第三章 01
静かに身を屈め、耳を澄ませる。
紫月の規則正しい呼吸音が聞こえてきた。死んではいない。
「救急車を呼びますか?」
おどおどと斎藤が声をかける。
「いえ。弥栄のこれに気づいたのは、どれぐらい前ですか?」
「つい先刻です。客室のシーツを換えて降りて来ましたので、ベッドでお休みになられたらどうか、と声をかけたんですが、起きなかったので傍に寄ったら、こんなことに……。上に守島さんはいらっしゃらなかったので、庭かと思って、そのまま玄関から出ました」
ならば、時間はそう経ってはいまい。
じっと、首筋を注視する。赤黒い痕は、指の一本一本までしっかりと刻まれ、消える様子はない。
紫月なら、本来、この程度の内出血、数分も経たずに消えるだろう。
軽く、肩に手をかけた。
「紫月」
ゆっくりと揺さぶってみるが、起きない。両手で強く押してみても、駄目だ。
ふむ、と呟いて、卓に置きっぱなしにしていた道路地図を手にした。おもむろに、くるくると筒状に丸める。
「ちょっと、駄目ですよ守島さん! 首を絞められて、脳になにかあったかもしれないのに!」
慌てて斉藤がその腕を掴む。彼には、初日に紫月の鳩尾に一撃入れたところも見られていたせいか、対応が早い。
脳の損傷ならこいつは何時間ぐらいで治るのか、とちょっと疑問に思いつつ、渋々手を下ろす。
「しかし、起こさない訳にもいかないですし」
「おとなしく救急車を呼ぶ選択肢はないんですか?」
かなり呆れた様子で提案される。
「ここに救急車を呼んでもいいかどうか、夏木さんか本社にお伺いを立ててみたらどうですか」
素っ気なく返した言葉が予想外だったのか、怯む。
人々のうちには、外聞を気にする者はかなり多い。まして、夏木家のような立場で、死霊が生じている状況で、拝み屋が倒れたなどと。
まあもっと厄介なのは、医者にかかって紫月の特異体質が問題になることだが。
ともかく、意識が戻るかどうかは大事なことだ。
咲耶は、卓の上にあった、先ほど飲み干したグラスを手に取った。右手を開き、その上にグラスを傾ける。
ばしゃ、と冷水が革の手袋の上に広がるがそれを無視し、くい、と紫月の襟首を小さく引いた。
「守島さ……!」
そして、溶けかかった氷を数個、中へ落とす。
「……つめた……ッ!」
瞬間、びくりと身体を震わせて紫月は覚醒した。
小さく、よし、と呟く咲耶を、唖然として斎藤は見下ろしている。
「……咲耶ッ!?」
混乱しながら周囲を見回し、こちらを見上げてきた紫月の襟首を掴む。
「名前は?」
「は?」
唐突にそう訊かれて、咄嗟にそれしか返せない。
「お前の名前だ。言ってみろ」
「や……弥栄紫月」
「ここはどこだ?」
「夏木さんの別荘だろう」
「何をしにここにいる?」
「それは、除霊を頼まれたから……」
徐々に、咲耶からの尋問に不審を覚え、睨めつけるような視線となる。
そこで、上司はぱっと手を離した。
「とりあえず正気か」
「一体何があったって言うんだ?」
訝しげに問い返されるのに、踵を返す。
「洗面所だ。来い」
洗面所は、談話室のすぐ傍にある。戸口の手前で止まり、紫月を先に中へ通した。
「首だ。よく見ろ」
おとなしくシャツの襟首を広げ、首をやや曲げる。露出した首筋に、流石に小さく息を飲んだ。
「これ……」
「最低でも、俺が目にしてから五分は経ってるが、薄くなった感じはない。長いか?」
心配そうに背後についてきた斎藤の耳をはばかって、小声で問う。硬い表情で、紫月は頷いた。
「よし。じゃあ脱げ」
「は?」
紫月と斎藤が揃って声を上げた。
「首以外にもどこか異変があるかもしれねぇだろ。とっとと脱げ」
「……君は本当に仕事熱心だな……」
疲れたように呟いて、濡れたシャツに手をかける。紫月は生い立ち上、割と裸体に抵抗はない。さっさと上半身を晒すと、そこで咲耶に止められた。
「背中だな」
肩越しに振り向こうとするが、流石にそれは目に入らない。
斎藤が怯えたように、しかしその場を離れることなく、首を傾げた。
「でも、何だか変な形ではないですか?」
「変なんですか?」
よく考えれば、正常な形とはどういうものか判らないが。
「肩甲骨の、ちょっと上辺りだ。手だとすると、指を握りこんで、第一から第二関節ぐらいまでを押し当てたような形だな。あと、親指がちょっと下の辺りについてる。こっちは第一関節まで」
咲耶に口頭で告げられた形状を、思い浮かべる。
「……翼をもぐような……?」
呟いた言葉に、咲耶がきょとんとした視線を向ける。
「何だ、そりゃ」
「いや、何でもないよ」
「でも言われてみると似てますね」
意味まで把握はしていないのだろうが、斎藤が頷く。
下半身には、異変は見当たらなかった。腕を組んで、咲耶は数分考えこむ。
「よし。下を履いたら、夏木さんに会いに行くぞ」
夏木太一郎は、突然現れた半裸の客人に、一瞬呆れたような視線を向けた。
が、すぐに、その首に赤黒く纏わりつく痕を見咎める。
「何がありました?」
「理由は判りません。ですが、今までお二人の身体にこんなことが起きましたか?」
ついてきた斎藤と共に、首を振る。
「なるほど。では、弥栄を一日、ここから離します。許可を頂けますか」
「離す?」
眉を寄せ、太一郎は繰り返した。
「勿論、その間の、弥栄の分の報酬と経費は抜いてくださって結構です。昨夜までと同程度の霊障であれば、俺一人で対処は可能ですし」
業務上の対応を話し始める咲耶を、片手を上げて幼い少年は止めた。
「待ってください。何故、弥栄さんがここを離れるのですか? 彼には、この仕事は手に負えないと?」
苛立ったような、僅かに嘲るような言葉に、冷静に咲耶は返す。
「とんでもない。ですが、今までとは違う異変が起きたのは確かです。これが、この屋敷に因るところの異変なのか、そうではないのか、判断しなくてはなりません。ここから離れて、この痕がどう変化するか、観察した方がいいんです」
「観察と言っても、一人で見ていられる部位ではないでしょう」
首と、背中だ。確かに無理がある。
「人手は他にもあります。除霊を行うには不向きでしたからここにはおりませんが、弥栄を見張るぐらいはできますよ」
軽く、それにも返答する。
「午前零時。この屋敷の中が再び霊に満ちるという、このタイムテーブルと、どう連動しているかも調べたい。明日の朝には戻らせますから、一晩、時間を頂きたい」
じっと見据えてきた太一郎は、足を組み直した。
「……その手の形が、霊障だという証拠はありますか? 誰か、人間が絞めた痕ではないというものが」
言い辛そうだったが、可能性として外せはしないのだろう。
人に絞められた痕であれば、おそらくもう赤みすら残っていない、という紫月の特異体質はそうそう口にできない。
その代わり、咲耶は相棒の首筋に手を触れさせた。
「判りますか? 俺の手よりも、やや小さい。指の細さは、実際のものではなく、触れた面積によることを考えても、長さまではそうはいきません。当然、斎藤さんは俺よりも手が大きい。そして、夏木さんは、もっとずっと小さいですね。ですから、今朝、この屋敷にいた人間が弥栄を絞め殺そうとした訳ではないんです。……俺の知らない誰かがいたなら、別ですが」
小さく溜息を落として、太一郎は二人の拝み屋を見上げた。
「了承しました。ですが、それも仕事の一環ですから、報酬も経費も出しましょう。後で纏めて頂けますか」
「ありがとうございます。あまり豪遊させないようにしますよ」
にやりと笑む咲耶に、小さな手がひらりと振られた。
「斎藤さん、タクシーを呼んで頂けますか」
太一郎の私室を出て、すぐに要請する。
「タクシーですか? 私がお送りしますけれど。そろそろ買出しにもいかなくてはなりませんし」
礼儀正しく申し出られるが、首を振る。
「ここで、情報を断ち切ってから行かせたいんです。お手間をかけますが、お願いします」
理由に納得はできないようだが、頷かれた。
「よし、じゃあ紫月。着替えて荷物を纏めよう。いつまでもそんな格好してるんじゃねぇよ」
「誰のせいだよ」
憎まれ口を叩きながら、二人で紫月に割り当てられた部屋に入る。
ベッドの傍に置かれた鞄を、持ち上げた。
「今着てたシャツも持っていけよ。何も、ここに痕跡を残すな」
「判った。観察者は、トゥキか?」
察しよく告げてくるのに、小さく笑む。
「うってつけだろう? 駅前かどこか、適当なところでホテルを取って、あまり外に出るな。ついでにゆっくり眠ってこい。カルミアとじーさんがいたら、最低限身は護れるだろ」
居眠りをしてしまっていたことを思い出し、少しばかりばつが悪い気分になる。
「でもまだ午前中だぞ? ホテルにチェックインは無理じゃないか」
「デイユースとか色々ある。粘れ。どこにいるか、って情報は絶対にこっちに寄越すな。一応、これを渡しておくから、やばくなったら呼べ」
上着の内ポケットから、細長い紙を取り出す。
この呪符は、持っている人間同士の間で、会話がやりとりできるというものだ。携帯電話を頑なに持とうとしない咲耶といると、しばしば必要になるものだった。
頷いて、新しく着替えたばかりのシャツの胸ポケットへ入れた。
「……手の、痕。小さい、って言ってたよな」
そして、気がかりだったことを、口にした。
「ああ。女の手みたいにな」
無造作に、咲耶は同意する。
予測はしていたが、憂鬱さが増して、溜息をつく。
「女ってだけで、それがお前の母親だとは限らないだろ。霊の中には女は何人もいた。それよりも、この屋敷とお前との関連性が何なのか、それを突き止めたい。昨日、植木鉢が落ちたのだって、お前を狙ったと思えなくもないしな」
落ちるとは思えない花籠が落ちる。霊障の一つというのは、あり得る話だ。
「敷地外だけどね」
「それも調べたいことだ。お前が、この屋敷から離れて、霊障が一体どういう動きになるか。じーさんに記録をつけるようにちゃんと言っておけよ」
どうしてカルミアは名前で呼ぶのに、トゥキ・ウルは呼ばないのか、時折紫月は疑問に思ったりするが、今はそれを問い質す時でもない。
真面目な顔で、紫月は頷いた。
話しておくべきことは、一通り終わっただろうか。ざっと頭の中で浚って、一つ思い出す。
「そういえば、先刻のは何だったんだ? 翼、とか何とか」
「ああ。……西洋魔術の教義では、悪魔のうちの何人かは、元天使だったと言われているんだ。翼をもがれて、堕天した、と」
話し始める内容の意図が掴めなくて、無言で続きを待つ。
「非常に高位の悪魔も、それに含まれる。……先月、僕らが関わった、ような」
しかし、そう続けられて、流石に表情が曇った。
「気をつけろよ」
「君も」




