第三章 03
結局、紫月はなし崩しにそのまま夏木邸に戻ってくることになった。
斎藤は驚き、痣が消えたと聞いて喜んだものの、それでもふとした時に憂鬱な顔になる。
こんな屋敷にいて、もう十日ほどだ。気も滅入るだろう。
「今夜は、先にお二人の部屋に防御を敷いておきましょう。深夜に死霊が発生しても、部屋の中には入れませんよ」
咲耶は、夕飯後にそう提案した。
「本当ですか?」
「今できるのは簡易的なものなので、発生後に扉を開けば、侵入されてしまいますが。もう一度やり直せばいいだけですから、声をかけてください。どうせ、今夜も俺たちは徹夜ですからね」
軽く、そう返す。
「永続的に、とはいかないのですか」
太一郎が尋ねる。
「それにはちょっと準備が必要ですし、何らかの要因で術が破られる可能性はいつでもありますよ。それよりも、元凶を取り除く方が根本的な解決になるからお勧めですね」
探るような視線を受けて、幼い依頼人は視線を伏せた。
「あちらの件は、今問い合わせ中です。触れてはならない、という返事が来れば、僕はそれに従わなくてはなりません」
太一郎の、一族の中での発言力というのは、さほど高くはないらしい。高い知性を持ち、大人びた言動をしているが、まだ八歳だ。当然だろう。
「でしたら、その時には何か考えましょう。アフターケアが必要ならば、お安くしますよ」
にこり、と笑んで営業活動を行う咲耶に、太一郎が苦笑する。
空に、雲はない。
やや太さを増した半月が、頭上からこちらを照らしだしていた。
ここ数日、秋雨が一度も訪れないというのは、幸運ではある。
時刻は午後十一時半を過ぎた頃。
太一郎は夕食後早々に、斎藤も十時過ぎには部屋に戻った。彼らを護る術を施し、そして気取られないように、二人の拝み屋は再び問題の四辻に立っている。
「時間はまだあるな。……例の、離れだか何だかに行ってみようか?」
「できればまだ明るいうちに見ておきたかったけどな」
灯りを用いては、また別荘から見咎められかねない。紫月も、今は夜闇に紛れるように、暗い色のシャツを身につけていた。
膝まで伸びた雑草の中を進む。虫の音が、そこここからか細く響いてきた。
「君は大丈夫なのか?」
ふいに問いかけられて、瞬く。
「何が」
「眠くないのか、って。もう、三日目の徹夜になるだろう」
その状態でここに臨んで大丈夫なのか、と。
咲耶は小さく肩を竦める。
「集中すりゃ、あと一日二日は持つ。だけどまあ、上手くいったら明日の昼間はちょっと寝るかな。お前、今日寝てきたんなら明日は代わりに起きてろ」
「判ったよ」
先に休養を取らせて貰った紫月は苦笑する。彼の相棒は、傍若無人だが、言うだけのことはやる人間だ。
遊歩道の先に、黒い影がある。
近づくと、それはこじんまりとした木造の家屋だと判明した。平屋建てだ。外壁のすぐ傍に、屋根よりも高い木が数本植えられていた。雑草に囲まれているが、踏みしだかれた痕跡はない。
「でも十日以上前だったら、戻るかもな」
雑草の生命力に敬意を表しつつ、窓に近寄ろうとする。樹木に取りついた藪枯らしが彼らの行動を阻んだ。
窓ガラスも、長年風雨に晒されて、中を伺えないほどに汚れている。
「何か判るか?」
少し緊張気味の紫月の言葉に、眉を寄せる。
「ないな。霊も、妖も、何もいねぇ」
「見込み違いかな……」
ややがっかりしたような言葉に、片手を振った。
「零時になるまでは判らないさ。戻るか」
まだ時間はある。
そう思って、ゆっくりと歩いていた。
四辻の傍に、人影を認めるまでは。
「……夏木さん」
その小さなシルエットに、溜息をつく。
「ここには来ないで頂きたい、と言った筈です」
硬い声で、太一郎は非難する。
「午前零時を超えて、ここで何が起きるかというのを見たかっただけですよ。今回の件に全く関係ないのなら、原因の候補が一つ消える。俺たちが無駄足を踏むだけですからね」
さらりと、咲耶がうそぶく。
太一郎は胡乱な視線を向けてきている。
流石に少しばかり、信用は目減りしてきているかな、と内心反省しかける。どうしようもないが。
「ここは危険かもしれませんから、戻ってください。部屋までお送りしますよ」
だが、きっぱりと依頼人は首を振る。
「いいえ。そこまでおっしゃるなら、何が起きるか僕も見定めます。僕一人の無事を、保障できないほどの腕前ではありませんよね?」
デニムのベルトに通していた腕時計の盤面を見る。彼を説得して、送り返して戻ってくるだけの時間はない。
紫月に任せて強引に連れて行ってもいいのだが、そうすれば信用は地に落ちそうだ。
「お任せください」
驚いたように視線を向ける相棒を置いて、太一郎の前に立つ。四辻から庇うように身体を反転させると、その腕に触れられた。
「貴方が前にいては、よく見えません。後ろにいてください」
その主張には、少々度肝を抜かれたが、まあ、できないことではない。無言で、咲耶は少年の後ろへ立った。
数分間。ただ、虫の音だけが微かに聞こえるその場に。
突如、鳩時計が鳴り響いた。
「なに……!?」
こんなところで、聞こえるとは思わなかった音に、虚を衝かれる。
「来るぞ、紫月!」
しかし警告の声をかけられて、目の前の空間に集中する。
四辻の内側には、薄白い人影が出現していた。
どんどんと、その数は増えていく。
四辻の広さは、一辺が一メートルをやや超える程度。人間ならば、四人も立てば窮屈だろう面積だ。
そこからはみ出すこともなく、どんどんと。
「なん、ですか、これは」
やや怯んだように、太一郎は呟いた。
「別荘に送りこまれる予定だった霊のようですね」
「ですが、だとするとどうしてここにいるんですか?」
至極尤もな疑問を投げかけられるが、咲耶は軽く肩を竦めた。
「さて。俺たちにはあのタイルを固定することはできなかったから、そのせいでしょうか」
そんな二人をよそに、一人四辻の傍に立つ紫月は、向こう側も見透かせなくなるほどの濃度となった死霊たちを冷静に見つめていた。
手首に水晶の紐を巻き、掌に十字架を握りこんだ腕を持ち上げようとする。
しかし、それは何箇所かで固定されたかのように、動かせなかった。
見下ろせば、腕に、足に、濃い色合いの紐のようなものが絡みついている。小さくくるくると巻いた先端が伸び、服に、肌に貼りついていた。
「……っ!」
瞬間、幾つもの箇所で刺されたような痛みが生じる。
先端部分が、ずぶずぶと肌の下へ潜っていく。
「藪枯らし、か……!」
紐のように細く長いだけだった部分に、見る間に若芽が生じ、葉となった。
ほんの一ミリにも満たない太さだった巻きひげが、蔓が、太くなる。どくん、どくん、と脈打つような蠕動を見せた、それは。
紫月の血を、吸い上げているのだ。
蔓は見る間に成長し、既に少年の胸の辺りまで覆われていた。
太一郎は言葉もなく、眼を見開いてそれを見つめている。
しかし紫月は、動かしにくい、念入りに巻きつかれた掌を、強引に握りこんだ。
「……捕まえ、た」
そして、一気に頭上まで引き上げる。大地を這っていた藪枯らしは、ぶちぶちと音を立てて引き剥がされ、びん、と斜めに張られる形となった。
その先は、真っ直ぐに離れの方向に続いている。
「赤い、紅い、朱い、赫い、赤金い月に流るる生命の源に拠りて!」
紫月が、凛とした声を上げる。高く。
「〈絶血〉!」
その瞬間、蔓が炎に包まれた。
至近距離で見ていれば、それが内側から発火したことに気づいただろう。
ぎょるらぁあああうあ!
およそ、この世界の生物が発しそうもない悲鳴をあげながら、蔓が燃えていく。
紫月は、無造作に、体内に刺さった巻きひげ部分を手で払った。炭化したそれと共に、血飛沫も小さく散る。だが、数十箇所にも上るだろう傷口から溢れる血液は、さほど大量ではない。
そして視線を依頼人へと向けた。
「夏木さん。こうも明確に攻撃されては、放っておくことはできません。ちょっと、向こうの様子を見てきますね」
滑らかにそう告げる。
唖然としていた太一郎は、鋭く背後に立つ咲耶を見上げた。
素知らぬ顔で、陰陽師はそれを見返している。
「……全く、貴方がたときたら」
呆れた口調で呟く。
きちんとした許可を得る前に歩き出した紫月の右腕を、再び何かが止めた。
細い、手だ。
二の腕にそっと添えられたその手の主は、まだ若い女性だった。
ぼんやりと、白く、その姿は発光している。
「……あなた、は」
掠れたような声が、漏れる。
咲耶が眉を寄せ、二人を見据えた。
「あれは、幽霊ですか? どうして、あそこに」
太一郎が不思議そうに呟く。
彼女は、四辻の外に立っている。
悲しげな瞳が、じっと紫月を見つめていた。
細い、小さなその手は、決して強い力を出してはいない。
なのに、振りほどけない。
凍りついたように立ち尽くす紫月の横を、何かが掠めた。




