第四章 01
反射的に、背後を振り仰ぐ。
木々の梢と、事務棟の建物に遮られてはいたが、それでも夜空を赤い光が照らしているのがはっきり判る。
敷地の内外で、人々の悲鳴や怒声が聞こえ始めた。
「織原!」
紫月の声に、織原はびく、と身体を震わせる。突然我に返ったように、周囲を見回した。
「ぼんやりするな! あれは宿泊棟だ、手遅れにならないうちに急げ!」
「は、はい!」
与えられた命令に、裏返った声で返すと少年は慌てて立ち上がり、二人の傍を走り抜けた。
その姿が消えるまで見送ると、紫月は踵を返す。
「行こう。もう、杉野を放っておけなくなった」
その足は、礼拝堂へ向いている。
確かにこの騒ぎでは、もう教主に会うことはできまい。かといって、事態が落ち着くまで待つこともできないのだろう。
〈火竜の棘〉は、先ほど全て使ってしまったようだし、残っていたとしてもそれを動かすことができる織原はもうここにはいない。この場における脅威は、もうないと見ていい。
溜息をつくと、咲耶は連れの隣に並んだ。
「手」
「何が」
「見せてみろよ。怪我したんだろうが」
「大した怪我じゃない」
左手を隠すように身体の陰に回し、紫月は更に大股で進んだ。
その後ろ姿を目にして、苦い表情になる。
合わない。
どうしたって、この少年と上手くやっていける自信がなかった。
事態が落ち着いている時ならともかく、気が急いている時に、周囲を見るだけの余裕がないのだろう。それは判らなくもないが。
しかし、そんな状態の彼と補い合うような行動が取れるとは、とてもじゃないが思えないのだ。
昼間に聞かされた真弓の言葉に対し、ぶつぶつと文句を呟きながら、後を追う。
礼拝堂に近づくと視界が開け、直接宿泊棟が見えるようになる。
最上階の一角が、激しい炎に包まれていた。
「あの辺に、爆発しそうな火元ってあるのか?」
「三階は個室があるだけだ。給湯室もない。煙草の不始末程度では、あんな勢いで突然燃えはしないと思うよ」
やや固いものの、呆れた口調で紫月が返してくる。
それにしても、杉野は火に関連した魔術が好きなんだな、と、咲耶は微妙にずれた感想を抱いた。
事務棟から数人が出てきて、わあわあと騒いでいる。一階のエントランスから、ばらばらと人が逃げ出してきていた。
「この時間なら、まだ、部屋にいる人は少ない。眠りこんでいて、逃げ遅れるってこともないだろう。人への被害はさほど大きくはならない。……だけど、ここまで手段を選ばなくなっている杉野を、これ以上好きにさせておきたくないんだ」
暗い目で、紫月は呟いた。
相対的に、礼拝堂の周辺は暗い。人目を引くことなく、二人は礼拝堂に辿りついた。
正面の扉から、内部へ入る。
そこはがらんとした空間だった。板張りの床には、椅子の一つも置かれていない。
勾配屋根の形そのままに天井は作られていて、その二階分の高さが、より空虚さを強調していた。
部屋の突き当たりには、数十センチほど床が高くなっており、説教壇のようなものが置かれている。その奥の壁には、キリスト像が掲げられていた。
庭に面して背の高い窓が連続して設けられ、そこから差しこんでくる月の光は、やや炎の色を帯びていた。
じゃり、という音に、紫月が片足を上げる。
靴底に泥がついていた。
先ほど、彼が血を流したことで生じた、泥だ。
無言で見てくる咲耶に気づき、ややばつが悪そうに紫月は微笑みかけた。
「先刻は悪かったよ。でも、本当に何ともないんだ。ほら」
左手首を晒け出すように、示される。
帯のように広がった、乾いた血液で汚れた手首は、しかし、掠り傷すら見当たらない。
咲耶が、眉を寄せる。
「僕も、特異体質、って言うのかな。傷の治りが、異常に早いんだ。内臓に達する傷でも、何時間かで治る。あの程度の怪我なら、塞がるまで五分もかからない」
……思えば、予測できないことではなかった。
昨日、紫月が借りた部屋から飛び降りた時に捻ったという足首。その後、走り続けている間に、彼が痛みを訴えたことはない。
そして、咲耶の部屋で、ファクシミリに張られた結界に触れてしまった時。
あの時、赤みすらみえなかった肌が、実際は焼け爛れた端から再生していたのだとすれば。
彼の声には、僅かながら緊張が感じられた。
咲耶自身、普通ではない能力を持っている。だが、だからと言って、紫月のことを受け入れて貰えるか、ということは別問題だ。
睨みつけるような強い視線で、咲耶は口を開いた。
「だとしても、だ。痛みが全くない訳じゃないだろう。小さなものだって、痛みってやつは集中力を削ぐ。そう簡単に傷を作るもんじゃない」
窘める言葉に、一瞬きょとん、と瞬いた。
「……気をつけるよ」
苦笑して、手を下ろした。まあ、夏服でよかったな、と、妙に場違いなことを完全防備の少年は呟く。
「よし。じゃあ、行こうぜ」
外の騒ぎは、室内までは聞こえてこない。
慎重に、二人は礼拝堂を横切った。
部屋の片隅に、一枚の扉がある。そこへ真っ直ぐ向かう二人の足元が、ふいに、ぐにゃりと歪んだ。
文字通り、敵の掌の上という場所で、咲耶は油断などはしていない。
視界の隅に違和感を感じたと同時、それに向き直っている。
足元からせり上り、鋭い先端を打ちこんでこようとしたのは、漆黒の影だ。
咲耶は、ずだん、と音を立ててその根元を踏みつけ、迫る切っ先を片手で掴み取った。
その靴底から、手袋が触れている部分から、じりじりと焦げるような音と悪臭が立ち昇る。
咲耶は、小さく口の中で呟きながら、無造作に腕を引く。ぶちぶちと、まるで濡れた繊維を引き千切るように、その影は裂かれていった。
「……〈虚空にて栄光を叫べ〉!」
聞き慣れない言語が響く。視線を向けると、背後に立つ紫月が一点を見据えていた。その先で、ぱりぱりと小さく放電する網のようなものが広がり、ぎゅっと収縮して、消えた。
少しばかり息を荒げて、紫月は振り返った。咲耶と視線が合って、僅かに怯む。
「……君の手から零れた雑魚の始末ぐらい、できるよ。手を組む、って言うのは、つまり、そういうことだろう?」
その言葉に、咲耶は意表を衝かれる。
四方八方から襲い来る、様々な種類の敵を、たった一人で瞬時に、的確に、確実に殲滅させなくてはならない。
この陰陽師は、幼い頃からそういう育成をされていた。そのことに関して、疑問を覚えたこともない。
なのに、この少年は。
紫月の手が、小さく震えている。
昨夜、ナガタニの社屋に入った時には、彼は殆ど術を使ったことがないと言っていた。
直接、しかも養父の放った敵に対したのは、これが初めてだろう。
ぽん、と、咲耶がその肩を叩く。
「確かにそうだ。頼りにしてるぜ」
手の下で、緊張が僅かに緩んでいく。
長い黒髪の少年は、憚るように顔を寄せ、声を落とした。
「一つ、コツを教えてやるよ。呪を唱える時は、あまり大きな声を出すな。自分が何をしようとしてるのか、相手に手の内を晒すようなもんだ。大抵の呪は口に出しさえすれば発動するもんだ。相手に聞こえなくたって構わないんだからな」
思えば、この陰陽師は、今まで目にしたところでは、殆ど口の中でしか呪を唱えていない。
「覚えておくよ」
真面目な表情で頷く紫月に、にやりと笑む。
しかし、勿論、この程度の妨害でことが済む筈がない。
紫月が奥の廊下へと続く扉を開き、慎重に内部の気配を探る。
ここは彼が住んでいたところだ。先頭を進むことを、咲耶はなんとなく譲っていた。
そして、紫月が暗い廊下へと踏みこんだ瞬間。
音もなく、戸口は燃え盛る炎に塞がれていた。
今まさにそこを潜ろうとしていた咲耶が、大きく飛び退く。
「またかよ!」
罵声を放つ。その周囲をぐるりと囲むように、炎の壁が疾った。
「自分が住んでんのに、何考えてんだ……」
遠くから、低い呻き声が漏れた。
「弥栄!?」
慌てて声をかけるが、返事はない。ばたん、と、扉が閉まる音だけが聞こえた。
舌打ちをして、口を開く。
「檀!」
名を呼んだ瞬間、その場に降り立ったのは、金毛四尾の狐だった。
基本的に、咲耶は式神を補助的な役割でしか使役しない。探索や陽動、移動手段、収納などの用途だ。
そして、もう一つ。
〈檀〉は、顔を上げて高く鳴く。
炎の勢いはみるみるうちに弱くなった。うっすらと、閉じられた扉が見えてくる。
妖としての狐は、炎を自在に操る、とされている。咲耶は、その場の〈気〉を支配し、自分にとって有利に変化させるためにも式神を使役する。
目論見通り、五センチ程度の高さになった炎の帯を駆け抜け、扉をもどかしげに押し開けた。その奥の廊下は、暗い、ひんやりとした闇に飲まれている。
一歩踏みこみ、扉を閉めた。慎重に歩きだしながら、ジャケットのポケットから、細長い一枚の紙を取り出す。
「弥栄。聞こえるか?」




