第四章 02
山の日没は早い。
まして、西側に山肌がそびえる場所ならば、尚更。
「暗くなる前に中をしっかり調べておくか」
咲耶が連れを促す。気が乗らない風ではあったが、彼はそれに応じた。
戸口を潜ると、屋内は一層薄暗い。
微かにかびた臭いが鼻を突く。
「……むしろ、一晩ここにいるつもりなら、まだ明るいうちに床を何とかするべきじゃないか。これじゃ座ることもできないだろう」
声にやや不快そうな響きをこめて、紫月が提案した。
「この程度大したもんじゃねぇよ」
「修行を積んだ君と一緒にしないでくれ」
状況への対応力を即座に否定されて、肩を竦める。
まあ、確かに意味もなく一晩立っている理由もない。
咲耶が軽く片手を上げる。
「椿……」
彼が、式神を召喚しかけたその時に。
視界が、一瞬で闇に呑まれた。
周囲の気配を探る。
誰もいない。すぐ傍にいた筈の、紫月ですら。
警戒は緩めずに、ゆっくりと視線を一周させた。
何も見えない。ただ、闇が満ちている。
だが。
手を軽く上げる。真っ直ぐ前方に伸ばす。
自分の身体は、はっきり見える。指先や爪先まで、闇に飲まれることもなく。
つまり、ここは、光源がないから、闇の中なのではない。
自分以外に何もないから、闇の中なのだ。
とんとん、と、踵で足元を確かめる。とりあえずはしっかりした感触が返ってきた。
「全く……。仕掛けてくるなら紫月だけかと思ってたのに。俺まで巻きこまれるのかね」
ふ、と、小さく息をついた。
「ま、いいか」
片手を頭の後ろに回す。長い髪を結い上げていた白の組紐を、解いた。両手で端をそれぞれ持ち、ぴん、と張る。
そして口の中で一言二言呟いて、左手を離した。
真っ直ぐに伸びたままの組紐を、まるで刀でも持つかのように構える。
気配はない。誰も。
だが、意識は向けられている。
ねっとりとした、悪意が。
穢れに満ちた、興味が。
そして、酷く軽々しい、殺意が。
何よりもこの、覚えのある、圧迫感。
今の状況を作り出したのが普通の相手ではないことは、充分察せられている。
式神を召喚しようとして、この状況に陥ったのだ。術がどれほどの効果があるか、試してみるだけの余裕はない。
場合によっては、文字通り力押しで対処しなくてはならないと覚悟する。
警戒を解かずに、どれほど待っただろうか。
背後に、自分ではない何かの気配が、生じる。
すぐさま向き直った咲耶は、ぽかんと口を開けた。
「……暁兄?」
「咲耶」
鼓動が大きすぎる。紫月は、苛立った視線を周囲に向けた。
何もない。闇以外は。
見えない位置から向けられる殺意に、苛立っている訳ではない。そんなものに対処する方法など、幾らでもある。
それでも、よりによって、この地へ来たところで生じた怪異に、平静ではいられない。
ああ、せめて、この心臓の音が聞こえてこなければいいのに。
「……紫月」
つい数日前に耳にしたばかりの声に、息を詰まらせる。
ゆらり、と姿を現したのは、見覚えのある女性だ。
長い髪。儚げな佇まい。全てを諦めたような、そんな。
闇の中にいるせいなのか、今は半透明ではない。あの時よりもはるかに確かな現実感を伴って、そこにいた。
心臓が、一際大きく跳ねる。
「貴女、は……」
粘つく喉が、酷く不快だ。
「貴女は、僕の母親なんですか?」
指先の震えを抑えようと、拳を握った。
悲しげな瞳が、こちらをじっと見つめてきている。
「紫月。警告したのに。どうしてここへ、一緒にやってきたの」
ゆっくりと、手が伸ばされる。細い指が、紫月の頬を撫でた。
「母さん……」
奥歯を噛み締める。涙が滲みそうになって、目を細めた。
白い指は、顎の線を辿り、そして。
鋭く、紫月が喘ぐ。
「母さ、ん……!」
母親の指は、きつく、息子の首に巻きついていた。
ああ、せめて。
この鼓動が止まってしまえば。
すらり、とこちらに向けられた切っ先が、鈍く光る。
彼らの周囲には闇しか存在しないというのに。
「何でここにいるんだ、とかって訊いても無駄なんだろうな」
脂汗が滲むのを自覚しながら、呟く。
目の前の相手は、感情を揺らがせもしない。
ただまっすぐ、相対してくる。
記憶にあるままに。
「暁兄相手じゃ、これで太刀打ちできる訳ねぇな……」
残念そうに、手にした白い組紐を見下ろす。
瞬間、一気に相手は距離を詰めてきた。
鋭く息を吸い、半身を翻して避ける。
避け、られた。
「……へえ」
ざ、と、スニーカーの底で足元を均す。
ぎりぎりかわした相手は、再び、こちらに殺意を向けてくる。
「それほどでも、ねぇの?」
嘲りを籠めて、問いかける。
応えはない。
まっすぐに、ただまっすぐに向けてくる、殺意。
これは、記憶にあるものだろうか。
末弟は、にやりと笑んで、得物を構えた。
涙が流れる感触に、はっと目を開く。
息を吸いこみかけて、がさついた空気に、咳きこんだ。
心臓の鼓動を、再び意識する。
どうやら、床に倒れていたらしい。滲んだ視界には、誰の姿も見えない。
母親の、ものも。
「……どうして……」
小さく呟く。
震える指が、自らの喉に触れた。じんじんとしびれるように痛むそこが、辛い。
やがて、漆黒の闇が満ちる視界に、何かが揺れた。
僅かに視線を動かす。誰かが、すぐ傍に立っていた。
それは紫月の傍らに跪き、顔を覗きこんでくる。
「教主さま……?」
ぼんやりと、その名を口にする。
幼い紫月を引き取った養父に代わり、彼の日々の面倒を見てくれていた教団の教主だ。
人のいい、慈愛に満ちたその笑みを目にして、安堵がゆっくりと心に沁みる。
「紫月くん」
深い声が名を呼ぶ。
厚みのある手が、差し延べられる。
まだぼうっとして教主を見上げていた紫月は、それが振り下ろされる直前になって、手に握られた槌をようやく認めた。
鼓動が止まる。
また。
目の前の人影が、力なく息を吐き出す。ずるり、と崩れ落ちる身体を感じて、突き出した得物を引き抜いた。
嫌な手応えを振り払うように、鋭く、目の前を一度薙ぐ。ひゅん、と、手にした組紐は空気を切り裂いた。
額に貼りつく前髪を、鬱陶しげに首を振って払い除ける。
床に倒れた肢体は、すぐに闇に飲まれて消えた。
もうそこには誰もいないように。
「ええと、何人だっけ。九人目だったか」
時折ひやりともしたが、割と楽な作業だった。
相手は全て、咲耶の記憶にあった者たちだ。その実力に関しても。
だが、咲耶は、彼らと最後にやりあってから今までに、かなりの経験を積んできている。
修行と少しばかりの実践しか経験しなかった、あの頃よりもずっと。
ずっと、実際的で、汚い手を取得している。
楽勝とは言えないが、余裕はあった。
「だとすると、やっぱり何考えてんだろうな……。弱すぎるだろ」
記憶にあるよりももっと、強くもできる筈だ。
ふわり、と、空気に、奇妙な臭いが混じる。
露骨に眉を寄せ、少年は振り向いた。
「……よぅ。久しぶりやな。咲耶」
「ああ、判ったよ。嫌がらせか。もう完璧に嫌がらせか。なぁ」
あからさまに嫌悪を態度ににじませると、咲耶は手にした得物を構える。
「お前に言っても仕方ないかもしれねぇけどな。とりあえず、煙草は吸うな」
嘲るように、闇の中に紫煙は流れていた。
苦痛が、全身を支配している。
どくどくと脈打つ鼓動が、それを増幅していた。
「……どうして……」
浅く、呼吸を繰り返す。
べっとりと、肌に貼りつく血の感触が、酷く不快だ。
首を絞められ、潰され、切り裂かれ、抉られ、折られ、打たれた結果としてはまあ順当ではある。
しかし、通常であればこの程度のダメージ、各々数分から数十分で回復する筈だ。なのに、今、彼の身体はその兆しすら発していない。
記憶にある限り、初めての状況に混乱する。
「どうし、て……」
彼を殺してきた人々の顔を、思い返す。
全て、彼が信頼し、親しみを抱いていた相手だった。
涙が頬を伝い落ちていくが、それを拭うだけの気力もない。
ただ、背を丸め、力なく座りこんでいるのが精一杯だ。
そして、また、前方から気配が近づいてきていた。
かろうじて視線を上げた、その先には。
「……紫月?」
見知った少年が、見慣れない格好で立っていた。




