第一章 02
咲耶が帰宅したのは、午前十時を回った頃だった。
真っ直ぐにリビングへ向かい、片隅の扉を開く。
その先には、下階へ向かう階段があった。途中で折り返し、また下へと続いていっている。照明をつけていない階段室は暗い。
「紫月! いるか?」
降りようとはせず、咲耶はまず下階へと声をかけた。すぐに踊り場に出現したのは、群青色の肌の色をした使い魔だ。
カルミアは丁重に会釈すると、歓迎するように腕を扉の向こうへと向けた。
口をきかない青年には、もう慣れている。軽い足取りで、咲耶は階段を降りた。カルミアはまた姿を消してしまっていたが。
リビングでしばらく待っていると、廊下の奥から紫月がやってくる。やや不機嫌そうにこちらを見てきていた。
幾度か経験したことだ。読書の邪魔でもしたのだろう。一切頓着せず、咲耶は言い渡す。
「仕事だ、紫月。準備しろ」
午後一時半。彼らは、駅前のホテルのロビーにいた。
紫月は流石に着替えている。白いシャツに紺色のスラックス。退学してしまったために高校の制服ではないが、それに近いデザインのものだ。ネクタイは締めていない。年齢から見ると、制服でなければ背伸びして見える、とアドバイスを貰っていたからだ。
咲耶の格好は相変わらずだ。
二人はロビーの片隅にある喫茶店へと向かった。
待ち合わせであることをウェイターに告げる。ゆったりと配置された席の、人気のない一角へと案内された。
どこへでも向かうつもりでいたのだが、相手は咲耶の住居の近隣を指定してきている。そもそもが指名で仕事を依頼されたということでもあるし、気を遣われているのだろう。
約束の時間は二時だ。まだ、時間はある。
しかし隣に座る紫月は、やや落ちつかなげに周囲に視線を向けていた。
「仕事の話は、俺がする。お前は基本的に何も口を挟むな。専門的な意見が必要な時は訊く」
正式な仕事としては、この魔術師と組むのはこれが初めてだ。仕事の区分は、きっちりしておかねばならない。
紫月は真面目な表情で、頷いた。
「特に、報酬に関しては何も言うな。世間一般からしたら高いと思うかもしれないが、理由はある。経費だってかかるし、お前の分も稼がないといけないんだからな」
「僕は別に、お金なんて……」
少々当惑したように呟くが、片手を上げてそれを制した。
「労働に対して対価を受け取るのは、労働者の当然の権利だぜ。そもそも、ありふれた技術じゃない。稀少なものは、それだけ価値が上がるもんだ。それでも必要な人間がいるんだから、高く売るさ」
万が一周囲に聞かれても構わない言い回しで、諭す。
紫月はやや不満げな様子ではあるが、黙った。
待ち合わせの、十五分前になった頃。
テーブルの横に、人が立つ。
「守島様、でしょうか」
そこにいたのは、二十代と思しき青年だ。
この暑さに、濃い目のグレイのスーツを皺一つなく着こんでいる。シャツは白。ネイビーに小さな白のドットが散っているネクタイを締めていた。靴は、黒の革靴で、ホテルの柔らかな絨毯の上で足音も立てなかった。
「斎藤様ですね。お待ちしていました」
咲耶は滑らかに立ち上がり、一礼する。ぎこちなく、紫月もそれに倣った。
斎藤が名刺を二人に手渡した後で席につく。少年たちからの名刺が返ってこないことには動じていない。
「お忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございます」
相手の若さを侮ることもなく、そう軽く頭を下げる。勿論、こちらの年齢等は龍野から話は行っているのだろう。指名、ということは、元から知っていてもおかしくない。
それにしても全く動揺する素振りも値踏みする様子も見せない。
礼儀正しく近づいてきたウェイターにコーヒーを注文して、斎藤は真っ直ぐ二人へと顔を向けた。
「龍野様より、何かお聞きになられていますか?」
「除霊を頼みたい、とのことぐらいしか」
慎重に言葉を選ぶ。
頷いて、斎藤は口を開いた。
「私は、その名刺にありますように、夏木ホールディングスに在籍しております。一週間前、専務の甥である夏木太一郎が留学先であるアメリカより帰国しまして、その世話をするようにとの命令が下りました」
夏木ホールディングスとは、財閥レヴェルとまでは行かないが、それなりに知名度が高いグループ会社だ。主に電化製品が強く、このやや世間知らずの少年たちでも名前は知っている。
しかし幹部の子弟の面倒を社員に見させるというのは、流石に公私混同ではないかと紫月などは思うが。
「居住に定められたのは、N県の月虹町という小さな街です。夏木家の別荘がありまして、しばらくはそこに住むことになりました。別荘自体は十年ほど使っておらず、事前に清掃業者を入れております。その時に、不審な報告は全くありませんでした」
そこで、一度言葉を切る。
「その別荘に、霊障が?」
咲耶が尋ねると、静かに頷いた。
平静そうには見えるが、斎藤の顔色はやや青白い。
「具体的に、どのような現象がありましたか? つまり、足音や物音がしたりだとか、手を触れていないのに物が動くとか」
気のせい、という可能性は否定できない。最初にそれを問い質すのが、咲耶の流儀だ。
余計な手間をかけては、依頼人もこちらも気まずくなる仕事である。
しかし、斎藤は首を振った。
「目に、見えるのです」
視認できる、霊。
眉を寄せて、咲耶は低く唸った。
月虹町までは、車で三時間ほどの道程である。
斎藤は絵に描いたような安全運転で、二人の拝み屋を案内した。
泊まりこみの仕事になるだろうとは龍野から事前に聞いていたため、彼らは軽い荷物を持ってきている。
咲耶は難しい顔で黙りこんでいた。
沈黙に耐えかね、紫月が運転席の斎藤に声をかける。
「斎藤さんは、お幾つなんですか?」
「私ですか? 今年で二十三になります」
驚いた表情をバックミラーで見たのだろう。何故ですか、と軽く問いかけられる。
「いえ、随分と落ち着いていらっしゃるから……」
すみません、とばつの悪い顔で続ける。
「気になさらないでください。私は今年の春に入社したところで、これでも結構いっぱいいっぱいなんですよ」
紫月に気を遣ったのか、小さく微笑みながら告げる。
「そうは見えませんけど」
思ったところを素直に口に出す。
紫月の周囲にいた大人たちは、かなり特殊な者たちだった。養父は大学教授で、その教え子たちとも顔見知りであった。また、居住していたある宗教団体の職員や信者たちがいるが、彼らも一般的な会社員という者は少ない。
自分の世界は酷く狭かったのだ、と今更ながら痛感する。
「ありがとうございます」
そんな紫月に、そつなく斎藤は礼を口にする。
……そつが、なさすぎる。
むっつりと、咲耶は二人の会話を耳にしていた。
幾つもの山を越えて、ようやく目的地が近づいてくる。
月虹町とは、明治初期に来日した外国人たちのために作られた数ある避暑地のうちの一つでもある。
道は広く取られ、等間隔で植えられた街路樹が涼やかな影を落としていた。
一戸あたりの敷地も広く、瀟洒な和風、洋風の建築物が建ち並んでいる。
「……斎藤さん。その別荘は、方向的にこのまま真っ直ぐ進んだところですか?」
眉間に皺を刻み、咲耶が尋ねる。
「え、はい。大体その方角ですね。あと五分ほどで到着します」
斎藤がやや訝しげに答えた。
紫月は相棒に顔を寄せる。
「どうかしたのか?」
「お前には判らないだろうな。酷い臭いだ」
不機嫌そうな顔を崩さず、そう囁く。
咲耶は、この世ならざるものたちの存在を、臭いとして知覚できる体質だった。
「車の中だぞ?」
「奴らの臭いに、障害物なんて関係ない。存在感は風に左右されるようなもんじゃないからな」
厳密に言えば、彼が感じ取っているのは[臭い]というものでもないのかもしれない。紫月は僅かに興味を惹かれたが、今はそのような場合ではなかった。
「数が多い。気を引き締めろ」
咲耶の命令に、真面目な顔で紫月は頷いた。
とある門の手前で、一度車を停める。斎藤は車を降り、自ら横幅が一枚は二メートルほどはありそうな両開きの門扉を開いた。
「すみません。他に人がいないもので」
小さく笑って詫びると、再び運転を開始する。
門扉の自動化ぐらい簡単にできそうなものだが、そうしないのは、何をするにもわざわざ人の手に依ることに拘る階級の常だ。
勿論、使える人手が一人きりだということは想定していなかっただろうが。
門から十数メートル入ったところに、建物が建っていた。
円形に整えられた車寄せに、静かに停まる。
斎藤が再度門へと戻る間、咲耶と紫月は車から降りた。空気が、なんとなく涼しい気がする。
それは、避暑地という立地のためか、それとも。
ぐるりと周囲を見回した。敷地は広い。間口だけで、三十メートルはあるだろうか。きちんと刈りこまれた常緑樹や薔薇の茂みが、芝生の中に設けられた遊歩道を庭の奥へと誘っていた。
建物は洋風建築だった。木造の二階建てで、外壁は白く塗られている。屋根板と窓枠は錆浅葱色だ。
十年ほど誰も住んでいない、と聞いているが、手入れはしているのだろう。でなくては、外壁や屋根がぼろぼろになってしまう。
斎藤が小走りに戻ってきた。
「お待たせしました」
車はそのままにし、玄関へと向かう。泥落としで靴底を擦り、扉を開いた。どうやら、中は土足らしい。
注意深く、二人の少年も靴の汚れを落とす。
玄関を入ってすぐは、二階分が吹き抜けの広間になっていた。
飴色に磨き上げられた床板が、滑らかな光を放っている。
片隅に置かれたソファセットは重厚で、敷かれた絨毯は細かな模様のシルク製だ。
反対側の壁際に、二階へと向かう階段が設けられていた。
「まずは、夏木に会って頂きます。問題がないようでしたら、契約を」
あらかたのことは、ホテルで会った時に聞いていた。だが、夏木太一郎が直接会って決めたい、という意向だということもあり、彼らは現場にやってきたのだ。
先に立つ斎藤の後ろに続き、咲耶は片手で胸を撫でた。
「……息が詰まるな……」
紫月も、人差し指を襟に引っ掛けて軽く引いた。流石にボタンを外すような真似はできない。まあ、隣に立つ上司があの格好では、そんな気遣いも意味はないかもしれないが。
軽い足音を立てて、二階に上る。優美な曲面に彫り上げられた手摺は、そのまま吹き抜けの縁をぐるりと回っていた。
それに直交して、建物の中央を縦に貫くように一本の廊下が続いている。その両脇に、幾つか扉が並んでいた。
小さな、品のいい絵画が壁に下げられた廊下を進む。
突き当たりの壁に設けられた扉を、斎藤は軽く叩いた。
「斎藤です。ただいま戻りました」
「ご苦労」
小さな声が返ってくるのを確認し、夏木家に仕える青年は扉を開く。




