第四章 07
「お忙しい中、お時間を取って頂いてありがとうございます」
スーツ姿の杉野は、聖エイストロム教団の教主と対面していた。
「いえいえ。大学の先生に、私などが何を話せることもありませんが」
にこにこと人のいい笑みを浮かべて、有馬は応対する。
「社会において活動するキリスト教者の調査です。調査対象は数多い方が望ましいのですが、あまり協力してくださる方はいなくて」
杉野の調査は、実質的な運営方針から信者との関係性、教義に関する神学の解釈にまで及んだ。
そういったことを深く話せる人間はあまりいないのだろう。教主は、喜んで杉野との会見を重ねた。
やがて、世間話や身の上についても話ができるほどに、親しくなる。
「そうですか。お姉さんのお子さんを引き取りたいと」
有馬は沈痛な表情でまだ若い青年を見つめる。
「私は独り身ですし、上手くはできないとは思います。ですが、彼を放り出しておくことはできません」
「立派なことです。亡き方も、きっと天の国より見守っていてくれることでしょう」
「ならばよいのですが。色々と、大変なことが多すぎて」
「というと?」
教主は、心からの好意に満ちた視線を向けた。
「……これは」
室内を一瞥して、絶句する。
「お恥ずかしい。研究ばかりで、手が回らなくて」
一月前に、形ばかりは積み上げた資料は再び広げられ、そして数を増やし、着々と残った空間を侵食し始めていた。
「確かに、ここに子供と二人で住まわれるのは無理ですね」
困ったように、有馬は呟いた。地元に懇意の不動産屋がいる、と言っていた彼は、とりあえず現状を見たいと主張したのだ。
「まだ若輩の身ですので、あまり分不相応な部屋を借りるほどの蓄えもないんです。ですが、これら資料は実に貴重なものばかりで、廃棄などとんでもなく」
熱く語りだす杉野に、有馬は圧され気味だ。
彼は原書を読むことはできない。杉野の言う『貴重な資料』が、悪魔崇拝に関するものだということも判らない。
ただ、その人の良さを存分に発揮して、有馬は提案した。
「では、貴方がたがよければ、うちに来ませんか?」
数年前に新築した礼拝堂の地下には、倉庫があるのだという。
まだ何も使ってはいないから、資料はそこに置くといいと。
今度は杉野がその地下室を見に行って、目を見張った。
「どうしてこんなに広いものを作られたのに、使っていないのですか?」
「色々と計画はあったのですが、基本的に地上だけで足りたので。憧れやロマン、と言ったものと、実生活とはやはり上手く折り合えないものですな」
ほら、こんな仕掛けがあるんですよ、と、子供に返ったように説明する教主に、半ば呆れる。
そして、人格者と評される聖職者が、子供じみた情熱を持っている様子に、少しだけ、安堵した。
資料の類は無事に倉庫へ移動させた。
その後、通常の広さに戻った部屋に紫月を迎え入れた杉野は、一年ほど行政の指導の下にいた。
大学職員ということで、会社員に比べれば時間の融通が利くこと。
充分に世話ができているかどうか。
虐待の恐れが、ないかどうか。
相変わらず反応に乏しい紫月との生活で、そのチェックを何とかかいくぐり。
やがて、杉野は正式に紫月の里親となった。
そして、二人の住居は聖エイストロム教団へと移る。
地下室の一部を改装して、個室へと変えたのだ。
法律上、地下室は居室として使用できない。
だがそれは建設時の申請で許可されないだけであって、建ててしまえば後はこっちのものである。
採光は不可能だが、湿気は空調装置や『管理人』の能力で快適さを保っていた。
引越しした後は、一転して、杉野は紫月に構わなくなった。
教主や信者たちに世話を任せ、再び自分の研究に没頭したのだ。
教主から時折聞かされる苦言は、準教授への昇進がかかっているのだ、と言い訳した。
紫月を育てるのに、助手のままではいられない、と。
有馬はその言い分を飲み、せめて、と紫月の面倒を見るようになる。
だが、杉野は完全に紫月を放置した訳ではない。
成長過程については、細かく記録を取っていた。肉体面も、精神面も。
ある意味、実の親よりも詳しかったかもしれない。
そこに、情は一切なかったとしても。
紫月が杉野の悪魔召喚の儀式に初めて生贄として捧げられたのは、彼が七歳となった歳だった。
「十八年前。私が研究していたのは、悪魔と人間との間に子孫は存在できるかどうか、という問題だ。文献には、幾らか実在したという例が残っている。人間と交わる悪魔、という種族もいる。だが、その場合、大抵は子種は他の人間の男から奪ったものだ。それでは話にならない。悪魔そのものと、子供を成さなければ」
淡々と杉野は話を続けた。
「お前は、まさか……」
嫌な予感が、胸に満ちる。掠れた紫月の声を無視して、男は言葉を継ぐ。
「そのために、お前の母親、愛美は生贄に捧げられた」
「杉野!」
怒声を上げる。だが、薄く笑んで、片手を上げて杉野はそれを宥めた。
「死んではいない。その時はな。言っただろう。子を、産んで貰わなくてはならなかったんだ。自ら子を成せるような上級の悪魔を召喚するには、下等動物の生贄では間に合わなかった」
「お前は、何を言っているのか判って」
「お前には理解できないのか? できるだけ簡易に話しているつもりだが」
やや溜息を漏らし、しかし、彼は話を止めなかった。
「まあ、最近の学生も理解力に欠けるからな。そういう者たちの相手は慣れている。後からちゃんと理解すればいい。お前の価値は、頭の良さにはない」
皮肉げに言う男に、紫月は拳を固めた。
次の、言葉を耳にするまでは。
「愛美を生贄に召喚したのは、トップクラスの悪魔だ。赤き月の王。四大諸侯の一。魔界の大公爵、アスタロト。……紫月」
そして、誇らしげに、告げる。
「それが、お前の父親の名だ」
意識から、杉野の声が、途切れた。
鋭く、息を飲む。
呪符から聞こえてくる、杉野の言葉が消えた。
声だけではない。一切の音が消えている。
紫月に、何かあったのだ。
咲耶が渡した呪符は、書きこまれた二人の情報によって繋がっているが、その礎となるのは、各自の『意識』である。先ほど、紫月が気を失っていた間は、咲耶の方には何も聞こえてこなかった。
そして、今も。
礼拝堂は、地下二階の一番奥だと言っていた。
ここから階段を降り、配されているであろう悪魔を片づけて、そこへ辿りつくまで何分かかる?
「おい、じーさん!」
再び、咲耶は管理者を呼びつけた。
「何かね」
名乗っているのに、その名前を呼ぼうとしない相手をどう思っているのか、静かにトゥキ・ウルは答える。
「ここから、杉野のいる場所に行く最短の方法はあるか?」
老いた悪魔は、黙って右手を部屋の奥へ向けた。
その先には、壁があるだけだった。天井から床まで、重いカーテンが下がっている。
……この部屋の壁は、入り口と机のある場所以外、書棚で塞がれている。壁のない場所にさえ、書棚は置かれていた。あの、三メートルほどの幅を何故、空けてあるのだ?
そして、ここは地下室だ。カーテンがどうして必要になる?
駆け寄ると、咲耶は勢いよくカーテンを開いた。
その奥には、観音開きの扉があった。上半分にはガラスが嵌められている。
そこは吹き抜け部の壁に作られた扉だったらしい。階下の様子が一望できた。
祭壇らしき段の上に立つ、痩身の男。それと向き合う形で、かなり離れた床に、一人の少年が座りこんでいる。
口早に何かを呟くと、咲耶はドアノブを握った。一瞬だけ、掌から電光のような青白い光が迸る。流石に礼拝堂は無防備だという訳ではなかった。手に嵌めている黒革の手袋から薄く煙が生じるが、しかし、彼は力任せにそれを回す。
「紫月!」
扉の外には、壁に添って細い階段が作られていた。しかし咲耶はそれには目もくれず、手摺を掴むと無造作にそれを乗り越えた。
長い、艶やかな黒髪が、その動きをなぞって下方へと消えていく。
「……扉は開けたら閉めるものだろうに」
トゥキ・ウルは穏やかな表情のまま、独りごちた。




