第四章 03
地下の礼拝堂は、変わらない。
高い天井は変わらず闇に沈み、壁面に設けられた間接照明がぼんやりと室内を照らしている。板張りの床には、ところどころ、掃除しても落としきれなかった穢れた染みが残っている。
入り口は部屋の横手に作られている。左側奥に、一段高くなっている場所があった。壇上までの高さは二メートルほどはあるだろう。そこに、一人の男がいた。
ゴーレムは扉を閉めるとそこを塞ぐように陣取った。命令があるまでどくことはないのだろう。紫月の手をぎこちなく離す。
「やっと戻ったか」
淡々と、この礼拝堂の主である杉野は声をかけた。
硬い表情で、紫月は部屋の中央、杉野の正面まで進んだ。注意深く、周囲に汚れがないところに立つ。
「全く、間に合わないかと思ったじゃないか」
男は片手に銀の燭台を持ち、慎重にそれを磨いていた。
あの程度の雑用、普段は追従者にさせている。
人手が足りないのか。暇だったのか。
他人に任せられないものなのか。
無言で、紫月は養父を観察していた。
神経質に燭台を一瞥して、そっと傍の卓の上に置いた。下からは見えないが、他にも何か乗っているようだ。背の高いものならば幾つか伺える。
「やけにおとなしいな。観念したのか?」
「誰が」
短く、一言だけ返す。
「そうか。お前らしい。今夜に合わせてあっさり戻ってくるなど、流石に諦めたのかと思っていたが」
「今夜?」
あっさりと、という評価にも引っかかったが、それよりも時制だ。
今夜、奴にとって何か大切な仕事でも入っていたのか?
昨夜に入っていたことは把握しているし、あえてその日に家出を決行したのは、それを邪魔し、杉野を苛立たせる為でもあったのだが。
「何だ。本当に何も気づいていないのか」
僅かに呆れた顔で、杉野は養い子を見下ろした。
「紫月。お前は、今日、十七歳になった」
そして、本人すら知り得ない情報を、さらりと告げたのだ。
「……なん、で、そんなことを」
紫月には、幼い頃の記憶はない。
産まれた時に傍にいてくれた筈の人々はもういない。
彼についての調査は既にされている。出生届も出されていなかったし、産院にかかった形跡もなかった。何らかの協力者はいたかもしれないが、それでも彼が産まれたという痕跡は徹底的に隠されていた。
なのに、何故、この男が。
「私がそう設定したからだ」
しかし、杉野はこともなげにそう言った。
その頃咲耶は、地下二階にも辿り着いていなかった。
一階分の階段を降りたところで、複数の悪魔に待ち構えられていたのだ。
しかし、まあ、さほど手間取る相手でもない。
かなりあっさりと片をつけて、さて、と考えこむ。
すぐに紫月と合流するか。
しばらくは向こうは一人で大丈夫と見て、この階を調べておくか。
紫月の勢いに圧されがちではあるが、それでも彼は自分の仕事を忘れている訳ではない。とにかく、何らかの物証を得ることが大切だ。
よし、と呟いて、くるりと踵を返す。
階段を降りたところからは短い廊下と、一枚の扉があるのみだ。
そのドアノブに手をかける。何らかの防御がかけられているかと思いきや、あっさりとそれは開いた。
一般的な鍵すらかかっていない。
内部は、暗闇に沈んでいる。
だが、埃っぽい臭いはするが、妖の臭いはしない。少なくとも、はっきりとは。
慎重に、咲耶は一歩踏みこんだ。
「そこで止まってくれるだろうか、お若い方」
前触れもなく穏やかな声をかけられて、軽く身構える。
開かれたままの扉から照らされる僅かな範囲に、ぼんやりと、何かが浮かび上がった。
老人だ。灰色のローブで身を包み、フードを深く被っている。その下から覗く白く長い顎ひげと、腹の前で重ねられた皺だらけの手が、年齢を物語っている。
背は低い。三十センチほどか。
そして、出現した時から発せられたその臭いは、はっきりと彼が悪魔であると告げていた。
しかし、この件で悪魔から声をかけられたのは初めてだ。警戒心を解かず、咲耶は相手の動きを待った。
「わたしの名はトゥキ・ウル。この書庫の管理を任されている。紙の一枚でも、損なわれることがあってはならないのだ。このまま出て行っては貰えないだろうか」
続いての言葉に、息を飲む。
穏やかに頼まれたからでは、ない。
名前というものには、意味がある。それはその存在の過去であり未来であり、希望であり枷であり、血と肉と魂を全て絶対的に象徴する。
特に、ある意味物質的な肉体を持たず、精神世界に生存するものたちにとっては、〈名〉を知られるということは全てを支配されるということだ。よって、彼らは少し『ずらし』た通り名を使う。
それでも、かなり力任せに強制しなくては、名乗ることはない。まして、自らなど。
緊張を増した咲耶に、老人は薄く笑んだ。
「そう怖い顔をされるな。わたしは愚かだ。愚かな主に仕えている。それでも、使命は絶対だ。判ってはくれまいか、お若い方」
その口調から、静かな絶望が沁みてくる。
咲耶が肩の力を抜き、口を開いた。
「何かを損なうつもりはない。ただ、見学したいんだ。駄目か?」
数度、その白くひび割れたような瞼で瞬いて、トゥキ・ウルは答えた。
「それならば可能だろう。わたしの使命に支障はない」
頭上で、突然灯りが点いた。反射的に周囲を見回すが、杉野らしき者の姿はない。
そっと扉を閉じて、咲耶は仕事に取りかかった。
書庫はかなりの広さがあった。
扉の近くに、二つの机があり、本や紙が山積みになっている。
三列に並べられた本棚の中は、分厚い洋書がみっしりと詰まっていたり、奇妙な像や埃のこびりついた道具などが置かれていたりする。
そして、床には膝ぐらいの高さまで、本棚に納められていたのと同じようなものや紙束が積み上げられていた。
その間を縫うように続く通路を、慎重に歩く。
ぐるりと一周したが、他に人間や悪魔の気配はない。
そして、何を探すにしろ、とてつもなく時間がかかりそうだということもはっきりする。
胸の前で腕を組み、しばらく考えこむ。
「……なぁ、じーさん」
「何かね」
少年の行動を静かに見守っていた悪魔はすぐに返す。
「ここ二週間……、いや、一ヶ月ぐらい前から、杉野が何か手を入れていたものはないか?」
ローブ姿の老人は、真っ直ぐに手を延ばした。
「あの、パーソナルコンピュータの乗っていない方の机の、一番下の抽斗にノートが入っておる。ここひと月で、この部屋で主が書いておられたものはそれぐらいだ。今は学業もお休みらしいのでな」
やはり、管理人に訊くのが一番確かだ。頷いて、咲耶はその机へと近づいた。
「ただ、『鍵』がかかっておる。わたしにはそれを解除する権限はない」
「気遣いはいらねぇよ。それはこっちで何とかするさ」
ひらり、と片手を振って返した。トゥキ・ウルはそれに小さく会釈する。
机の前でしゃがみこむ。その抽斗が開く範囲は床も綺麗なものだった。頻繁に開け閉めしているのだろう。
片手をそっと近づけた。三センチ程度まで近づいたところで、ぴり、と小さな痺れが発生する。
殆ど形ばかりの『鍵』だ。管理人の存在に安心しているらしい。
少年は薄く笑みを浮かべると、強引に抽斗に手をかけた。一気にそれを引き摺り出す。
「……なんとまあ」
背後で老いた悪魔が呟くのは無視した。
抽斗の中には、背を上面にした格好で、ノートが七冊並べられていた。大学ノートだが、割と分厚い。端の一冊を取り出して、机の上で広げた。
表紙には、日付だけが書かれている。
今から二十二年前の。
眉を寄せ、ページを捲った。
几帳面に定規で引かれた線で、一ページに一つの表が描かれていた。『日付』、『目的』、『参加者』、そして『生贄』という項目。
そして三分の二ほどの広さを、丁寧に手で書きこまれた奇妙な図形が埋めていた。
幾つもの同心円や、幾何学的な線、それを縁取る外国語のような奇妙な模様。
咲耶は、似たようなものを、今までにも何度か目にしたことがあった。
『目的』の殆どは、悪魔召喚。時折、個人を呪うようなことも書かれていた。
『参加者』には、常に杉野がいた。他に数人いる名前は、十人足らずのものがばらばらに参加しているようだが、一年もしないうちにほぼ固定化している。
杉野孝之。荻原愛美。弥栄誠一。
『生贄』の欄は、様々だ。ハムスターのような小動物、鳥、有精卵、果ては犬や猫まで。
二年ほど経過した頃に、初めて成功という文字があった。だが、大量の反省点も書かれている。
あまり深く読まないように気をつけて、二冊目に移行する。
十八年前に、『生贄』の欄に変化が起きた。
杉野愛美の名が書かれるようになったのだ。
彼女の、苗字が変わった後である。養子縁組と、このことに、何か関連性があったのか。
記入されているのは複数回だ。生贄、と言いながら、死に至ってはいないらしい。
その後半年ほどで、またぱたりと生贄は以前のような小動物などに戻っている。
時期的には、杉野愛美と弥栄誠一が失踪した頃か。
頻度も少なくなっていった。
それまでの几帳面さが嘘のように、罵倒を殴り書きしているページも続く。
やがてそれも何も書かれないまま、二冊目は終わっていた。
三冊目。いきなり年代が飛んでいる。今から、十年前だ。
やや変わったところがある。表の欄に、『依頼人』、『報酬』という項目が増えた。
そして、『生贄』の欄に弥栄紫月の名が書かれている。
十数回それが続いた後、その欄は消滅した。
使われなくなったのか。
若しくは、毎回同じものを使うから、書く必要がなくなったのか。
無表情のまま、咲耶は素早くページを捲っていった。
頻度が増える。二ヶ月に一度程度だったのが、月に一度、一週間に一度、二、三日に一度まで。
奥歯が、ぎり、と不快な軋みを発する。
一番新しいノートを乱暴に取り出した。
ひと月ほど前の日付で、『対象』にナガタニの名前を見つける。
青磁の壷に、悪魔を封じこめること。それを命令のままに暴れさせること。
植物に、悪魔召喚の印を植えつけること。
そして、書かれているものの一番最後のページ。
『日付』は、今日。
『依頼人』は杉野孝之。
再び記入された『生贄』には、弥栄紫月の名前。
『目的』の欄には、ただ一言。
栄光と王国
呆然とした咲耶の思考の片隅を、話し声が掠めていた。




