第五章 01
守島。
日本に住む、大多数の人々には、全く何の意味も持たない名前である。
だが、ほんの少数の人々には強い畏怖さえ呼び起こす名であった。
それは、日本に存在する陰陽道の数多の流派、陰陽師を束ね、支配する一族を示す。修験道や密教といった、日本古来のもの、国内に存在する、他文化由来のものに対しても大きな影響力を持っていた。
『陰陽師』というものは、元々は国家を支える官僚のようなものであった。星を読み、忌むべきものを退け、国家の安泰に務めてきたのだ。
中でも、『守島』は、『島』を、日本という国家を守ることを〈名〉として自らに課す一族である。
現在の日本は民主主義国家であり、立憲君主制であり、政教分離の原則がある。しかし、『守島』は、今なお絶対的に国家を影から補佐している。国家機能そのものと言うよりは、むしろその概念に対してであるが。
現在の守島の本家には、五人の息子たちがいる。全てが一流の陰陽師であり、当主に忠実に働いている。ただ、その末子だけを除いて。
当主は末の息子が十歳になった年の正月に、彼を将来跡継ぎにする、と明言した。
彼の決断は、全てが国家と一族の益となるものだ。一族からの彼への忠誠は揺らがず、結束は固い。その跡継ぎ問題も、兄たちからすら異論一つ出ずに、決定するかと思われた。
しかし、当の末弟は、それに酷く反発する。当主自身は末子と話すらしなかったが、兄たちは高圧的に彼を諌めた。
以来続いた彼らの対立は、その末子がやがて家を飛び出したことで、一旦の落ち着きをみせていた。
そして。
「榊!」
咲耶の声に応じ、黒いつむじ風が発生する。ゆっくりとこちらへ向かってくるゴーレムの足元に纏わりつかせてみたが、半ば予想していた通りに何のダメージも与えられていない。
「土人形、って言ってたもんな。やっぱ力押しか」
小さく呟いて、召喚を解いた。
ゴーレムが到着するまではまだ余裕がある。ちらり、と視線を壇上の男へ向けた。
杉野は壇の中央を離れ、袖の方向へ移動している。なにやら壁を触っているようだ。
数秒後に、身体に震動が伝わった。
がこん、という音と共に、頭上に異変が生じる。
見上げると、暗く沈んでいた天井に光の線が走っていた。
赤い、光が。
鋭く紫月を見る。こともなげに、少年は答えてきた。
「上の、礼拝堂の床は可動式なんだ。それを開けてるんだろう」
「……あの、莫迦が……!」
罵声を上げた咲耶に驚いた表情を向ける。だが、すぐに上階から熱気と、燃える内装材がばらばらと落ちてくるのに、更に驚愕した。
「何が……!?」
「あの野郎、お前を拉致った後に、上の階に火をつけてやがったんだよ。地下には結界があったし、俺も抑えてたから大丈夫だとは思ったんだが」
忌々しげに、咲耶は告げた。
「火を……? 杉野、一体何を!」
問い詰める養い子に、嘲笑を向ける。
「もう、必要ないからだ。今夜の儀式が終わりさえすれば、私は必要なものを手に入れる。栄光に満ちた、私だけの王国を。あんなお人好しの教主に頭を下げることもなくなる。……お前」
じろり、と咲耶を見下ろした。
「紫月に頼まれた訳じゃない、と言っていたな。大方、ナガタニが雇ったのだろう。全て燃やし尽くして、更地にしておいてやってもいいぞ。手間が省けるからな」
「……言ってることがおかしくないか?」
「結構前からだ」
小声で、少年たちは身も蓋もない感想を言い合った。
無言のまま、ゴーレムは徐々に近づいてきている。周辺の床材にも火が点き始めていた。
「檀!」
声を上げた瞬間、頭上から、ひらりと金毛四尾の狐が舞い降りる。彼らの周囲、直径五メートルほどの範囲の炎が燻って、消えた。
「それじゃあ行くか」
小さく呟いて、巨大な土人形を睨み据えた。身長は二メートルを超える。胴や腕、足は人のそれよりも太い。
だが、狙う所は人間と大体同じだ。
口の中だけで呪を唱える。ばちばちと音を立てて、ゴーレムの膝周辺に雷撃が弾けた。それは一瞬では終わらず立て続けに関節を責め立てる。
油断なく相手を見据えて、じり、と咲耶はやや後じさった。スニーカーが、足場を確かめるように二、三度床を擦る。
それを数度繰り返したところで、紫月が声をかけた。
「手伝おうか?」
「探すのに手間取ってるだけだ。コンクリが剥き出しだったらまだ楽だったがな。こっちの心配よりも、お前は杉野の様子を見てろ」
小声で、素早く指示を出す。
「杉野?」
彼は頭上の床を開いた後、また元の卓の傍に戻っている。こちらをなんとなく眺めているようだ。
「先刻、この土偶野郎に、足止めしろって言っていただろう。殺せ、とかではなく。杉野は、何かを待ってる。それで時間を稼いでるんだ。心当たりはないか?」
ゴーレムの、片方の膝が半ば抉れた。細さに自重が耐えられず、ごぎん、と音を立てて、折れる。膝頭を床にぶつけ、それでもゴーレムは前に進もうとした。
のろのろと床についた手首を、更に雷撃が襲う。
ゴーレムは、今更言うまでもなく土で創られている。陰陽道において、土を害するものは木気。雷は、木気の一形態だ。
勿論、ゴーレムを構成しているのが西洋魔術である以上、その効果はかなり目減りするが。
心当たり、と紫月は呟く。
確かに、先ほど顔を合わせたばかりの時も、今夜にあわせて、などと言っていた。
これから、何がしかの儀式を行うつもりだということは、間違いない。
しかし、大抵の場合、『生贄』である紫月は壇上にいた。今夜、それを促されたことは一度もない。
あの養父が紫月を必要とする理由など、他に思いつきもしないが。
杉野は何を話していた?
紫月の生まれた日。母と自分を護って死んだ男。実の父親。
人を待つのならば、結界を張るのも頭上の床を開くことも的外れだ。
ならば、時間か。
また、鈍い音と共に、今度はゴーレムの手首が折れた。
身体から離れた土の塊が、それでもまだこちらににじり寄ってこようとしている。
舌打ちをして、咲耶は足をずらす。
「……あった!」
瞬間、にやりと笑むと、その場に跪いた。黒革の手袋から延びた、剥き出しになった指先を十本、床に触れさせる。
思わず眉を寄せる。床板が、本当に邪魔だ。
「剥がしてやろうか、くそ!」
小さく罵声を発して、視線をゴーレムに向ける。
決して止まることなく、こちらへ近づこうとする、愚鈍な土の塊に。
少年の唇から、吐息が漏れた。
数秒後、抉り落としたゴーレムの手首が、ぐずりと崩れる。
小さな塊だから、発現が早かったのだ。それはすぐに、こちらも落ちた両脚、そして本体へと波及する。
咲耶が捜していたのは、地中の気の流れだ。それを操ることによって、杉野の人形をただの土へと還していく。
地下であるここは、まだ判りやすかった。木製の床板の存在がなければ、もっと。
呼吸が、少し苦しい。
咲耶のやや背後に立つ紫月も、無意識にか制服のシャツの襟を軽く引いている。
彼らの周囲だけは炎を消しているが、室内はあちこちに火がちらちらと蠢いている。そのせいだろう。
ゴーレムの身体が全て土塊となり、動きを止めたのは、それからまもなくだ。
溜息をつき、身を起こす。
杉野はそれをじっと見つめている。
何のリアクションもなく。
無言で、咲耶は男に向けて歩き出した。紫月も、それに続く。
何を企んでいるのか判らない以上、こちらの隙を見せる訳にはいかない。
だが、ほんの数メートル進んだところで、この場に似つかわしくない電子音が響いた。
杉野が、手元にあった携帯電話を手にした。特に電話やメールではなかったらしく、音を止めて、再び少年たちを見る。
その表情は、もう、冷淡ではなかった。
「間に合ったな」
薄く、満足そうな笑みを浮かべている。
そして、男は、卓の中心に掌を置いた。
壁に設けられていた数少ない照明が破裂した。
天井が高くなった空間は、そこここで燃える炎の勢力以外は一瞬で闇に沈む。
同時に、どん、と背中から強く押された感覚が、少年たちを襲った。
いや。そうではない。
強烈な眩暈が。地の底から、宇宙の果てから発せられたような、押し潰されるかのような圧迫感が。
彼らの存在自体を、縫い止める。
崩れかける脚を、何とか咲耶は維持する。
視線は、杉野から離さない。
その、男との間に、一際黒い闇が生じた。
ゆらゆらと揺れ、ゆっくりと渦を巻き、一つの塊を生じさせていく。
睨み据えていた視界の隅で、細い身体が沈んだ。
「紫月!」
反射的に、名前を呼ぶ。
床に座りこみ、背を丸め、何かに耐えているような少年は、驚愕に目を見開いていた。
ぱきぱきと、周囲で床板が割れていく音がする。
指が小さく震えだす。
この急激に力が抜けていく感覚は、これほど激しくはないが、しかし覚えがある。
咲耶は、感じていない筈だ。これは。
「私を侮ったな、紫月。陣を組んでいないから、自分は『生贄』には捧げられない、と思っていたか? 実際のところ、この部屋の内部に既に陣は形作られていた。自分から血を捧げてくれもしたしな。後は、時を待つだけだったのだ。全く、よくできた息子だよ」
これは、紫月を、生贄に捧げる儀式だ。
呼吸が苦しい。
心臓の鼓動が激しくなる。
背筋に、身を熱くさせるような、凍えさせるような蟻走感が生じる。
唇を噛んで、呻き声を何とか押し留めた。
「元からお前に情も信頼もない。紫月。そこで、私が望みを果たすのを見ているといい。あの方への生贄として、お前の肉体も精神も魂も、残らず闇に堕としてやろう。そして、お前は私に永遠に仕えることになる」
「望み……。『栄光と王国』か?」
咲耶が呟く。
苦しい呼吸の下、上手く動かない思考を紫月は何とか集中させる。
考えろ。杉野は、何を待っていた?
誕生日。十七歳。
分離した十を表すのは〈王国〉。七は〈剛毅〉。そして生成される八は〈栄光〉。
栄光と王国。どうやって手に入れる?
先ほどの、タイマー。時間。天球での惑星の位置か。
だが、それは今日でなくともいい。言ってみれば、補助だ。決め手ではない。
月。日。曜日。
誕生日。……守護聖人。
今日の守護聖人は、あれと相対している。
そして、杉野は自分を初めて『息子』と呼んだ。だが、自分の、ではない。そんな情は彼にはない。
ならば。
「咲耶、逃げろ!」
突然の言葉に、一瞬呆気に取られたように咲耶は視線を向けた。
「杉野が召喚しようとしているのは、今まで相手にしてきたみたいな下級悪魔じゃない! 魔王アスタロトだ!」
「……で?」
予測はしていたとはいえ、この陰陽師の、知識のなさに歯噛みする。紫月は残った気力を、文字通り振り絞った。
「西洋悪魔の、頂点に位置する一人だ。冥王に次ぐ、四大諸侯の一人。ただの人間が、太刀打ちできる相手じゃない!」
「だから、俺に逃げ出せって? 莫迦言ってんじゃねぇよ。ここまで虚仮にされて、示談程度で済ませてやれるかってんだ」
「あああああもう……」
眩暈が酷い。顔を上げているのすら、辛くなる。
この消耗の速さは、今までの十年間で経験した儀式の比ではない。
素早く腹を括る。それぐらいの覚悟は、とっくにできている。
「……判った。君が勝つために、何をすればいいのか教えよう」
静かにそう告げた紫月の顔色は、蒼白だ。
「僕を、殺せ」




