第四章 03
呆れたような声が、いっそ新鮮だった。
普段は結い上げている長い髪を下ろし、片手に白く光る棒のようなものを持った友人が、こちらを見つめている。
「また、酷くやられたもんだな」
名前を呼ばれた後、今度も突然攻撃されるか、と身構えていたが、僅かに眉を寄せてそう呟かれただけだった。
相手の、いつもと変わらない調子に、思わず笑みが浮かぶ。切れた唇の端が、小さく引き攣った。
「やあ、咲耶。君は無事なようだね」
瀕死、と言ってもいいような状態でもそう言えたことに、内心安堵する。
咲耶は、軽く肩を竦めてきた。
「まあ、十人程度だったからな。大した数じゃない。兄貴たちに親父にお袋に、兄弟子たちと従姉とあとは変質者か」
最後の単語が理解不能で、首を傾げた。額から流れ落ちていた血が、未だ穢していなかった肌に、どろりと垂れる。
おそらくは、彼もまた今までの自分と同じような状況にあったのだろう。
だが、その身体には一つの傷も認められなかった。
「ひょっとして、全員を殺してきたのか?」
「当たり前だ」
あっさりと告げられた言葉に、溜息をつく。
「君は、人殺しはしない主義なんだと思ってた、けど」
「仕事では、だ。はき違えるな。今は、誰かから依頼を受けて動いていた訳じゃない。そもそも、生きるか死ぬかって時にまで貫かなきゃならねぇポリシーじゃねぇよ」
断言する咲耶に半ば呆れ、ほんの少しだけ軽蔑し、そして感嘆する。
彼は、本当に、どんな時も確固たる自分を崩さない。
その咲耶は、改めて満身創痍の紫月を見下ろしていた。
「しかし、お前こそやられっ放しなんて意外だったな」
浅く、早くなりがちな呼吸を、何とか長くもたせようとする。喋りにくい。
「そうでもない、さ。僕が殺したかったのは、世界でたった一人だけだ」
そして、その望みは、目の前の少年に阻まれて、永久に叶わない夢となった。
非難するような響きを全く意に介さず、咲耶は話題を変えた。
「で、お前は何人に殺されたんだ?」
「ああ、さほど多くない。母さんと教主さまと、杉野のゼミにいた学生に、信者の方が何人か」
「人望がねぇんだな」
僅かに笑みを浮かべて感想を述べた相手を、見上げる。
次いで流れ出た言葉は、我ながら酷く冷静だった。
「……夏木さんの別荘で、最後に会った時に、母さんは僕に言ったんだ」
気をつけて。
あなたの、傍にいるものに、気をつけて
あなたの傍にいるものに。
二人が交わす視線に、既に迷いはない。
もう、経過は判っている。
もう、結果は見えている。
「それで、今度は君が僕を殺すんだろう?」
「それで、今度はお前が俺に殺されるんだろう?」
「僕には殺せないからね」
「俺は殺されたくないからな」
二人の言葉に、迷いはない。
咲耶が、武器を持つ手を振り上げる。
紫月が、無意識に身体を庇っていた腕を解いた。
その仕草に、躊躇いはない。
微塵も。
……莫迦な。
あの闇に満ちた空間。他の一切を拒絶し、捕えた者の自己の内部を、深淵を溶け出させた闇。
その中ですら確固たる存在を保つものを、それほどの大きな影響を与えうるものを、絶対的な敵として配置する。
裏切られ、狼狽し、極限状態に陥った人間たちは、無防備にその魂を晒け出す。
その、傷だらけの魂の儚さ、そして醜悪さは、常に心を躍らせるものだった。
今までに数え切れないほど使った手段であり、失敗することなどない、適度な暇つぶしであったのだ。
だというのに。
一人は全くの無抵抗で悪意を受け入れ。
一人は全くの躊躇もなく殺意を斬り捨てた。
莫迦な。
それほどに強く自己を保てる人間など、あり得ない。
あの闇の中で。
そして今、二人はそれぞれの態度を崩さないまま、対峙している。
長い髪の少年が、断固とした表情で武器を振り上げた。
彼がそれを振り下ろしてしまったら。
暇つぶしのつもりが、絶対的に取り返しのつかない事態になりかねない。
そんな、そんな莫迦な。莫迦な。莫迦な。
「……莫迦なことを!」
空間が、大きくぶれる。
咲耶と紫月の間に、立ちはだかるようにして、彼は出現していた。
僅かに、咲耶が唇を吊り上げる。
振り下ろした組紐が、ふいに柔らかくしなった。
「獲ったぁ!」
白銀の紐は、まるで自らの意思でもあるかのように、ぐるりと相手の身体に巻きつき、締め上げ、自由を奪う。
呆気にとられてその光景を見つめていた紫月が、ただ、名前を呼んだ。
「……夏木さん?」
常に冷静沈着だった幼い少年は、憎悪に満ちた視線で咲耶を睨め上げていた。
「勿体ぶってた割には短気だな、あんた」
先日までとは全く違う、ぞんざいな言葉をかけられて、太一郎が眉を寄せる。
「君は驚いてもいないんだな、咲耶」
紫月の咎めるような口調に、肩を竦めた。
「可能性としては、考えてたからな。今回のことで何が気に食わないって、タイミングがずれてることだって言っただろ? お前の母親が死んで、十四年だ。杉野の支配からお前が解放されてからも、一ヶ月。だが、この坊ちゃんが日本に帰ってきた日から、あの屋敷には死霊が溢れていた。お前の母親も含めて。タイミングとしては、ぴったりだ」
「じゃあ、あの頃から君は彼を疑っていたのか?」
咲耶は、拝み屋として太一郎に雇われていた。雇用期間中に、その態度を一度も崩したことはない。
その裏でそんなことを思っていたのか、と、まだ少しばかり純真なところが残っていたりする紫月は問い質す。
だが、咲耶はそんな感情に動かされはしなかった。
「可能性だ、って言っただろ。あの時、あそこには依頼人が二人いた。更に全く関係してきていない、第三者だったってこともありうる。……まあ、確信したのは、つい先刻だ。お前が、母親から警告されてたって言ったからな」
『あなたの、傍にいるものに、気をつけて』
あの時、紫月の傍に最も近かったのは、咲耶の前に立っていた、太一郎だ。
咲耶が膝を曲げた。立ち尽くす太一郎に視線を合わせる。
「さて、それじゃあ『名前』を教えて貰おうか、坊ちゃん」
拘束された少年は、しかし口を開こうとはしない。
薄く笑みさえ浮かべて、咲耶はそれを見据えていた。
「木を隠すには森に、なんて言うけどな。上手くやったもんだよ。あれだけの死霊と呪い、悪魔を配置しておけば、かなりごまかしは効く。……けど、俺の嗅覚は、生憎かなり鋭いんだ」
この若き陰陽師は、人ならざるものを、臭いとして知覚できる。
紫月が、小さく息を飲んだ。
「今でも、殆ど臭わないけどな。……どうやったんだ、これ。中身を喰い尽くして、皮だけ被ってるってのか?」
じわり、と、咲耶の口調に怒りのようなものが滲み出た。
微動だにせずにそれを睨めつけていたまだ幼い少年が、口を開く。
「僕は、夏木太一郎だ」
「訊きたいのは、その名前じゃ……」
眉を寄せて、言い返す。
だが、きっぱりと、彼はそれを遮った。
「夏木太一郎だ。この世界に産まれた時から、僕は僕でしかない。夏木の創設者が僕に器を提供し、彼らへの、彼らからの加護を条件に現世へ降臨したんだ。生身の身体を喰い尽くしたなんて、小鬼がやるような技量で僕を語らないでくれ」
憎悪と苛立ちを、吐き捨てるかのように言葉に籠める。
どうも、変なところに地雷があったようだった。
だが、咲耶の声からは更に凄みが増す。
「それでも、俺はお前の『名前』が知りたいんだよ。今、お前の『器』とやらがどういう状況になっているか、よく考えろ。俺がこうと決めたら、ただの一人の人間の子供ぐらい、処理するのに大した手間がかかる訳じゃないんだぜ」
太一郎の背後にいるのをいいことに、紫月は僅かに肩の力を抜き、視線を頭上へ向けた。
さほど長いつきあいという訳ではないが、大体相棒の気分は察することができるようになってきた。
つまり、早い話が、咲耶は今存分に楽しんでいるのだ。




