第五章 04
騒がしい。
耳に残る音楽。興奮を押し殺したような声。
うっすらと、弥栄紫月は眼を開いた。
隣のベッドに腰掛ける、長い髪の後姿。流石に上着は脱いでいるが。その更に向こう側に、液晶テレビが光を発していた。
顔だけを反対側へ向ける。窓のカーテンは閉じていたが、その下方から陽の光は漏れている。照明もつけていないのは、眠っていた自分への配慮か。
なんだか面白くない気分で、身を起こす。
「よぅ。おはよう」
気配を察したか、守島咲耶は上体を捻ってこちらを向いた。
「おはよう。……君は眠ったのか?」
「当たり前だろ。昨夜ここに着いてから何時間あったと思ってんだ」
昨夜。苦い気持ちで、記憶を思い返す。
教団の礼拝堂の地下で、養父とやりあい、咲耶はそれに勝った。しかし、その場に居合わせた紫月の実父は、燃え盛る礼拝堂から、一瞬にして二人の少年を近隣の路地裏に送り出したのだ。
憤然として戻ろうとした二人だが、その頃にはもう教団の周辺は大勢の人だかりに囲まれていた。
宿泊棟はどうやら鎮火したようだったが、礼拝堂は炎に包まれている。野次馬と消防車で、近づく手段はない。中に入ろうなどと、望むのも不可能だった。
まして、紫月のことを知られれば、厄介なことになりかねない。
咲耶の説得に応じてその場を立ち去り、数駅離れた辺りでビジネスホテルに泊まったのだ。
流石に汗だくで、身体に煙の臭いもついている。前日もほぼ徹夜だった紫月は、シャワーを浴びた直後から、泥のように眠っていた。
溜息をついて、カーテンを開く。侵入してきた陽光が眼に眩しい。今日も、暑くなりそうだった。
「テレビはつけていいのか?」
ぼんやりと尋ねる。確か、彼は『空間が繋がるもの』として、忌避していた筈だ。
「俺の部屋じゃねぇしな。それに、今の俺の居場所を特定してわざわざ何かを送りこんでくる奴なんて、そうはいねぇよ」
意外と打算的な理由だった。
呆れた視線を改めてテレビへと向け、そして紫月は目を見開いた。
映っているのは、見覚えのある庭だ。
「これ……!」
隣のベッドへと飛び乗る。ぎし、と揺れて、咲耶は少しばかり迷惑そうな顔をした。
「ニュースになってるな。宗教団体の建物が火事。一棟は小火で、礼拝堂は上半分全焼。怪我人が、四人ぐらいだったか。軽症だってよ」
「……軽症」
教団の人々は、殆ど無事だったのか。ほっとしたような、胸が痛むようなそんな気持ちでいると。
「だが、杉野は死んだぜ」
暗い声で、咲耶が続けた。
「……え?」
「礼拝堂の地下室で、遺体が見つかってる。火と煙に巻かれたんじゃないかって話だ」
続けて、くそ、と小さく呟いた。その顔は、悔しげに歪んでいる。
液晶画面の中で、きっちりとスーツを着た女子アナウンサーが興奮を隠しきれない声で何かを言っていた。
「お前の立場も、あまりよくない。大学の教授が新興宗教の施設で死んで、血の繋がらない養子の姿が見えない。警察が行方を捜してるって……」
咲耶の言葉の終わりも待たず、紫月はベッドから降りた。クローゼットにかけておいた制服を取り出す。
「おい、紫月」
「戻らないと」
「はぁ?」
素っ頓狂な声で返された。急いでボタンを嵌めて、ネクタイを首に回す。
「僕のせいで、教主様たちに迷惑がかかってるんだ。早く戻らなきゃならない」
「いや、お前、今あそこに戻るなんてマスコミの餌になるようなもんで、もっと立場が悪く」
しかし、紫月が一切聞く耳を持たないことを察したか、咲耶は肩を落とし、長く溜息をついた。
「ああもう、判った! 何とか、教主とは会えるようにしてやるよ。だから俺がセッティングするまではおとなしくしといてくれ。頼むから」
テレビ放映とかされたら流石に揉み消しは期待できねぇ、と、ぼやくように漏らした。
時間は、午後を幾らか回った頃。
紫月は、前日も世話になっていた、咲耶の馴染みの喫茶店にいた。
流石に三日目は絶対に駄目だ、と頑として言い張った真弓が、Tシャツとスラックスを貸してくれている。男物で紫月にはややサイズが大きいが、半袖のシャツと、生地が薄いためスラックスの裾は捲くり上げ、何とか着ることができていた。
カウンターに座って、内心の焦りを抑えながら待っていたところで。
静かに、扉が開いた。
「紫月くん」
「……教主様」
ほっとしたような、どこか苦しいような表情で、立ち上がる。
教主は、昨夜に比べて僅かにやつれたように見えた。黒のスーツが、その顔色を更に悪く見せている。
「奥の席にどうぞ」
真弓が自然に案内する。店の奥へ歩いていく教主の後ろから、咲耶が姿を現した。カウンターの、先ほどまで紫月が座っていた隣の席へつく。
「お疲れ様」
マスターの囁き声に、肩を竦める。カウンターに頬杖をつき、少年は視線を入口側の壁に向けた。
テーブル席についた有馬と紫月は、やや居心地悪そうな顔を突き合わせていた。
「無事でよかった。知っているだろうが、昨夜は酷いことになっていてね。君たちが巻きこまれているんじゃないかと思っていたんだ」
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
軽く、頭を下げる。
昨夜会った時に、教主は出火した宿泊棟のラウンジにいるように、と指示していた。結果的に少年たちはそれに従わなかったのだが、そう思いこんでいる有馬とすれば、心中穏やかではなかっただろう。
「杉野さんが亡くなってね」
ぽつりと有馬は知らせてくる。
「知っています。……ご迷惑をおかけして」
「君はまだ子供なのだよ。何も負うことはない」
穏やかな、気遣ってくる声に、胸が温かくなる。
「だが、昨夜、君たち二人が礼拝堂に入っていった、と言っている者がいる。本当かね?」
完全に身を隠していた訳ではない。あれだけの騒ぎだ、見ているものがいても不思議はなかった。
「宿泊棟から出火して、僕たちはそれを報せに杉野、さんのところに行ったんです。あの人はインターホンで応じただけで、敷地の反対側だから心配ないと……。言い出したら聞かない人ですし、教主様とお話もできそうになかったので、そのまま礼拝堂を出て帰りました」
しかし、今朝方咲耶と二人で、ある程度辻褄が合う話を作り上げている。事実を話しても、彼らに理解できるとは思えないからだ。
教主も、警察も。
その男は、静かに頷いた。
「そのように、私からも警察に話しておこう。だが、君もいずれ直接話をすることになるだろうから、そのつもりでいることだ。今日は、一緒に戻ってくるのかね?」
「いえ。今、教団に戻るつもりはありません」
紫月の拒絶に、少しばかり寂しそうな表情を浮かべ、頷く。
今の教団は、ワイドショーの格好の餌食だ。周辺の住宅地で噂話を聞きこんでいる。
そこに紫月が戻ればどうなるか、人がいいとは言え、教主も想像ぐらいはできるのだろう。
「判った。だが、すぐに連絡がつくようにしていてくれ。お葬式もあることだし」
血は繋がっていないものの、紫月は杉野の甥に当たる。里子でもあったし、何より杉野の両親は既に他界し、他に身内はない。紫月が喪主になることも充分ありうる状況だ。
内心眉を寄せるが、しかし少年は従順に頷いた。
「うん。ならば、他にも話せることを話しておこうか」
予定よりも長く滞在し、急かすような電話がかかってきたところで、ようやく有馬は帰って行った。
彼を道路まで見送ってから戻ってきた紫月は、むっつりとした顔でカウンターに座っている。
「悪い話じゃないだろ」
他人事、という気楽さで咲耶は感想を述べた。
「問題外だ」
簡単に言えば、保険金の話だ。社会人として当然な程度の保険に杉野は加入していた。数年前、父親が亡くなった時に、紫月へと受取人を変更した、と事務的に聞いた覚えもある。
だが、彼との関係性をすっぱりと断ち切りたい、と望んでいる少年には、それは受け入れ難いものだった。
「だけど、遺産も受け取り拒否するのか? あの地下室にあった本とか、結構貴重なものなんだろ」
一瞬、紫月の身体が震えた。
彼の知識欲の一端だけでも知っている咲耶は、薄く笑いを浮かべている。
「それに、お前が遺産を受け取ってくれたら、俺もちょっと楽だしな」
「君が何を?」
不思議に思って問い返すが、後でな、といなされた。
不満そうに、目の前のアイスコーヒーに刺さったストローをくるくると回す。
「まあ、それよりも、もう一件の方が問題だよ」
溜息混じりに呟く。
杉野が、新興宗教の施設で火事に巻きこまれて死亡した、という事態は、彼の職場で大問題となっていた。
日本において、信仰の自由が認められて随分経つ筈だが、世間は未だその手のことに敏感だ。杉野の研究対象を鑑みても、この事件はスキャンダルでしかなかった。
杉野自身が亡くなってしまっている以上、規定に従って対処する以外に方法はない。
だが、彼の養い子で、付属高校に在籍している紫月は、その限りではなかった。
遠回しに、学校側は自主退学を要求してきたのだ。表向きの理由は、身体が弱く休みがちであったという彼の出席日数の不足であったが。
「そっちこそ、どうでもいい気がするけどな、俺は」
軽く、咲耶が感想を零す。
ずっと無言でいたマスターが、薄く笑みを浮かべた。咲耶は、自らの意思で進学をしていない。紫月が憮然として返す。
「そうはいかないよ。ここで退学したら、大学に進めない」
「大学に行って、何になるんだよ」
皮肉げに言うが、当然、という表情で紫月は続けた。
「当たり前だろう。勉強するんだよ。僕はまだ、世界の何も知らない。知りたいことは、山ほどある」
その姿勢に、僅かに呆れた視線を向ける。
「それが目的だったら、別に高校に通わなくてもいいだろ。お前、頭はいい方なのか?」
「全国模試で、大体十位ぐらいには入ってる。色々あって、受けられないことも多かったけど」
むっとした表情を浮かべて、紫月は答えた。僅かに身を乗り出し、言い聞かせるように咲耶は口を開く。
「じゃあ、高卒認定でも受けてから受験すればいいだけだろ。来るなって言っている学校に、わざわざ通ってやる必要があるのか?」
友人の提案に、紫月はしばらく沈黙した。
「……考えもしなかったな」
にやり、と楽しげに咲耶は笑う。
「そんなことだろうと思ったよ。お前は、レールの上に乗りすぎなんだ。人生にとって、途中下車は別に大したことじゃないっていうのを、ちょっとは学習した方がいいぜ」




