第五章 03
背後の紫月に視線を向ける。彼から戻ってくるそれが、自分と似たり寄ったりであることを確認し、双方が困惑を更に深めた。
悪魔、という存在の行動規範は実に単純だ。彼らは、〈七悪〉という概念に忠実に動く。
つまり、〈嫉妬〉・〈怠惰〉・〈好色〉・〈強欲〉・〈大食〉・〈憤怒〉、そして〈傲慢〉である。
そして西洋悪魔というものは、世界に蔓延するありとあらゆる悪徳と堕落を賛美し、推奨するものである。
これらの悪徳に漬かった者たちは、人としての道義、倫理など意にも介さない。悪魔崇拝者の中には、自らの子供すら生贄に捧げるのは当然、というものも珍しくない。
杉野が紫月を生贄に使ったのは、単純に甥という関係だけを考えても、さほど不思議な行動ではなかったのだ。
今回も同様に、召喚した魔王に紫月を捧げ、契約を交わし、自らの望みを果たそうと考えていた杉野にとって、この言葉は予想外だったに違いない。壇上に座りこみ、顔を引き攣らせている。
だが、アスタロトは全く意に介した様子もなく、滑らかに言い渡した。
「そなたの魂と肉体に、千の星を降らせよう。緩慢なる苦痛と絶望とを味わうがいい。慈悲深き死の翼が、いつその身に触れるか、渇えつつ望み続けよ」
「待て待て待て!」
慌てて、咲耶が大声を上げる。
不満そうな顔で、魔王アスタロトは肩越しに振り向いた。
「何だ」
「勝手な真似をされちゃ、困るんだよ。あいつに関することは、俺の仕事だ。俺は、仕事で死人は出さない」
力強く足を踏みしめ、両腕を組んで言い放つ。
「……貴方に手を出されたくないという意味では、同感ですね。杉野を殺すなら、それは僕であるべきだ」
「紫月!」
落ち着いた声で意見を述べた少年を、鋭く咲耶は制する。
考えこむように、魔王は視線を伏せた。
「……なるほど。確かにそれはそなたの言う通りだ、紫月」
「そっちに同意するんじゃない!」
おごそかに認めた魔王に、力の限り横槍を入れる。親子は、揃って似たような視線で見つめてきた。
「君が僕を止める権利なんてないよ、咲耶」
「権利があるないの問題じゃないだろ。いいか、紫月」
「あいつが今まで何をやってきたか、君も全部知っている筈だろう!」
辛抱強く宥めにかかった咲耶に、叫ぶ。
小さく吐息を落とし、若き陰陽師は口を開く。
「ああ。死んだって当然だ、って人間は、いない訳じゃない。それぐらい、俺だって何人も見てきている。だけどな、紫月。死んで当然だからって、殺していいって訳でもないんだよ」
「……綺麗ごとだ!」
言葉に詰まり、咲耶の真っ直ぐな視線に耐えられず、俯いて、ただ声を上げた。
十数秒。じっと、二人が待っていたことが、気遣いであると判っていても、それでも苛立つ。
「……それじゃ、君は、奴を殺す以外の解決策があるとでも言うのか?」
低く、問いかける。咲耶の声は、変わらず自信に満ちていた。
「当たり前だろう。大体、殺人はれっきとした犯罪だ。俺が二年も拝み屋をやってて、関わった術師を全部殺してきたとでも思ってたのか?」
「その辺にはあまり興味がなかったんだ」
素直に返すと、咲耶は僅かに傷つけられたような表情を浮かべた。
「とにかく。これは、俺が受けた仕事だ。俺には、仕事を完遂させる義務がある。私怨は、一旦脇に置いておいてくれ」
「いいだろう」
咲耶の要請に、あっさりとアスタロトは同意した。
その反応に、胡散臭そうな視線が返ってくるのを、しかし魔王は気にもしない。
「但し、機会は一度だけだ。それでそなたが失敗したら、最終的な始末は私か紫月に任せてもらう」
寛大なのかシビアなのか判らない制限に、咲耶はにやりと笑う。
「充分だ」
そして、ゆっくりと歩き出した。同様にこちらへ向かうアスタロトと無言ですれ違う。
咲耶は杉野と対峙するために。魔王は、紫月を庇う位置へ。
疲労と混乱に動けなかった杉野は、それでも状況を把握した。
自分に対して殺意を持つアスタロトと紫月とは違い、生かしておくことが目的の咲耶が相手であれば、隙を突いて逃亡できるかもしれない。
そう、彼が考えただろうことは当然だ。
だが、今、杉野は悪魔を殆ど全て引き剥がされ、ゴーレムを破壊された。
使える手段は、単純に、魔術だけである。
「引き裂け、魔道銀の網よ!」
声を上げると同時、咲耶を中心として、周囲を囲むように床から何かが上昇した。
膝の高さを超えないうちに、躊躇いもせず、少年はそれを踏みつける。
銀色の、何らかの金属で編まれたような網は、ぱきん、と呆気なく割れた。ずだん、と音を立て、その勢いのままスニーカーが床を踏み躙る。
その隙に背後から覆い被さってくる網を、身を捩り、回転する勢いのまま肘を打ちこんで一気に破砕する。
割れた金属は、断面からざらざらと粒子の荒い粉となり、どんどんと穴が広がり、自重に耐え切れず床へと落ちていく。
この陰陽師の格好は、顧客へ断言したように伊達ではない。
黒革の上着や手袋、スニーカー、髪を結っている白い組紐にまで、防御を主な目的とした様々な呪が籠められている。
文字通りの力押しでも、そこそこは何とかなるものだった。
「流れ墜ちよ、炎の星!」
次いで放たれた言葉に応じ、部屋の中で燃え盛っていた炎が膨れ、丸まり、そして四方から咲耶へ襲い掛かる。
瞬時に、咲耶は周囲に部分結界を構築する。
結界とは、基本、空間を密閉し、内外の出入りを禁じるものだ。形状は様々だが、球状が最も安定する。強固ではあるが、重ねては存在できない、という欠点もあった。
それとは違い、部分結界とは、言うなれば盾のように、その面においての通過を禁じるものだ。面を外れれば意味はない。だが、複数を一度に展開でき、使い勝手は多種多様である。
咲耶は、それに火気を害する性質を持つ水気を纏わせ、宙を舞う火球の動きに対応させる。
しかし、杉野が放った攻撃は、部分結界に掠ることすらせず、吹き上げる風に散らされた。
少しばかり驚いて、背後に視線を向ける。
未だ床に座りこんだまま、真面目な表情でこちらを注視する紫月。その傍らに立つ魔王アスタロトは、無造作に片手をひらりと振って見せた。
……まあ、防御に気を使わなくてもよければ、負担は減る。
そろそろ幾つかの面で色々と諦めて、咲耶は再び杉野に向き直った。
少年一人のみであれば、と思っていた杉野は、特に魔王の援護に、絶望したような表情を浮かべていた。
彼が何を行おうと、四大諸侯の一であるアスタロトに太刀打ちできる筈もない。
それをじっと見据えて、口を開く。
「……付くも不肖、付かるるも不肖、一時の夢ぞかし」
響いた声に、紫月が驚く。一緒にいた二日間、守島咲耶が呪を聞こえる形で口にしたのは、初めてのことだったのだ。
次の瞬間、杉野の周囲に、青白い光が纏わりつき始める。
「なん……だ、これは」
魅入られたように、男は虚空を見上げた。
「……鬼神に横道なし。人間に疑いなし……」
呪は続く。ただ、粛々と。
だが、さほど長くはない。すぐに、咲耶は口を噤む。出来を確かめるように、壇上の男をじっと見た。
そして、くるりと踵を返す。何の警戒心も持たないように、少年は連れのところへと戻っていった。
「終わったぜ」
「は?」
呆気ない言葉に、反射的に問い返した。
魔王は、やや驚いたような視線を咲耶に向けている。
「終わった、って、こんなに早くか? そもそも、何をやったんだ君は!」
「元気が戻ったみてぇだな」
僅かに皮肉っぽく、返す。
が、きょとん、として紫月は両手に目を落とした。
確かに、つい先ほどまでずっと続いていた震えが、脱力感が、消えている。
「まあ、俺が何をやったか、って言えば、単純だ。杉野から、術を扱う能力を奪っただけさ」
「……え?」
声は、紫月と、そして杉野から発せられた。
「莫迦なことを言うな! 私には、知識がある。記憶がある。魔術が使えないなど、ありえない!」
よろり、と立ち上がり、杉野が叫び声を上げた。
うんざりした顔で、咲耶は男に声をかけた。
「試してみろよ。あんたの今の腕じゃ、その辺の蚊さえ潰せないぜ」
ぎり、と歯軋りし、魔術師は絶叫する。
「流れ墜ちよ、炎の星!」
反射的に紫月が対抗するための呪を唱えかける。が。
全く何も、起こらなかった。
魔術を成功させた時には、手応えのようなものがある。それが感じられなかったのだろう。呆然と、杉野は手元を見つめている。
「莫迦、な……」
先ほど咲耶が唱えた呪は、元々は人から憑き物を落とすためのものである。
その対象を、『精神生命体』である憑き物から、人の『精神』そのものへと転換し、効果を限定させれば、こうして術を使うための能力を失わせる、ということができる。
しかし、このような術は、大抵の陰陽師は使用しない。
使ったところで、肉体に害を及ぼすことはなく、生命に支障が出るわけではない。だが、術師としての根本的な部分は、言わば廃人同様に壊れてしまうものだった。
同じ術師として、そのような行為に嫌悪感を抱くものも、多い。
また、そのような倫理など考えもしない、一部の悪辣な陰陽師なら、もっと直截的な手段を取るだろう。人を、その存在すら消滅させてしまうことなど、彼らには容易い。
だからこそ、咲耶はこの呪をはっきりと聞こえるように唱えたのだ。
そのことで、目的を悟られ、対応手段を取られることになろうとも。
これほどの威力を持つ術で、できる限り騙し討ちのようなことは、したくはない。
それが、拝み屋である咲耶の持てる、僅かな矜持である。
「見事なものだな。外法者にしては」
おそらくは褒めてきたのであろう魔王に、胡乱な視線を向ける。
「そういう呼び方は止めてくれ」
「事実であろう。そなたが、外法者であるということは」
「そりゃ、どういう世界の見方をするかによるさ」
二人の軽口を聞き流して、紫月はじっと養父の姿を見据えていた。
物心ついた時から絶対的に自分を支配し、思うままに使ってきた男。
目的のために、彼の全てを利用してきた男。
杉野を殺す夢を、何度も見た。どんな罵声を浴びせてやろうかと、何日も考え続けた。
そして、今、杉野の人生は崩壊した。今までのものも、これからのものも。
もう、杉野は、紫月を傷つけることはできない。
……だけど。
知らず、紫月の歯が軋む。一瞬はっとした少年は、一つの言葉を思い返す。
死んで当然だからって、殺していいって訳でもないんだ、と。
長く吐息をついて、紫月は杉野に背を向けた。
「しかし火が強くなったな……。杉野の結界が消えたからか。早く逃げた方がいいかもしれないぜ」
ばちばちと音が響き、上階から燃え落ちてくる内装材は増えつつある。
話題を変えるような咲耶の言葉に応じたのは、意外な人物だった。
「外まで私が送ってやろう」
親切に申し出た魔王の言葉に、しかし咲耶の態度は変わらない。
「あんたはどうするんだ?」
「気遣いはいらぬ。私ならば、一人でちゃんと帰れる」
「そうじゃねぇよ! あんたは、俺たちを追い出した後で、一体何をするつもりだ?」
問い詰める言葉に、紫月は慌てて振り返った。
魔王アスタロトは、息子へと妖艶とでもいえそうな笑みを向ける。
そして次の瞬間、二人の少年はその場からかき消えた。
咲耶の、悪態の欠片が耳に残る。
「さて」
軽く呟いて、この世の者ならざる男は、無力となった召喚者へと足を向けた。
「少しばかり、話をしようじゃないか。杉野」




