第四章 01
空が、酷く高い。
涼しい空気が、太陽の光を和らげていた。坂道を歩いていても、汗だくにはなるほどの熱はない。
視線を遠くに向けると、山の上の方にはちらほらと黄色や赤みがかった木々の梢が見えた。
もう、秋が近いのだ。
長く、息をつく。
「大丈夫か?」
数歩前を歩いていた咲耶が、振り返って尋ねる。
「ああ」
短く頷いた。
足が重いのは、疲れたせいではない。
午前中に自宅を発った旅程は、もう午後の半ばにさしかかろうとしていた。
数時間、特急と鈍行列車を乗り継ぎ、またその後にバスに揺られ、辿りついたのがこの山だ。
更に、枝分かれした道を一時間は歩いている。
道路が舗装され、時折車も走っていること、そして咲耶の足取りに全く迷いがないことだけが、紫月の足を前に進めさせていた。
今は、この先に何が待っているのかを想像すらしたくはない。
無言で歩き続ける少年たちの頭上に、道路標識が現れる。
直進する矢印と、『野洲崎村』という文字が、二人を先導していた。
まばらに建つ家屋が、集落の入口を示している。
道路に、人気は全くない。
平日の午後という時間帯だからだろうか。子供たちは学校だし、大人たちは仕事に出ているのだろう。
それにしても、しん、と静まり返った空気はやたらと警戒心を煽る。
言葉を交わす相手もなく、彼らは黙々と道を進んだ。途中の細い脇道に入り、竹藪の傍を抜ける。
やがて道は、アスファルト舗装から砂利道に変わった。
さわさわと頭上から鳴り落ちる笹の葉の音を抜けると、やや広い空間に出た。
そこにあったのは。
小さな、小さな小屋。
広さとしては、夏木家の別荘の、更に離れよりも狭いだろう。
平屋の屋根瓦は遠目にも幾つか失われていて、合間から草が生えている。壁も風雨に晒され、全体的になんとなく傾いで見えた。
明らかに、人が住まなくなって何年も経過している。
ぎしり、と奥歯を噛み締めて、紫月はその姿を睨み据えた。
「覚えてるのか?」
穏やかに、咲耶は声をかける。
「……ああ。もう少し、大きい家のような気がしてたけど」
できる限り平坦な声で、少年は答えた。
この家は、幼い頃に紫月が母親と、そしてもう一人の男と住んでいた家だった。
木製の引き戸は、左右二つに割れたものを、かなり雑に板を打ちつけて継いであった。その戸と壁との間も、また板と釘で開かないようにされていたが、この劣化を見るに、一度蹴っただけで壊れそうだ。
まあそこまでする必要はない。
戸口の、扉と桟との段差によって生じる板の隙間に、指を入れる。ぐい、と引くと、ばき、という硬い音と共に、封じていた板は割れた。
扉を開くまで、十分もかからなかった。
戸口のすぐ内側は三畳ほどの土間だった。黒っぽい土が固めてある。古ぼけた流し台があり、片隅にガスコンロが置いてある。
その奥には、六十センチほどの高さの上り框があり、そして部屋となっている。おそらく六畳ほどか。そして、一番奥には、上下二段になっている押入れ。しかし、仕切り戸も畳も取り外されてしまっており、埃の積もった板の間があるばかりだ。
くすんだ床板には、そこここに染みがある。屋根瓦がなくなってしまっているのと、天井にも似たような染みがあることから、おそらく雨漏りの痕だろう。幾つかは。
左の壁には窓があるが、外側から板で打ちつけられている。室内は、酷く暗い。
少々迷って、靴を脱がずに部屋に上がった。咲耶は凄く居心地の悪そうな表情を浮かべている。
別に、この家に起きたことに心を痛めている訳ではないだろうが。
七年前、この家の中で、二人の男女が無残に殺されていたこと、に。
調度が一切残っていないのも、その後始末のためだろう。
「どうだ?」
ぐるり、と室内を見回している咲耶に、少し離れた場所から紫月が尋ねた。
「んー……。どうも変だな。ここに残っている気配は全然しない」
「相変わらず君は勿体ぶるんだな」
苛立ちを、嫌味に変えて放つ。
気にした様子もなく、黒髪の少年は肩を竦めた。
「お前はどうだ? 何か、働きかけられているか?」
問い返しに、硬い表情のまま首を振る。
先日の、夏木ホールディングスからの仕事の最中に、紫月の母親の霊が出現したこと。息子は当然だが、咲耶もそれを重要視していた。
「前にも言ったが、どうして、この時期に出現したんだ? 出るなら、亡くなった直後から出るだろうし、出ないならずっと出てくるはずがない」
遺児に対して、一切の憐憫など見せずに陰陽師は言い切った。
「杉野が、何らかの形でそれを制御していた、ということはありえない話じゃない。だが、杉野が死んでからだって、一ヶ月近く経っている。俺は、この、どうしても存在する空白期間ってのが気に入らねぇんだよ。まるで、何かを準備でもしていたみたいに」
だから、母親が死んだ場所へ行ってみよう。
そう告げられて、紫月は拒否できなかった。
ここへ来ることを望んでいた訳ではない。七年前、ここで何があったのか。微かに思い出した記憶の断片だけでも、彼が抱くには重すぎる。
しかし、それでも、この先ずっとこの疑念と共に生きるというのも、また酷な話だ。
紫月は、夏木家の別荘から帰宅した後、トゥキに命じて取り出させた資料を片端から紐解いている。しかし、結果として母らしき者の記述ひとつ、写真の一枚すら現存していなかった。
最初から全く存在していなかった訳もない。別荘の図面のように、トゥキに復元することはできないか、と尋ねてはみたが、老いた使い魔はいい顔をしなかった。
「前の主のご友人がたは、周到に痕跡を消しておられました。当時ですら、私に殆ど追跡できなかったほどに。現在存在しないものを復活させるのは、酷く困難です。高校までの卒業記念アルバム等は、当人が所有した以外にも現存しているでしょうが、おそらく印象程度でしか参考にはなりますまい」
それでも無理を押して出現させたが、かなり暗い目をした少女の写真が数枚確認できただけだった。
あの死霊の女性と、似ている、と言えば似ているかもしれない、程度の。
トゥキ・ウルの力をもってしてすら、手がかりすら掴めない。
もう、関わらない方がいいのではないかと思い始めていたほどだ。
しかし、その躊躇を、あっさりと突破して咲耶は紫月を連れ出した。
まあ、彼が自らの思惑を話してきたのは、特急列車に乗ってからだったという手遅れ感はあったが。
「さて、どうする?」
考えこんだ顔で動きを止めた咲耶に、尋ねる。
「三十分かそこら滞在しただけで、何が判るわけでもないだろう。夜にもなってないんだしな」
「ここに泊まるつもりか?」
流石に驚愕して問い質す。
が、きょとんとして相棒は視線を向けてきた。
「日帰りできる距離じゃないんだから、泊まりになるのは判ってただろう」
確かにそういう準備をするように、とは言われていたが。
「どこに行くか、出かけてからしか教えてくれなかったじゃないか」
憮然とした紫月に、やや視線を逸らせる。
だが、まあ、諦めた。
咲耶の行動は、勿論前の仕事に関わる疑念を解決したい、という思いはあるだろう。だが、それ以外に、紫月に対する配慮もある筈だ。
ここまできてそれを拒絶するのも、理に合わない。
気持ちは、すぐにここから立ち去りたがっていたとしても。
小屋の内部をひとしきりうろうろした後で、咲耶はふらりと外に出た。
周囲にはなにもなかった。
短い雑草が生えてはいたが、殆どの地面が露出した状態だ。
竹藪が近い。そもそも、山の中だ。この程度の小屋、放っておけば一年もしないうちに草木に覆われ、徐々に朽ちていくことだろう。
住人だった二人は、逃亡者だ。できる限り身軽に、いつでも逃げられる準備をしていた筈だ。小屋は借りていたものだとみていい。
おそらく、所有者が、処分もできないままそれでも手を入れていてくれるのだろう。
小屋の裏に、畝の痕跡もあった。
規模は小さい。大人二人が、一年食べていけるほどの量は採れまい。
土地の人々に助けられていたのだろうことは、すぐに判る。
「……気の毒にな」
小さく呟く。
視線を向けると、谷を挟んだ向い側の山が、酷く近かった。
こんなところで、暮らしていたのだ。
「咲耶?」
背後から声をかけられる。
「おぅ」
不思議そうな顔で、紫月が近づいてきていた。
「どうかしたのか?」
「ん。山だな、と思って」
「何だよ、それは」
流石に苦笑してくる。
「若くて、最低限の暮らしができればいいとはいえ、大変だったろうな。バストイレ別なんて、最近地方都市でもねぇぞ」
「確かに。僕も、またここで暮らせ、って言われたら遠慮するね」
実に実用的かつシビアな感想を現代っ子は述べ合った。
「何か覚えてんのか?」
「いや。全然。でも、三歳頃の記憶なんて、大抵覚えてないっていうし、そういう意味ではあまり気にすることもないだろう」
その当時に過去の記憶を失っていた、というのは大事ではあるのだろうが。ここまで成長していると、誤差の範囲と思えなくもない。
が、首を傾げて咲耶は相棒を見つめていた。
「そうか? 三歳ぐらいなんて余裕だろ」
「覚えてるのか?」
逆に驚いて、問い返す。
「ああ。俺はその頃もう修行に入ってたから、そのせいかもな」
「……いつぐらいから覚えているものなんだ?」
ちょっと不安になって訊いてみる。咲耶は少しばかり考えこんだ。
「産まれた時の記憶がある、って人は結構いるみたいだから、それは除外だな。流石にその後しばらくはぽつぽつしか覚えてないから。記憶が連続してきてるのは、多分、一歳の五月だったか六月だったか」
「尋常じゃないな……」
僅かに身を引きつつ、紫月が呟いた。




