第四章 02
ひやりとした空気。更に身体の半面が冷たいものに押しつけられていて、じわじわと冷気が沁みこんでくる。特に頬が冷えるのが不快だ。
遠くで呼びかけられたような声が聞こえて、寝返りを打った。
うっすらと明けた瞼から見えるのは、無機質な、見慣れた天井だ。
『弥栄! 聞こえないのか?』
苛立った声に、ようやく意識がはっきりする。
ゆっくりと上体を起こす。注意を払いながら、スラックスのポケットから一枚の細長い紙を取り出した。
それをそっと唇に寄せる。
「大丈夫だよ、守島。ちゃんと聞こえる」
こちらの声も届いたのか、安堵したような吐息が聞こえた。
この紙は、教団に侵入する前に咲耶から渡されていたものだ。
万が一、二人が離れてしまっても、意思の疎通ができる呪符なのだという。
携帯電話みたいなものかと思ったが、手に取ってから通話までの時間を比べると、確かに早い。咲耶が気にしていた、空間が繋がることへの対処もされているのだろう。
そもそも、紫月が養父に持たされていた携帯電話は、前日にここを出た直後に捨ててきてしまっていた。
あの拝み屋は色々な事態に備えているんだな、と、こんな時だが感心する。
『今どこにいる?』
視線を周囲に向ける。
そこは、六畳ほどの部屋だった。ただし、躯体はコンクリートの打ち放しで、家具は一切ない。カーペットすら敷かれていないのだ。空調が効いている今、床からの冷気はちょっと辛い。
「多分、僕が住んでいた部屋だと思う。地下二階だ」
ここを出る前に、カルミアの力を借りて家具を全て移動させた。それも、襲撃に遭ってしまって、今はどうなってしまったのか判らないが。
少しばかり失ったものへの寂しさを覚えていると、咲耶は小さく舌打ちした。
「どうかしたのか?」
『俺は今、礼拝堂の奥にあった扉の中にいるんだけどな。この廊下は一体何メートル続くんだ?』
彼の言いたいことが判らなくて、首を傾げる。
「十メートルもないと思うけど。突き当たりの右側に、下に降りる階段があるだろう?」
『ないんだよ』
溜息混じりの声が返ってくる。
『廊下の、前も後ろも真っ暗闇だ。もう五分以上歩いているが、階段どころか扉の一つもない』
「何だって!?」
混乱して、紫月は反射的に大声で問い返した。
耳元で叫ばれて、咲耶は思わず顔を逸らせた。勿論、効果はないが。
「……怒鳴るなよ。充分聞こえる」
『あ。ごめん』
おとなしく謝ってくるのに、苦笑する。
咲耶が渡した呪符は、身に着けている人間に、確実に言葉を届けるものだ。呪符と顔の間の距離が変化しても、術の効果は変わらない。
とりあえず、一旦足を止めた。
数分前に扉を押し開き、闇の中へ踏みこんで、三分ほど走った。流石におかしいと気づき、今度は徒歩で戻っているが、その間ずっと、紫月へ告げたように、ただ木造の廊下だけが続いている。
「全く、ぎりぎりまで油断させておいて、お前と俺を引き離した途端に結界を張り巡らすとか、やってくれるじゃねぇか」
苦々しく呟く。
数秒の間を置いて、紫月は尋ねてきた。
『困ってるのか?』
「困ってねーよ!」
間髪を容れずに、怒鳴り返す。
「いいか。杉野は、俺とお前を引き離したがっている。なら、二人とも捕まえればいいのに、俺はこうして動き回ることができているんだ」
『どちらにせよ、それは奴の思うままじゃないのか?』
「なんでお前はそうやって何でもかんでも端的に纏めるんだよ」
可能な限りは説明をしてやろう、という親切心を無にされた感じがして、眉を寄せる。
『君が回りくどいのと足して、ちょうどいいだろう。それで』
「……お前もそういうことを言うんだな」
つい、小さく零した。
『何だって?』
「何でもねぇよ。大体、俺ならこんなところ、すぐさま抜け出せるさ」
気を取り直すと無意味に胸を張り、断言した。
どの道、彼が今まで強硬手段に出なかったのは、紫月の無事を確認できていなかったからである。
「問題は、奴が何を企んでいるかだ。俺を見くびってるだけとは思えない」
『企んでる、って?』
まだ腑に落ちないように、紫月が問いかけてきた。
「杉野は、ずっと、お前に帰ってくるように、と言っている。そして今、まんまとお前だけを手の内に置いた。俺のことなんて、二の次だ。お前が帰ることで、あいつに何のメリットがあるんだ?」
呪符の片割れを持った少年は、小さく息を飲んで、そして沈黙した。
しばらく待ったが、紫月は言葉を継ごうとしなかった。そんなことは知らない、という一言さえ。
小さく溜息をついて、声をかける。
「じゃあ、これから結界を破る。そっちに影響があるとは思わないが、その呪符を少し身体から離してくれ。終わったら伝える」
少しの距離なら、身につけていなくても何とか聞こえる筈だ。
判った、と、短く返してきたのを確認し、ぐるりと周囲を見回した。
「……椿」
小さく呼んだ瞬間、空間がみしり、と軋んだ。
場所を見極めて、数歩、下がる。
みしみしと、ぱきぱきと、何かがひび割れる音が響く。
十秒も経たず、先ほど咲耶が立っていた床に、亀裂が生じた。その中央から、にゅるり、と、白く長いものが身をくねらせて入ってくる。
見た目は蛇に似ている。だが、目はない。最初からその器官そのものが存在しないように、つるりとなだらかな頭部を持っていた。
まだ胴が抜け切っていないところで、動きを止める。そして、大きく口を開いた。その内部は、塗りこめたような真紅だ。
指で摘めそうなほど細かったその胴が、膨れた。すぐに手首ほどの太さとなり、人の胴ほどにもなり、そして両手で抱えても余るほどに。
破砕音は、当初と比べるまでもなく、大きい。
そして面積を広げていた亀裂はついに咲耶の頭上にまで届き、次の瞬間、暗闇が砕け散った。
じりじりとした熱さが、肌を焼く。
振り返ると、ほんの二メートルほど後ろに廊下を塞ぐ形の扉があった。礼拝堂に通じているものだろう。床との隙間から、赤い光がちらちらと揺らいで見える。
咲耶は眉を寄せ、しかしすぐに視線を戻した。未だ身体の残りを晒けだすこともなく、狭い通路にみっしりと詰まっている式神を半ば呆れて眺める。
「もういい。還れ」
ぺたりと床に腹ばいになると、〈椿〉はそのまま床にめりこむようにして消えた。今度は床板を破壊はしていない。
廊下の突き当たりにある窓から、ぼんやりと外の光が入ってくる。
今立っている右手には、上へ向かう階段があった。その先に、二つばかりの扉を挟んで、更に暗がりがある。
あれが、地下へ降りる階段だろう。
一歩踏み出して、咲耶は口を開いた。
「終わったぜ、弥栄。地下二階だったか?」
『ああ。でも、ちょっと遅かったみたいだ』
流石に緊張して、ドアを見据える。
不器用にがちゃがちゃとしばらく音を立てていたドアノブはやがて何とか回り、ゆっくりと押し開けられていく。
のそり、と姿を見せたのは、薄茶色の肌をした大男だ。
『何があった?』
こちらも緊張を隠せず、咲耶が尋ねてくる。
「ゴーレムが入ってきた」
続いた沈黙に気づいて、補足する。
「土で作られた人形みたいなものだよ。大人よりちょっと大きいサイズだけどね。杉野が作ったものだろう」
『話していて大丈夫なのか?』
やや小声で問いかけられる。
「ゴーレムは自分で考えて動くものじゃない。命令されたことしかできない。僕がここで、阿波踊りを踊っていたって気にしないさ」
『踊れるのかよ』
「ものの例えだよ」
あっさりと言うが、紫月の視線はゴーレムから離れない。
のろのろと近づいてきた土人形は、手を紫月に向けて延ばしてきた。
平たい楕円形の手に、親指らしき突起が一本ついている程度の造形だ。顔も、適当に丸めた域を出ない。
意外と不器用な男だった。
その拙い手で紫月の腕を握ると、ゆっくりと引いてきた。
抵抗は無意味だ。ゴーレムは手加減できない。幾ら何でも腕を千切られても大丈夫かどうか、紫月は試してみたくはなかった。
「僕を連れて行きたがっているみたいだ」
『杉野のところにか』
「多分ね」
『行くんだな?』
半ば予想していたように、続けられた。
「ああ」
紫月もあっさりと返す。
杉野と会わなくては、もう、何も始まらないのだ。それが紫月一人きりであっても。
しかし、今連れてこさせようとするなら、紫月を礼拝堂から連れ去った後に、一旦この部屋に入れておいたのは何故だろうか。まさか、何もなくなった部屋を見て、養い子が家出を後悔すると期待するほど甘くはない筈だが。
単純に、使える配下が少ないだけかな、と、結論づける。
人間の配下は紫月を捜して街をうろうろしていただろうし、呼び出した悪魔は、昨夜かなりの数を滅せられている。
杉野はさぞや不快と苛立ちを覚えていただろうと考え、紫月は暗い笑みを浮かべた。
下らない楽しみだ。仕方がない。
自分は、下らない人間でしかないのだから。
『呪符は見えないように持っておけよ。俺も、そっちの様子を聞いておきたい』
あくまで現実的に指示されて、また違う笑みを浮かべる。
「判ったよ」
そうだった。一人きりだという訳ではない。
再びドアノブを掴み、回すことに幾度も挑戦するゴーレムの傍で、紫月は呪符をしまいこんだ。
階段の踊り場まで下りて、下の様子を伺う。
呪符を通して、がしゃん、と扉を閉めるような音が聞こえてきた。と同時に、ざざ、と、ノイズが走る。
「弥栄。聞こえるか?」
『ああ』
訝しげな返事も、波長が合っていないかのように変化している。
「杉野の結界の影響かな……。こっちは聞こえにくい」
『そうなのか。何とかなりそうか?』
疑問も差し挟まずに問い返された。眉を寄せて、言い淀む。
二人で行動する時間が経つにつれ、紫月はこちらの要求はかなりあっさりと聞くようになってきている。咲耶の主張したい、または避けたい事象が判ってきたのだろう。
確かに、適応力は高い。
そして、時間はない。彼が杉野のところへ着くまで、もう何分もないだろう。
咲耶が腹を括る。
「この呪符は、お前と俺の情報を書きこみ、対象を限定してる。それが妨害されてるんだ。俺の名前を呼んでみろ」
『守島』
だが、ノイズは変わらない。
「そうじゃない。下の名前の方だ。覚えてるだろ」
『いいのか? 君は、その』
ややためらわれて、むっとする。
「非常時にまで駄々こねるほど子供じゃねぇよ。そっちの方が精度が上がるんだ。いいから呼べって」
『……咲耶?』
ざらついた音が、消える。安堵に、小さく吐息を落とした。
「よし。本当は、口に出す必要はないんだ。ただ、これからしばらくは、俺のことをそっちで認識するようにしておいてくれ」
『判ったよ、咲耶』
僅かに茶化すような返事に、少年は独り毒づいた。
廊下の突き当たりの、観音扉。
ゴーレムがそこに向かっていることがはっきりして、紫月が口を開く。
「咲耶」
『何だよ』
少しばかり拗ねたような声を、無視する。
「行き先は、地下二階の礼拝堂だ。階段を降りたところの廊下を真っ直ぐ進めば着く。杉野がいるなら、僕はしばらく君に話しかけられない」
『判った。慎重にな』
しかし、咲耶は即座に態度を切り替えて返してきた。
「ああ」
短く呟く。
あとほんの少しで、扉が開く。




