第三章 04
密集した死霊たちに跳びかかったのは、直径九十センチばかりの、青白い球形の何かだった。
その後ろ姿しか見えていない紫月には、何が起きたか判別できなかったが。
一瞬で、死霊の半分ほどが、肩から上の姿を失う。
撒き散らされる細かな白い破片が、淡く夜の闇に溶けるように消えていった。
「食べて、いる……?」
ぞく、と背筋が冷える。
「悪魔だ、紫月!」
咲耶の警告に、身体を反転させた。動かせない右腕を庇うように、左半身を悪魔に向ける。
右腕に触れている、[母親]、を。
死霊たちにかぶりつき、咀嚼するようにその身体を小さく上下させていた悪魔が、ゆらりとこちらを向いた。
連想したのは、時計の文字盤だ。
球形をした身体の正面、中央から、長針と短針らしき形状の二本の棒状のものが、零時の位置を指している。円を描いて十二等分された位置に、金色の文字が貼りつくように僅かに盛り上がり、その存在を主張していた。その文字自体は、アラビア数字、ローマ数字とがごちゃ混ぜになっている。大きさや角度などのバランスも、奇妙にばらばらだった。
文字盤の内側、三時から九時の間を繋ぐように、上弦の月のような裂け目があった。
口だ。
「……ね……ジ……」
にたり、と笑うように薄く開いていた口が、がぱり、と大きく動いた。
咄嗟に突き出した左腕が、ばぐん、と飲みこまれる。
噛み千切られるか、と、背筋が凍った。流石に腕を切断されて、自分が無事でいられるかどうかを確かめたことはない。
が、文字盤の悪魔には歯がなかったらしい。ぬるり、と奇妙に柔らかな感触に包まれただけだった。
一瞬拍子抜けするが、しかしすぐに、その腕はびりびりとした激痛に襲われた。
「……っぁあ!」
消化液のようなものに、侵されているのか。
だが、喰われたのは、左手だ。
右手にはロザリオを持ち、そして[母親]がいる。
左手は、そう、自由だ。
全ての戒律から。
小さく呪文を呟いて魔術を発動させた瞬間、悪魔はその内側から、凄まじい勢いで爆ぜた。
ふ、と息をつく。吸いこんだ空気に混じる、悪魔特有の悪臭に眉を寄せた。
「……をつけて」
か細い声が、かろうじて紫月の耳に入る。
「え?」
視線を向けた。[母親]は、その場にいた他の死霊の残骸と同じように、末端から小さく千切れ、溶けて、消えようとしている。
もう、手も触れてはいない。
「待ってくれ!」
思わず声を上げた。言葉を交わせるなど、考えもしなかったのだ。
「あなたの、傍にいるものに、気をつけて」
だが、紫月だけに聞こえるほどの声を残し、彼女は姿を消した。
ざ、と、雑草を掻き分ける音が響く。
「……大丈夫か」
気遣うような声は、珍しい。
何を、と言わないのは、太一郎をはばかってのことだろう。
「ああ」
悪魔に喰われていた左腕を持ち上げる。二の腕の半ばまで、シャツの袖が無くなっていた。端は、見るからにぼろぼろとなり、幾つも穴があいてしまっている。
悪魔の口腔内の、消化液のようなものに晒された結果だ。
肌は綺麗なものだった。おそらくは溶け、焼けただれ、そしてそれを再生する、ということを繰り返したのだろう。
先に受けた、藪枯らしに穿たれた傷も、傷痕どころか出血の痕跡も、左腕だけには見当たらなくなっている。
「咲耶。あれを貸してくれ」
その左手を無造作に差し出した。肩を竦め、咲耶はデニムのポケットから、片手に納まるような何かを取り出した。
「何ですか?」
変わらず、咲耶の一歩前に立つ太一郎が尋ねる。
ぽん、と掌に乗せられたものには、ぐるぐると紙が巻いてあった。
「あの剥がしたタイルの下にあった、箱の中身ですよ」
「……戻しておいてくださいと言ったではないですか……」
また、疲れたように、幼い少年が零す。
「あの時は、箱にすら触っていませんでした。つい先刻、箱を開けて中身を取り出して、また閉めておいたんです」
今、咲耶の呪符でぐるぐる巻きにされているそれを手に、再び離れへと向かう。
もう、ここまできて何を言っても無駄だと思ったか、太一郎もそれについてきた。
がさついた板で作られた扉に、触れる。ドアノブを回してみたが、予想通りそれは開かなかった。
咲耶は、あの箱に刻まれたルーン文字を見た時点で、この場での対応を全て紫月に任せることに決めていた。基本的には何も言わず、後ろに立っているだけだ。
もう一度、ドアノブを回す。今度は呆気なく開いた。
「え?」
驚いたような太一郎をよそに、警戒心のかけらもなく中に踏みこんだ。ぎし、と不吉に床板が軋む。
窓ガラスの汚れた屋内は、月光も殆ど差しこんではこない。
かち、と小さな音と共に、光条が室内に踊った。太一郎が、手に持っていた小さな懐中電灯を点けたのだ。
動きまわるその光に、一瞬掠めた物体を、見咎める。
「左の壁を、もう一度照らしてくれませんか」
無言でそれに応じた光が、木製の背の高い何かを見つけ出す。
「……鳩時計……?」
酷く古ぼけた、大人の背の高さほどもあろうかという時計だ。下部の三分の二ほどは薄汚れたガラスが嵌められていて、中に静止したままの金色の振り子が下がっているのが見える。その上には、文字盤。その更に上に、小さな扉が開いていた。周囲には蔦の浮き彫りがされている。
時刻は、零時を示していた。
紫月は手にした物体から、応急処置の意図で封じていた呪符を無造作に剥がす。
その中身は、直径が五ミリ程度の金属の円筒の両側に、羽根のように二枚の板がついている形状をしていた。全体的に金色だが、勿論黄金で作られている訳ではない。おそらくは真鍮だろう。
これは、この時計のぜんまいを巻く、ねじだ。
文字盤の中央よりやや下に空けられた、小さな穴に差しこむ。
巻くかどうかを迷って、一度手を離した。
一歩退いたところで、かたん、と小さな音がする。
鳩時計の、開いていた扉が閉まったのだ。
それきり、しんと静まり返る。
「……戻りましょうか」
二、三分待って、紫月が決断した。
「あれだけで、よかったのですか?」
帰り道に、小首を傾げながら太一郎が問いかける。
「おそらくは。ねじが失われた時計に、戻してやったんですよ。ねじを巻いて、時計を動かすというのは、また別の行動です。それによって、何が起きるか判りません。明日の夜、どうなるかを待つしかないでしょう。……ただ」
真面目な顔で返した紫月は、軽くむき出しになった左腕を上げる。
「先刻僕に噛みついてきた悪魔は、ねじを欲していたようでした。これで、気が済んでくれるんじゃないかと思いますね」
「……あの、先ほどの悪魔、というのは、貴方が爆破してしまったのでは」
やや気まずげに、太一郎は指摘した。
「悪魔の幽霊が祟ってきたら、困るでしょう?」
にこりともせずに、若き魔術師は告げた。
屋敷には死霊は現れていなかった。
太一郎を部屋まで送り届け、咲耶は一階の談話室に陣取る。
じきに、服を着替えた紫月が降りてきた。
「シャワーでも浴びた方がよくはないか?」
傷は癒えているとはいえ、散々傷ついて、血を流し、悪魔の体液にも触れている。だが、紫月はその提案に首を振った。
「今、風呂を使ったら、斎藤さんを起こしてしまうかもしれないだろ。一応タオルで拭いたし、朝になったら借りるさ」
奇妙なところに気を遣い、奇妙なところ大雑把な少年だった。
ソファに腰かけて、大きく息をつく。
「……どう思う、咲耶」
「ん? 七十点てところだろ。最短でも明日の夜にならないと、完全に解決したかどうかは判らないからな。ただ、まあ、今判ることだけならこれで終わりじゃないかと思うぜ」
「そっちのことだけじゃないんだけどな」
苦笑する紫月に、咲耶は眉を片方だけ動かした。
「そうだな。すっきりしないってことだけは確かだ。あの四辻に埋めてあったねじのせいで、あの時計の悪魔が動き、死霊を呼び出していた、ってことにしてみよう。ねじを封印して埋めたのは、明らかに誰かが意図的に行ったものだ。だが、一体何故だ? 動機じゃない。理由だ。怨みだろうが嫌がらせだろうが、そこはどうでもいい。どうして、この手段になったんだ? 悪魔を操れるなら、もっと直截的な、そうでなければもっと隠密的な行動が取れたはずだ。どうして、これみよがしに死霊を呼び出した? それに」
まっすぐに、咲耶は相棒を見据える。
「お前の母親だ」
「一昨日にも言ったが、お前の母親が、何故、今、ここにいるのか、それが一切判らない。どうして、先刻、他の霊と一緒に四辻の中にいなかったんだ? どうして、お前を止めようとした? どうして、悪魔から何もされていなかったのに、消えていった?」
「……僕に訊かないでくれよ」
疑問点を次々に突きつけられて、流石に疲れを実感する。
「お前が、そんなことは常識だ、ってあっさり教えてくれればと期待したんだよ」
にやり、と笑んで、咲耶は軽口を叩く。つられて、紫月も苦笑した。
「とにかく、全体的に一貫性がない。それこそ行き当たりばったりだ。俺たちは相手の手に応じて動くから、多少そういう面は出てくる。だけど、まず先手を打てる、有利な立場にいる相手がそういう行動を取る理由がない」
「謎だらけだね」
溜息を落とし、感想を述べた。
咲耶が肩を竦める。
「気持ちが悪いだろ?」




