第四章 05
大学四年を迎えた春のことだった。
「進路?」
思いもしなかった言葉を聞いて、繰り返す。
「うん。どうするのかなって」
「多分このまま院に進むけど」
杉野にとって、既に研究は生き甲斐だ。それ以外の選択肢を考えたこともなかった。
「私たちは、そこまで学費は出せないから。多分、就職することになると思う」
荻原が、寂しそうに告げた。
「そうか」
「時間があるうちはお手伝いもするし、こっちのことも続けるつもりだけど」
あえて明るく、そう続ける。
「学生の間ほど、時間は取れないだろうしね」
弥栄の言葉に、杉野は考えこんだ。
「……なあ。お前たちの目的は、人探しなんだよな」
「ん? まあ、一応は」
詳しくは、杉野は聞いていない。彼らが話すつもりもなさそうだったので、問い質すことも、進捗を尋ねることもなかった。
だが。
「それぐらいだったら、トゥキに訊いたら判るかもしれないぞ」
学友の言葉に、二人は顔を合わせる。
「でも、トゥキは君の使い魔だし」
「俺を通じて命令すれば大丈夫だろう」
考えさせて欲しい、との言葉で一週間ほど待ち。
ある夜、二人は思いつめた顔で杉野の下宿を訪れた。
「……相変わらずだな」
床の上に、膝の高さぐらいまで積まれた本の山々を見渡して、呆れたように弥栄が呟いた。
「そうでもない。また増えた」
肩を竦め、三人が座れる程度の広さに空いた床を示す。
弥栄と荻原の居心地が悪そうなのは、環境のせいではないだろう。
「トゥキ・ウル」
「ここに、我が主」
三人が輪を描くように座った中心に、すぅ、と、小さな老人の姿が現れた。
「調べて欲しいことがある」
「何なりと」
視線を、二人の客へと向けた。
珍しく固い表情で、荻原は鞄から一枚の紙を取り出す。
「この、事故を起こした人間が誰でいまどこにいるか、教えて欲しいの」
それは古ぼけた新聞の切り抜きだった。
一瞥したかどうか、という速さで、トゥキ・ウルは淡々と求められた情報を告げた。
「……っ」
息を飲んだ荻原の顔色は、真っ青だ。
「おい……」
声をかけた瞬間、彼女は無言で立ち上がり、部屋を飛び出した。
「ごめん、杉野! また後で来る!」
慌てて、そう言い置くと、弥栄が後を追った。
「忙しないご友人方ですな」
「お前がどうこう言う必要はない」
短く命じて、杉野は使い魔の召喚を解いた。
朝ぐらいまでは待つか、と、手近な本を開く。
予想通りに、夜明け前に弥栄は戻ってきた。
「先刻はごめん……」
「気にするな。荻原は」
「部屋まで送ってきた」
疲れたように、弥栄は長く溜息をつく。無言で、杉野は手の届く範囲に常備している電気ポットでインスタントコーヒーを淹れた。
「……君は、今まで何も訊いてこなかったよね」
「訊かれたかったのか?」
我ながら冷淡に問い返した。弥栄が小さく、明らかに無理をして笑む。
「そうじゃないけどさ……」
しかし、言葉は途切れた。
「……訊いて欲しかったのかな。僕らは二人だったけど、それでも、重いんだ」
ぽつり、と呟く。
「訊いてくれる?」
「構わん」
さらりと頷く。
この、人づきあいの悪い青年にとっても、二人は友人であったのだ。
「あの記事、見た?」
「見出し程度は」
「うん。昔の、交通事故だよ。信号無視をしたトラックが、交差点でバスに突っこんだんだ。十九年前」
流石にその頃は物心つくかどうか、という年齢だ。覚えてもいない。
「荻原と、その家族全員。それから僕の家族が、そのバスに乗っていたんだ」
バスはほぼ側面中央にトラックが衝突し、障害物のない交差点内で横転、そして半ば押し潰された。
死者十二人。負傷者五人。彼らの家族は、死者の中にその座を移している。
「荻原は、何とか助かったけど。大怪我で、一年近く入院してたみたい。僕は他に頼れる親戚もいなくて、施設に行くことになって。同じ地区に住んでいたから、そのうち、同じ施設に彼女も来たんだ。荻原とは、それ以来の関係」
淡々と、事情を告げていく。
「運転してたのは、無免許の未成年だった。どこかの工事現場にあったのを、面白半分で乗り回してたって」
未成年。
「だからか」
短く、杉野は呟いた。
「うん。僕らには、犯人が誰か、どうしても判らなかったんだ」
保険金と、バス会社からの賠償金で、大学を出るぐらいまでの金はあった。
その間に、どうしても犯人を見つけたかったのだ。
「探偵を雇うお金まではなかったし、もう、どうしようもなくて。この学校に来たのは、噂でこの辺に犯人が住んでる、って聞いたからだけど。黒魔術に頼ろう、って荻原が言い出した時は、どうしようかと思ったよ。……君に会えなきゃ、どうなってたかな」
「どうしたいんだ?」
杉野は、短く、感情を交えず、しかし核心を衝く。
「……荻原は、殺してやりたい、って思ってる」
「お前は?」
「できないよ。そんなことで、こっちが犯罪者になるなんてそんな」
「弥栄」
薄い眼鏡の奥から、杉野が真っ直ぐに見据えてくる。
「お前の話したいことを、話すといい」
震えだした唇を、ぎゅう、と引き結ぶ。俯いて、硬く握った拳を膝に押しつけた。
「……ずっと」
数分後にようやく搾り出された声は、酷く細い。
「ずっと、待っても、帰ってこないんだ。暗くなっても、誰も電気をつけてくれない。部屋の中がずっと寒くて。手を延ばしても、誰も手を握ってくれない」
その頃、彼は三歳か。
たった一晩でも、独りでいられる年齢ではないだろう。
幼い手が必要としていたぬくもりは、永遠に奪われた。
背をやや丸めた青年は、小さく嗚咽を漏らしている。
「弥栄。お前の、望むことは?」
「復讐、なんて……」
「本心だ、弥栄。話してくれるんだろう」
「無理だよ」
「可能か不可能か、なら、可能だ。俺にはその手段がある」
鋭く、顔を上げる。
笑み一つ浮かべず、杉野は、見慣れたノートに手を延ばしていた。
「選べ、弥栄。お前たち二人で、だ」
次の春が来て、杉野は大学院へ進学した。
それぞれ大学近隣の企業に就職した荻原と弥栄は、それでも時折三人の時間を取っている。
「一緒に住んだ方が楽なんじゃないか?」
仕事が判らない、平日は帰っても殆ど寝るだけだ、家事が溜まっている、とひとしきり愚痴を聞いて、杉野は提案した。
「えー。そういうのじゃないもの」
けらけらと荻原は笑う。
「幼馴染、っていうか、兄妹みたいなものだからね」
苦笑して弥栄も否定した。
「だったら構わないだろう」
杉野の言葉に、二人はまた笑う。
笑えるように、なっていた。
「頼みがあるんだが」
杉野がそう切り出したのは、彼らが二十三歳の頃だった。
「……本気か!?」
普段は温和な弥栄が、珍しく顔色を変えた。
「ああ。自分でできるなら勿論そうするんだが、しかしこればかりは不可能なんだ。残念だ」
にこりともせずに杉野が返す。
それが絶対に本心だと判って、荻原は小さく笑った。
「いいわよ」
「荻原……!」
さらりと承諾した彼女に、弥栄は驚愕の視線を向ける。
「私は彼にどうしたって返せないぐらいの恩義があるもの。彼の力になれるなら、何だってするわ」
「だけどこんなこと、度が過ぎてる! 杉野、君もまさか本気でそんな……」
「でも条件があるの」
必死に止めようとする弥栄を、しかし荻原は気にも止めない。
「私がお前たちの頼みを断ったことがあったか?」
さらりと受けた杉野に、微笑みかける。
「私、家族が欲しいのよ」
「……ふむ。籍でも入れるか」
「杉野!」
あっさりと提案した青年に、激昂した。杉野はそれに酷く不思議そうな視線を向ける。
「何故お前はそこまで血を昇らせてる。少しは落ち着け」
「君たちは……」
怒りと呆れとがない交ぜになって、弥栄は大きく息をついた。努めて冷静でいるように心がける。
その様子を微笑ましげに見つめ、荻原は続けた。
「ありがとう、杉野くん。でも、そうじゃないの。それだと、私には配偶者とその家族しか得られない。家族が欲しいのよ。私のお父さんとお母さんが」
「……愛美」
小さく弥栄が呟く。
「なるほど。……何日か時間を貰っていいか?」
二日後の夜、杉野は二人を呼び出した。
「上手くいきそうだ。荻原。私の親と、養子縁組ができるか?」
きょとん、と二人は友人を見つめた。
「荻原の頼みが、実の両親を蘇らせて欲しい、というのなら、悪いのだが今の私では無理だ。失敗が続けば、お前の気持ちも傷つくだろう。そこで、第二案として、養子縁組を私の親に話してみた。喜んでいたからこちらは問題ない」
「いや喜んでたって、こんな短時間で話がつくものじゃないだろう」
弥栄が呆れて口を挟む。この変わった友人の両親なだけに、その可能性もなくはないな、と思いながら。
「問題ない、と言った。彼らは、喜んで私たちに協力する」
だが、返ってきた言葉に、ふいにざわりと背筋が凍る。
「……杉野。君、まさかご両親にまで何か」
「いい両親でね。私の望みには反対しない」
答えになっていない返答をして、視線を荻原へ向ける。
「君にとっては簡単な話ではないことは判ってる。しかし、時間はあまりない。最終目的の時間は決まっていて、微調整を効かせるにしても、一年のうちほんの一週間ぐらいしか機会はないんだ。来年まで待つこともできはするが、そうするとその一年が遅れる。時間が惜しい。返事を何ヶ月も待つようなら断ってくれれば」
「ありがとう」
杉野の言葉を、静かに遮る。
流石に予想外だったのか、弥栄だけではなく杉野までもまじまじと目の前の女性を見つめた。
「杉野くん。貴方は、いつだって私に幸せをくれるのね」
本当に嬉しそうに、彼女は微笑んだ。
弥栄の表情が、歪む。
養子縁組の手続きで帰郷する際には、流石に弥栄はついてこなかった。
何もないところだが、観光がてら一緒にどうか、と杉野は誘ったのだが、断られたのだ。
「無関係な人間が行っていい場じゃないよ。それに、仕事もあるし」
だが拒絶したのはその一度だけで、その後も、声をかければ弥栄はいつだって顔を出した。
杉野の研究の手伝いや、ただの飲み会など。
仕事が忙しい、と言うこともなくなった。
杉野にとって、二人は心を許せる唯一の存在だった。
互いがそうであることを、疑ってもいなかった。
だから、こんなことは予想もしていなかったのだ。
こんな、裏切りは。




