第二章 03
よく晴れた空が、高い。
普段住んでいる地域でのこの時間よりも、空気が涼しい気がする。
この辺りは別荘地だ。九月も半ばに入った辺りでは、あまり人もいないのだろう。車も通らず、人の声もしない。
歩道を歩きながら、咲耶が口を開く。
「あの建物に今まで霊障はなかった、とは言っているが、十年利用していなかった間に何かが起きていたかもしれない。清掃会社が入ったとはいえ、作業は昼間だけだっただろうしな。そもそも、夏木さんも斎藤さんも、十年前を実際に知っている訳じゃない。実は以前からだった、という可能性だってある」
咲耶は、仕事柄、かなり疑り深い。
半ば呆れ、半ば感心して紫月は隣を歩いていた。その手には、ノートと布製の筆箱が太目の布ゴムで纏められている。
「だから、誰かこの辺りのことを知っている人間を捜して、今までに何かおかしなことがなかったか、尋ねてみよう。言い伝えのようなものでもいい」
「誰か、ね」
今のところ、人っこ一人見かけてはいない。
「図書館とかで郷土史でも調べた方がいいんじゃないか」
「あれってありふれた殺人事件とか載ってないだろ。内々で済ませることも多いからな」
「……君は何を探そうとしてるんだろうな」
なんとなく半歩後ろに下がりながら、紫月が呟く。
「一番手っ取り早く怨みを買えるのは人殺しだろ」
「大雑把すぎるよ」
ぶらぶらと歩いていると、曲がり角の向こう側で門を開閉するような金属音が響いた。
二人の少年は、足早にそちらへ向かう。
「あら」
角を曲がったところにいたのは、一人の少女だった。
二人よりは、やや歳上か。背の高さは少しばかり低いが、顔立ちが大人びている。長い黒髪のサイドを後頭部で結っており、銀色のアクセサリーで留めていた。淡い水色のワンピースは、裾に藍色と白とで花模様が染めてある。白い日傘の下の小さな顔が、にこりと笑んだ。
「おはようございます。どちらの方?」
この辺りの人々は、互いに顔見知りなのかもしれない。紫月が躊躇いつつも口を開く。
「おはようございます。僕らは、郷土の歴史を調べているんですよ」
「ああ、夏休みの宿題?」
ぱっと、面白そうだという顔になって、少女は問いかけた。
「そんなようなものです。土地の古い話などをご存知の方がいらしたら、教えて頂けないですか?」
そうねぇ、と少女は考えこむ。
人の良さにつけこむ形になりつつ、彼女の言葉を待っていた時に。
がしゃん、と破壊音が響いた。
彼らの傍には、歩道から六十センチほど後退して、高い煉瓦の壁が建っていた。空いた場所は花壇のように区切られていて、高さ三十センチ程度の潅木が植えられている。煉瓦の壁の頭頂部から、針金で編まれた花籠が二メートルほどごとに下げられていた。
彼らのすぐ近くに下がっていた、その花籠が落下したのだ。
植木鉢の薄い破片が、紫月の顔を掠める。
「きゃ……!」
反射的に一歩前に出た咲耶が、少女と落下物の間に立ち塞がっていた。
「大丈夫ですか?」
身を竦めた少女は、特に怪我はなかったらしい。顔を覗きこまれ、おどおどした様子で、頷く。
「大丈夫……。どこも痛くないわ」
小さく息をついて、身体の力を抜く。視線を上げた少女が、息を飲んだ。
「貴方が怪我をしてるじゃないの!」
咲耶が振り返る。きょとん、として立っていた紫月の頬が裂け、血が流れ出していた。
「ちょっと来て、消毒しなくちゃ。安藤さん!」
慌てて門まで戻り、インターホンを押す。
「いえ、これぐらい大丈夫……」
制止しかけた紫月の肩に、咲耶は手をかけた。
「チャンスだ。行くぞ」
大慌ての少女が二人を家の中へと連れこむ。応接室らしき部屋の扉を開けると、そのまま家の奥へと姿を消した。
「安藤さん、早く早く!」
「はいはい、そう急がせないでくださいませ、お嬢様」
やがて再び少女の高い声と、おだやかな女性の声が近づいてくる。
割烹着を身に着けた初老の女性が、手に救急箱を持って戸口に現れた。
「お怪我をされたのですって?」
困った表情の紫月と、その隣に立つ咲耶を交互に見る。少女が後ろから顔を出し、そして、数度瞬いた。
紫月の頬には、汚れ一つない。
「土がついただけだったようですよ。拭いてみたら、傷もありませんでした。お騒がせして、すみません」
にこやかに、咲耶が説明した。あらあら、と割烹着の女性が呟く。
「え、嘘でしょ! だって、あんな赤い色をして、流れてたのに」
思い出したのか、少女が僅かに身を震わせる。
「泥に近いような土でしたからね。見間違えたんでしょう」
実は、紫月は確かに怪我をしていた。血が溢れ出すほどだ、そこそこ深い傷だった。
だが、その程度の傷、実は彼なら一分ほどで完治してしまう。もう、痕すら見えなくなっていた。
それにかこつけて一芝居打ったのは咲耶である。
「あらまあ。それはようございました」
動じずに、安藤、と呼ばれた女性は返す。まだ不思議そうな顔をしてはいるが、少女は切り替えたようだった。
「安藤さん。じゃあ、何か飲み物でも持ってきてくれる?」
少女に椅子を勧められ、会話をこなしていると、再び女性は現れた。品のいいグラスに入れられたジュースを置いていく。
「あの、少し宜しいですか?」
立ち去ろうとしたところを、呼び止めた。
「何でございましょう?」
「実は、僕たちはこの辺りの古い話を調べているんです。何かご存知ではないでしょうか」
安藤は問いかけるように少女へ視線を向けた。頷くのを確認して、そうですねぇ、と呟く。
「古い話、と言っても、あちらのお山に天狗が棲んでいたとか、そういうものがちらほらあるだけで。ここは、明治の頃に別荘地として作られたんですよ。それまでは、確か、沢というか沼というか、そんな土地だったかと。山を崩して、沼を埋めてから人が住んだのですね。それまでは、殆ど地元に人はいなかったので」
「沼地、ですか」
難しい顔で、咲耶が呟く。
「となると、集落で何かがあった、というようなお話もあまりないのですか?」
紫月の言葉に、女性は頷いた。
「民俗学のフィールドワークみたいね。ほら、遠野物語とか」
楽しそうに、少女が口を挟む。
「そんな感じですね。この辺りで、他にそういうものに詳しい方はいらっしゃいませんか?」
咲耶はまだ考えこんでいる。代わりに、紫月はにこやかに少女に返し、再度尋ねてみたが、安藤は少し困ったように微笑んだ。
「昔は、ご主人様方がご不在でも、管理のために別荘番がいるお屋敷も多かったのですけど。最近は管理会社ですとか、警備会社ですとか、そういった会社に頼まれるお宅が多いのです。皆、歳も取りましたし、子供と同居するためにここを離れた者も多く、ちょっと……」
その後十数分、世間話をしてから二人はその家を辞した。
門を出て、先ほど植木鉢が落ちてきた辺りで足を止める。破片や土は既に綺麗に掃除されていた。
花籠は、直径三ミリ程度の針金で作られている。籠の左右から上に伸びた針金が、煉瓦塀の頂部に引っ掛けるように、コの字型に加工されていた。他の花籠を見る限り、腐食していたりはしないし、そう簡単に落ちてくるものでもなさそうだ。
「そもそも、真っ直ぐ落ちてきたら、下の木の枝に当たるだろう。どこで植木鉢が割れて、どんな勢いで破片がお前の顔まで飛ぶんだ……?」
不審そうな顔で、咲耶は呟く。
「落ちどころが悪かったんじゃないのか?」
怪我をした当人だというのに、さらりと紫月が返す。
呆れ顔でそれを見ると、咲耶は肩を竦めて歩きだした。
「ところで、収穫はあったかい?」
「さほどでもない。ここが昔沼地だった、ってのが引っかかるぐらいだ」
「沼地ねぇ」
周囲を見回す。きちんと舗装された道路が続くそこは、とても往時の風情は残っていない。
「それも、埋め立てた時にごたごたが起きなかった、ってことは、適切に処理されているとも取れる。問題があったとして、今、夏木さんのところにだけ霊障が出現した、ってのが、やっぱりどうにも腑に落ちねぇ」
繁華街の方に行けば、図書館やカルチャーセンターのようなものがある、と聞いた。とりあえずそちらへと向かうことにする。
二人が夏木邸に戻ったのは、午後四時頃。空には、未だ、夕暮れの気配もない。
門扉まで数百メートル、といったところで、突然、咲耶が足を止める。
不審に思うが、よくあることだ。慣れたように、紫月はその場に立ち止まった。
考えこんでいた咲耶が、口を開く。
「……紫月。今夜、お前の手を貸して欲しい」
突然の要請に、少しばかり驚いて、少年は首を傾げた。




