第五章 02
「お前は、何を……!」
「僕は!」
一瞬で激昂した咲耶を、一言で黙らせる。
「僕は、贄だ。ここに僕がいる限り、僕の生命力は全て悪魔召喚の儀式に注ぎこまれる。時間が経つほど、儀式の成功率は上がり、君の勝つ確率は低くなる」
杉野への敵愾心など、もうどうでもよかった。西洋魔術に関わった紫月は、魔王の強大さ、恐ろしさはよく知っている。
召喚を止めなくてはならない。絶対に。
「お前は、重要なことを見落としてるぜ。俺は、奴の書いたノートを見てきた。生贄、って言っておきながら、死んだものを使ったパターンもあった。しかも、成功している。お前が死んでしまったって、この儀式とやらは失敗しないんだろうが」
憮然として、咲耶は言い返す。確かに、紫月が死んでも成功率が極端に減ることはないだろう。
だが。
「君こそ、もっと重要なことを見落としている」
紫月の表情は、暗い。それでも、譲る気は毛頭なかった。
今ここで、杉野に対抗するとしたら、この若い陰陽師しかいないのだ。
「死体は、君の足手纏いにはならない」
きっぱりと言い渡した紫月を、まじまじと見下ろす。そして、呆れた顔で右手を紫月の頭上に延ばした。一言、小さく呟く。
すぅっと、空気が清冽さを増した。呼吸が、楽になる。震えの止まらなかった腕に、少し、力が戻った。
「咲耶……?」
「結界を張った。ちったぁ楽だろ。そこにいろ」
間髪を容れずに放たれた紫月の抗議は、一切無視された。少年は長い髪を揺らし、壇へと向き直る。
紫月を保護した結界の外の状態は、変わらない。
炎はあちこちで、ちらちらとその舌を震わせている。
闇の塊は、もう、直径三メートルほどの大きさになっていた。
さて、どうするべきか。
背中に変わらず乗ってくる圧迫感を受け流しつつ考える。
確かに、生贄扱いされていない咲耶は、現状、大した苦痛は覚えていない。少々酸素が足りない気がするし、身体はやや重いが、咄嗟の動きに支障がでるぐらいだろう。
しかし、紫月の方は結界が最大限の効果をもたらしたとしても、彼への悪影響を抑える程度の効果しかない。
それほどに、この儀式の進行は早く、強い。
目に見えて判る速度で膨れ上がる闇を見据える。
何より一番の問題は、咲耶に西洋魔術の知識が全くないということだ。だが、既に始まっている儀式を中途半端に邪魔した末路、というものは多少推測がつく。
「ここから半径百キロほど壊滅させて終わり、とか勘弁して欲しいしな」
小さく独りごちる。いっそ、儀式をきちんと終わらせてから全てを一気に潰した方が楽だろうかと思いながら。
そんな最中、ふいに視界が翳った。現在の、唯一の光源、部屋のあちこちで燃える炎が、急激に勢いを減じたのだ。殆ど熾火のようになってしまい、空気すら冷え冷えとしたものに変わっていく。
そして、ほんの一瞬前までは存在しなかった何かに、咲耶は数歩、後退する。
目前の、闇の中にいる、何か。
「魔王、アスタロト……」
細い、消えそうな声で、紫月が呟いた。
数秒もすると、ゆっくりと、炎は大きくなった。だが、室温は酷く下がったままだ。
赤みがかった視界の中に、新たな人影が浮かび上がる。
背は高い。だが、人間離れしているというほどではない。こちらに背を向けて姿勢よく立っている。膝の辺りまで伸びた長い黒髪が、艶やかに赤い光に染まっていた。
「……何者だ」
不機嫌そうな声が、響く。
自分に向けられた訳ではない。なのに、背筋が一気に粟立った。
これは。これに、相対することは。
咲耶が、魔王、という存在を甘く見ていたというのは、確かだ。だが、それで済まされるレベルではない。
人間がこの存在と同時に在るということ自体が、不可能にも思えるほどだ。
しかし一切臆することなく、杉野は優雅とも言える動きで一礼した。
「再びの拝謁、光栄に存じます。魔王。覚えておいででしょうか、十八年前に一度、召喚に応じてくださいました」
「十八……。ああ、あの時の男か」
記憶にあったのか、やや声から棘が抜ける。
もう、殆ど床に横たわるような格好で、紫月がそれを見上げていた。僅かに顔を上げているのが、やっとだ。
咲耶は、きつく、拳を握っている。爪が革の手袋に食いこみ、不快な感触を生じているが、そんなものは些細なことだった。
肝心なのは、この身体の震えを止めることだ。
「それで? 私をわざわざ呼び出すなど、一体何の用件だ」
だが充分ぶっきらぼうに、魔王は問うた。
「今度こそ、私と契約を結んでいただきたいのです。至高なる方」
恭しく、杉野が要請する。
「私はもう百年以上、人間如きと個人的な契約は結んでいない。それだけの価値があるものなどはなかった。お前に、その価値があるとでも言うのか?」
「価値あるものを、お返しいたしますよ」
あからさまな嘲りの言葉に、しかし微塵も怯みを見せず、杉野は答えた。
他はともかく、彼の肝の太さだけは疑いようがない。
「返す?」
「私が十八年前に、賜ったものを」
片手を、前方に向けて示す。
軽く、魔王は振り向いた。
その造形は、息を飲むほどに整っていた。透けるように白い肌、とはこのことか。すっと通った鼻梁に、紅を引いたかのような唇。瞳は、黒に近いほどに暗い赤だ。だが、その表情は憂いに沈んでいる。
胸元には黄金の首飾りが何連も下がり、合間に色とりどりに煌く宝石が嵌っていた。黒と赤とを基調にした衣服は、ゆったりと身体を覆っている。
ざっと、周囲を一瞥した。その視線が通り過ぎただけで、空気が破裂しそうなほどに緊張する。
見誤った。
奥歯を噛み締めて、叫び声を上げそうになるのを堪える。
「何も……」
魔王は不審そうに呟きかけて、そして一点を見つめた。
「そなたは?」
咲耶の結界に阻まれて、一度は存在を見逃されていた紫月が身を竦める。
一歩、魔王アスタロトは少年へと近づいた。
その間に、だん、と床を踏みしめるようにして咲耶が立ちはだかる。
「気安く近づくんじゃねぇよ」
目の前の男に、意識を集中させる。正面切って立ち向かって、勝てるなど正直思えない。だが、ここで退くことはできなかった。
ただ不思議そうに、魔王は邪魔をする少年を見つめている。
「咲耶」
小さく声を上げて、紫月は何とか上体を起こした。
「その者が、私が賜った子供にございます。今宵、十七となりました。どうぞ、お好きにお使いくださいませ」
杉野の声を背に、紅い唇が開く。
「子よ。名は」
「……弥栄紫月」
返事には少々迷ったが、隠したところで杉野が教えるだけだ。
「弥栄?」
だが、その名前にアスタロトはやや戸惑ったようだった。
「あの娘の名は、確か杉野愛美と言った筈だが……」
確かに、戸籍のなかった紫月を、わざわざ弥栄の姓にした理由は判らない。単純に、出生を隠しておきたかったのか。それでも、紫月を育てていた二人が結婚してなかったなら、子供は母親の姓になるのが通例だが。
だがそこまで日本の戸籍事情を魔王が考えていた訳でもないらしく、すぐに続けた。
「まあいい。お前の母、か。どうしている」
僅かに瞳を和ませて尋ねた。
「死んだ」
短い答えが、僅かにでも魔王に衝撃をもたらすとは、思いもしなかった。
彼は目を見開き、まじまじと紫月を見つめている。
「……死んだ?」
「殺されたんだよ。杉野に」
苛立ちをぶつけるように、咲耶はつけ加える。紫月から視線を逸らさず、魔王は問いかけてきた。
「この者の申すことは、真実か」
紫月は眉を寄せ、言葉を選ぶ。できるだけ、正確に。
「少なくとも、彼の言葉は、杉野の言ったことと同じだ。そして、母は確かに十四年前に死んでいる」
「……そうか」
溜息を落とし、俯いた。その姿からは、先ほどまで発していた威圧感が減っている。
それに気を取り直した、という訳ではないが、咲耶が口を開く。
「そこをどけ。あんたが杉野を護る、って言うなら、俺は全力であんたを滅する」
咲耶たちが杉野に敵対している、ということを魔王アスタロトは知らない。その状況で不意討ちは性に合わない。
だが、それを知って敵対するのなら、やるべきことをやるまでだ。
勝ち目は薄い、と珍しく覚悟しながら告げた言葉に、魔王は小首を傾げた。
「あれを護る? 私が何故」
「あんたはその為に呼び出されたんだろうが」
眉を寄せ、問い返す。ここまで対話できるとは思っていなかった。自然、対応は手探りだ。
しかし、美貌の魔王は嘲るような笑みを浮かべる。
「私が召喚者に従属すると? 人の子が契約を結ぶのであれば、それは我が下僕とならんが為だ。私に全てを捧げ、魂を擦り減らして尽くすが喜びとなるものだ。そなたは考え違いをしている、外法の者よ」
「外法?」
小さく呟くが、まあ今言い立てることではない。
「あの者に、危害を加えるつもりなのか」
「ああ」
即答する。僅かに、杉野が怯んだように見えた。
「それは、あの者が愛美を殺したからか?」
魔王の声音は酷く冷たい。
「それだけじゃない。杉野は、他にも何人もの人間を呪い殺している。紫月の身体を、生贄にして。あんたがどう思うかは知らないが、俺にとってそいつを野放しにしておく理由は、そう多くない」
鋭く、魔王は振り返った。ふわり、とその衣服が空気を孕み、揺れる。
「この外法者の申すことは、真実か」
今度は、杉野へと問いかける。
その威圧感に、男は数歩、後退した。どん、と背後の壁に肩をぶつける。
「そいつは……、私は」
震える声を、魔王は断ち切った。
「話せぬのであれば、我にその記憶を捧げよ。真に我が下僕となりしこと望むならば、まこと小さな犠牲であろうが」
そう、命じただけだった。指先ひとつとして、魔王は動かしもしなかった。
しかし、杉野は鋭く息を飲む。背後の壁に身体を押しつけ、身を捩り、そしてずるずると床に蹲った。
その間、ほんの数秒。
一瞬、死んでしまったのかと焦るが、杉野は荒い息をついて、かろうじて顔を上げた。
「なるほど」
静かに、魔王アスタロトは呟く。
ざわ、と、周囲を巡る炎が揺らめいた。
「聞け、矮小なる人の子よ。貴様は私の寵を受けた娘を殺し、私の血を分けた子を傷つけた。これは、償われるべきものだ」
そして続けて断罪された言葉に、その場にいた人間たちは一様にただ唖然とした。




