、太一郎の言うことには一理ある。
「だからって、夕方まであのままじゃ、斎藤さんは熱中症になるぞ!」
しかし、勿論、紫月の人道的な主張は正しい。
睨み合う二人を横から眺め、咲耶は溜息をついた。
「判った、判ったよ。とりあえず、今日のところは斎藤さんには俺の部屋にいて貰おう。終わったら声をかけてくれ」
「ありがとう、咲耶」
「宜しく頼む、咲耶」
「お前が俺を名前で呼ぶな」
嫌悪感をあからさまに見せてそう言い置くと、太一郎を拒絶する。
そして、勝手知ったる風に廊下を進み、玄関を開けた。
扉を開いた瞬間、むっとした空気が身を包む。すぐ横の壁際に立っていた斎藤は、相変わらずスーツを着崩してもいない。こちらを振り向いて、咲耶の白装束に少し驚いた顔をした。
「こんにちは、斎藤さん」
「こんにちは。ご無沙汰しています」
礼儀正しい挨拶に、苦笑する。
「ここは暑いから、俺の部屋にきてください。すぐ上です」
適当に紫月のスニーカーに足を突っこむ。後で返せばいい。
エレベーターで一階上に上がり、咲耶は扉のひとつに手をかけた。
斎藤が小首を傾げる。
「鍵をかけていないのですか?」
「少しの間だったので」
「無用心ですよ。気をつけないと」
咲耶と紫月は、防犯に関しては、鍵などよりもよほど強固な手段を使っている。普段は家の中に人を入れないため、ちょっと気を抜いていた。
曖昧に笑って、中へと入る。
斎藤は和風にリフォームしてある室内を少し驚いたように眺めていた。リビングに置かれた卓の上に並んだ和紙や筆、墨などを目に留める。
「書道ですか?」
「ええ、まあ」
冷蔵庫から麦茶を取り出しながら頷く。
先日の仕事では、呪符をかなり消費した。
専門職が作ったものを買うこともできるが、そういったものは概して高価である。
特殊なものを除いて、咲耶は大抵の呪符を自分で作っていた。自分の使いやすいように特化できることも利点だ。
だが、この状況では、今日の作製はもう無理だ。今まで、入念に行った準備は全て無駄になった。
内心で階下の二人を口汚く罵倒しながら、コップをダイニングのカウンターに並べる。流石にキッチンまで和式にする意味はない。
よく冷えた麦茶を、ありがたそうに斎藤は一息に飲み干した。
「夏木は、弥栄さんの家庭教師をするのだと伺っているんですが。大学受験ですか?」
太一郎にも紫月にも問い質しにくかったのだろう。一見無関係な咲耶に問いかける。
「そうですね。あいつは、今ちょっと事情があって高校に通っていないもので。来年、資格を取って大学に進学するつもりだと言うので、その件でしょう」
にこやかに笑んで、そう答える。
実際のところ、守島咲耶が夏木太一郎に強要したのは、そんな穏やかなお勉強のためではなかった。
「よし。夏木太一郎。お前の生命と引き換えに、やって欲しいことがある」
強い口調で言い渡す少年を、太一郎は不遜な視線で見返す。
確かに、咲耶の術で拘束されてはいる。だが、逆に、この拝み屋たちは、太一郎の構築した空間から抜け出せてもいないのだ。
しかし、そんな状況を全く問題にもしていないように、咲耶は言葉を継いだ。
「これから先、紫月に西洋魔術とそれを扱うための手管を叩きこんでやってくれ」
「何だと?」
「咲耶、それは一体……」
即座に口を開く二人を一瞥する。
「お前にだって判ってるだろう、紫月。俺じゃあ、お前に充分な教育をしてやれない。かといって、お前を野放しにすることはできないんだ」
痛いところを衝かれて、詰まる。そのことについて、実は紫月は咲耶ほど重要視してはいないが、それでも時折不安に思うことはあった。
「この僕に師事したい、と? 生半可な犠牲で賄える要求じゃないぞ」
だが一方で、太一郎は凄みを増した口調で告げてくる。
「そりゃ、勿論俺に差し出せる一番高い犠牲を払うさ。今、ここで、お前を消滅させないことだ」
革の手袋に包まれた片手を差し出し、不敵に笑んで、咲耶が代価を提示する。
数秒間考えこんで、おもむろに太一郎は頷いた。
「なるほど。それは、確かに充分な犠牲だ」
その言葉が発せられると同時、周囲の闇が薄れた。ぼんやりと、小屋の内部の様子が視界に映る。開け放たれた扉の向こうには、夕闇が迫っていた。
あの数秒間に、彼が咲耶の要求を飲む決意をする、何らかの打算を打ち立てたのは確かだった。
だが、それを少年たちは知る術もなかったし、正直知りたいとも思ってはいなかった。
心臓の鼓動に合わせ、自己主張を繰り返していた傷の痛みが、ゆっくりと和らいでいく。
身体の機能が正常に戻っていくのを実感して、紫月は肩の力を抜く。
浅く、細かく行っていた呼吸を、長い溜め息で補った。
そして。
「夏木さん」
呼びかけに、太一郎は肩越しに相手を見上げた。その冷徹な視線に、怯みそうになる。
だけど。
「……僕が、先刻まで逢っていたのは、本当に僕の母親だったんですか? もしもそうだとしたら、僕を殺そうとしたのは、母の意志だったんですか?」
それを問い質すことは、彼にとっては酷く思い切った行為だった。
しかし、相手は小さく肩を竦めた。
「知らん」
「……また軽く返すもんだな」
拘束を解くことを考え直そうか、と思いながら、咲耶は呟く。
「確かに、弥栄紫月の母親の霊を呼び出しはしたし、命令に従わせた。だが、あれが何を考えていたかまで、僕が把握する必要はない。結局、あれはお前たちを揺さぶるための道具に過ぎないのだからな」
紫月が床板に爪を立て、ぎ、と嫌な音が響く。
前後にいる二人の少年から発せられる、酷く不穏な空気に気づいたのかどうか、太一郎は動じずに続けた。
「気になるのなら、直接訊いてみればいい」
「……え?」
思ってもみなかった言葉に、小さく声を漏らす。
「短い時間なら、まだ呼べる。長引かせると完全に消滅するが。言っておくが、呼び出したとしても、それがお前の望み通りに動くとは限らないからな」
淡々と告げてくる太一郎を見下ろす。
そして。
「お願いします」
少年は、意を決してそう告げた。
予兆、といったものは全くなかった。
すぅ、と太一郎が視線を流した先に、彼女はいた。
閉ざされた小屋の、隅に蟠る闇にほの白く肌を光らせて。
ゆっくりと、紫月が立ち上がる。軋みを上げる床板を踏みしめて、近づいていく。
持ち上げられた両手が、紫月の頬に向かう。それは、血に塗れることはなかった。
頬に触れようとする指先は、しかし何の感触も与えない。口を開いても、もうその声は届かない。困ったように彼女は微笑んだ。
紫月が、そっと、その手を外側から包む仕草をする。
軽く息をついて、咲耶がしゃがみこんだ。よ、と小さく声を出して、太一郎の身体を無造作に抱え上げる。
もの問いたげに見上げる少年を無視して、踵を返した。先ほどこじ開けた扉から静かに外へ出る。
「ひょっとして、結構気を使う質なのか?」
「あんまり余計な口を叩くと、山道で放り出していくぞ」
視覚でしか母親を認識できない状況で、それでも充分に紫月は満たされていた。
「……先月、父さんに逢ったよ」
小さく、ぽつりと呟く。ちょっと驚いたように、母親は目を見開いた。
「ありがとう。あなたに逢えてよかった。あなたたち、ふたりに」
その場に父はいなかったが、その言葉がするりと口を衝いて出る。
ふわり、と母の身体が浮いた。成長した息子を、やや上方から抱きしめる。
感じられない筈のぬくもりを確かに感じて、紫月はきつく目を閉じた。
契約を結び、帰宅した翌日には、こうして斎藤を伴ってやってきているのだから、まあ太一郎のことはある程度信用していいだろうと咲耶は踏んでいた。
「……そういえば、斎藤さん。まだ、あの別荘に住みこみなんですか?」
しばらくの間世間話をして、ふと思いついたように咲耶が話題を変える。
「はい。おかげさまで、あれ以来何事もなく過ごせていますよ」
嬉しげに答える青年に苦笑する。
「それはよかった。……あの時から思ってたんですけど、どうして斎藤さんはあそこまでするんですか?」
僅かに、斎藤の顔が強ばった。
「あんな辺鄙な場所に勤務なんて、大変でしょう。しかも、期限も切られていない。ちゃんとした休みもなく、一日中つきっきりで、上司でもない子供の世話を焼かなくてはならないんですから」
「……貴方は、経験がないから判らないかもしれませんね。私は、新入社員です。会社の辞令を拒否なんてできません」
「ええ。それにしても、素晴らしい忠誠心だ、と思っているんですよ」
世間話の延長、という雰囲気を崩さない咲耶に、青年は小さく溜め息をつく。
「忠誠心、といえば言えるかもしれません。私は、中学で父を亡くしました。母と二人、途方に暮れていた時に援助して下さったのが、夏木専務です。父と同級生だ、とそうおっしゃって、葬儀の席で涙を流して下さったのです」
自分が大学まで卒業することができたのは、専務のおかげだ。
だが、忠誠心はむしろ、彼のあの涙に対してなのだろうと思っている。
「専務に報いるためには、私は何でもするつもりで入社したんです。太一郎様のお世話に当たるのは、むしろ信頼の証ですよ」
周囲にはコネ入社だと思われているみたいですが。そう締めくくって、斎藤は小さく微笑んだ。
「……とりあえず、俺は貴方の今後の幸運を全力で祈っておきますよ」
心底本気で、咲耶は気の毒な青年にそう告げた。




