第三章 06
裏庭はただでさえ、暗い。事務棟の窓から漏れる光が、ぼんやりと三人を照らしていた。
「どちらに行かれていたのですか、紫月様」
僅かに非難するような響きを帯びた言葉がかけられる。
「僕がどこに行こうと、お前に報せておかなきゃいけない理由があるのか?」
その辛辣な言葉に、僅かに咲耶は眉を上げた。
「いえ、そんなことは……。でも、杉野様も酷く心配されていて、それに他の人たちも」
「だから?」
びく、と、織原は身を竦めた。この初対面の少年が気の毒に思えて、咲耶はやや視線を逸らせる。
「と、とにかく、お戻りください。教授から絶対にといいつかって」
「あとでな」
さらりと返されたところで、織原は言葉を切った。きょとんとして紫月を見つめている。
「少し、教主様と話すことがある。それが終わったら、杉野に会いに行ってもいい」
「教主様に……!?」
織原は、その言葉に過剰に反応した。
「駄目です、紫月様! どうか、教主様にはお会いにならないでください!」
「織原?」
縋るように言い募る少年に、流石に少しばかり訝しげに紫月は声をかける。
拳をぎゅっと握って、織原は一歩前に出た。
「僕が、紫月様が家出してしまったと教主様に言ってしまったんです。教主様は大層心配されて、教授と直接お話までされていて。……教授は、そのことに酷く怒ってしまわれて。お願いです、これ以上、杉野教授のご機嫌を損ねるようなことは」
「なんだ。結局保身か」
織原が目を見開く。
紫月は、既に侮蔑を隠そうともしなかった。
「いつだって他人の顔色を伺ってばかりで、虚しくはないのか? 杉野や僕が、本当にお前のためになることを一つだってやってきたと思っているのか? 何度も言ったはずだ。こんなところからは出て、家に帰れ。親が許さないのなら、自分で生きろ。お前は子供じゃないんだろう」
自ら家を出た、そして自分よりも二年も前に同じことをした咲耶と出会った紫月は、容赦がない。
だが、それも無理はないな、と咲耶は思う。
当初はここまでずけずけとものを言う紫月に呆れたりもしたが、この織原という少年は、本当に我というものがない。
保護者に見捨てられるまいと懸命になるのは、まあ、義務教育の終了までにしておいた方がいいだろう。
そう。咲耶自身の判断は、紫月よりも更にシビアだ。
この少年と、おそらくはかなり長い間接点があったと思われる紫月に、咲耶はむしろ同情さえし始めていた。
だが。
「……お願いです。僕は、貴方を傷つけたくはないんです」
そう告げて、織原は、握りこんでいた拳を開いた。
隠されていた指先には、赤い金属質の光沢を放つ、奇妙な器具が取りつけられている。
「それは……」
紫月が息を飲む。
「何だ?」
のんびりと、咲耶は問いかけた。
「〈火竜の棘〉の、起爆装置だ」
流石に無言で、咲耶はしげしげとそれを見る。
金属製の、指ぬきのような形状だ。爪から第一関節までの長さで指先を覆っている。表面がでこぼことして見えるのは、文字のようなものが刻まれているせいか。
「今、この教団に設置されている〈火竜の棘〉は、全てこれで爆破することができるんです。貴方が、おとなしく教授のところに戻ってくださったら、これは使わなくても済むんですから」
真摯に懇願する織原の表情には、しかし僅かに愉悦が滲んでいる。
今まで敬い、仕えてきた紫月の生殺与奪の権を握った、ということへの、優越感が。
そして、その威力を知っている紫月は、迂闊な行動には出られない。
立場が逆転した、と思われた時に。
「なるほど。これで、事態が簡単になったってもんだよな」
軽く、咲耶は言い放った。
「……君は、何を言いたいんだ?」
できる限り、織原の動きから視線を外さないようにして、紫月が問いかける。
「その指先の玩具を使わなきゃ、先刻のは爆発しないんだろ? 腕は二本しかないんだから、二回で済むさ」
「お前は……、何を言っている?」
不穏な言葉に、織原が悲鳴じみた声で問い質す。
肩を竦め、守島は口を開いた。
「もっと穏便な解決方法なら、とっくに弥栄が提案してたよな? それを蹴って、実力行使に出ようとしたのはあんただ。じゃあ、その結果がどうなろうと、全部自分の判断ミスだということで納得すべきじゃないか?」
この先に出る結果は全て織原の判断ミスの方向なのか、と、少し呆れて紫月は思う。
全く、彼の理論は、いつだって苛烈に自己責任を課してくる。
一歩、咲耶は前に出た。
静かな視線で睨み据えられた織原は、恐慌寸前だ。
「……待ってくれ、守島」
連れの行動が、おそらくは脅しだとは思っていたが、やや自信が持てなくなって、溜息混じりに制止する。
「あ?」
もの凄く不本意そうな声が返ってきた。
「君の言いたいことは、大体察しがつくよ。これは自分の仕事だからとか言うんだろう?」
「よく判ってんじゃねぇか」
皮肉げに返してくるのに、辛抱強く続ける。
「彼に危害を加えたら、相当騒ぐぞ。目立つのは都合が悪いんじゃないか?」
「加えなかったら何とかなるってのかよ! それもこれも、全部こいつが」
織原に向けて、咲耶が腕を大きく振る。
それは、単純に、つい動作が大振りになってしまったというだけだったのだが、この得体の知れない相手に怯えていた織原は過敏に反応した。
「…………ッ!」
声にならない悲鳴を上げると同時、両手の指先を勢いよく摺り合わせる。不快な金属音が響いた瞬間に、彼の前方の空気が一瞬で熱を孕み、収縮し、そして膨張した。
木々の枝が触れ合って、不吉な音を広げる。
熱風にじりじりと肌が焼けて、数歩、後じさる。
再度巻き上がった土埃が、完全に視界を隠している。
……こんなつもりではなかった。
やむを得ず、紫月に対して脅しをかけはしたが、本当はこんなことをするつもりはなかった。もう一年近くもの間、尊敬していた相手なのだから。
杉野と紫月が揃っていれば、何も恐れることはなかった。彼らの庇護の下で、織原は安全に、安心して暮らすことができていたのだ。
彼らに仕えることが、自分の喜びだった。
だから、紫月がここを出て行ってしまったから、全てが崩れてしまったのだ。
最初に紫月を止められなかったことで、杉野は酷く不快さを表した。
連れ帰るように、と送り出した人々が、悉く失敗して戻ってくるごとに、その不機嫌さはいや増した。
不安に苛まれていた織原は、ふと顔を合わせた時に、そのことを教主に零してしまったのだ。
教主に紫月の不在を知られてしまったことで、杉野の怒りは織原に向けられた。
永遠にも思える叱責の後、彼は、寛大にも少年にそれを挽回する機会を与えてくれた。
無論、織原はそれに飛びついた。だからと言って、彼の忠誠心が利己心に劣っていた、という訳ではない。彼は普段から、二人のためであれば何だってするつもりでいたからだ。
「あいつ、が……」
土煙は、陽炎にゆらゆらと揺らいでいる。
「あいつが、悪いんだ……!」
紫月と共にいた、長い黒髪の少年。
学校の図書館へ、紫月を連れ戻しに行った大人たちが邪魔されたと言っていた、長い髪のガキに違いない。
あいつが唆したせいで、紫月は帰ってこないのだと、杉野は教えてくれた。
この〈火竜の棘〉は、威力は抑えてあるから、万が一にも紫月に被害はないと。
だが、今目の当たりにした〈火竜の棘〉の破壊力は、彼の想像以上だった。
少なくとも、このど真ん中にいた紫月が、無傷でいる訳はない。
固く握り締めた拳の震えが、止まらない。
僅かに風が通り、土埃が薄れ始める。
「誰が悪いんだって?」
声が、その向こう側から放たれた。
ぼんやりと、人影が見えてくる。
現れたのは、数秒前と全く変わらぬ姿の、少年たちだ。
黒い革のジャケットを羽織った少年は、手傷を負った様子など微塵も見せずに、軽く、指を鳴らした。
そして、紫月は、ただ、暗い瞳でこちらを見据えてきている。
織原が、思わず、数歩後退する。
「さて、と。今度はこっちの番だな」
咲耶は楽しげに笑んで、ざっ、と足元を軽く均す。
「守島。彼は僕に任せてくれ」
「は?」
そこに短く告げられて、眉を寄せた。
「織原は、君の仕事の範疇じゃない。彼がやったことは、僕の責任だ」
「あのな」
勿論、そんな理屈は通用しない。これは、絶対に、咲耶の仕事で起きた事態だ。
しかし、紫月は一顧だにしなかった。
「あと一つ。これから何があっても、一切邪魔はしないでくれ」
もう、先ほどまでしていたように、口先で咲耶を言いくるめようとはしない。それどころか、視線を向けることすらしない。彼の意見を聞くつもりなど、全くないのだ。
苦々しげに、その横顔を見つめる。
ほんの少し前、〈火竜の棘〉が一度に発動した瞬間、咄嗟に張った結界は完璧だった。爆風は彼らの髪の毛一本揺らさず、僅かな熱気も肌を焦がすことはなかった。
些細なことではあったが、気分をよくしていた咲耶と違い、紫月の機嫌は最悪になっていたようだ。好戦的傾向が増大していた点については、同じようだったが。
溜息をひとつ落として、一歩退く。
これは、紫月が乗り越えなくてはならないことなのだろう。
一方で、得体の知れない相手ではなく紫月と対峙しなくてはならない、ということが、一体自分を有利にするのか不利にするのか計りかねて、織原はおどおどとこちらを窺っていた。
「織原」
手を延ばせば触れることができる距離まで近づいて、声をかける。
「お前は、僕に対抗できると思っていたのか? そんな玩具を与えられたぐらいで消えてしまうような誓約だったのだと?」
「紫月、様。僕はただ」
「お前のケチな誓約を捧げた相手は、杉野なのか?」
紫月の瞳が、侮蔑の色に染まる。
「お前やお前の家族の下らない願いを叶えてやれたのは、杉野の技量だとでも? お前の父親が順調に事業を拡大できているのはどういう理由だと思っている? お前が、自分の実力では望むべくもない大学に合格できたのは、地道に努力を積み重ねた訳じゃないことぐらい、お前が一番よく知っている筈だ。お前たちの服従が帰する相手は誰だ? 儀式を施した杉野か? 莫迦莫迦しい。お前の魂に刻印された名前を、忘れることができるとでも思っていたのか?」
立て続けに発せられる言葉の一つ一つに、織原の顔が歪む。
紫月は、両手を胸の辺りまで静かに上げた。
「流れよ。〈精霊王の剣〉」
その言葉を唇に乗せると同時、右手の人差し指を、すっと左手首に走らせる。
次の瞬間、鮮血がぼたぼたと大地へ滴り落ちた。
一瞬、動きかけた身体を自制心で止める。紫月は、邪魔をするな、と言ったのだ。特に激昂した様子でもない。自分が何をしているか、弁えている筈だ。……多分。
しかし、織原の反応は予測を大きく裏切った。
目を見開き、流れ落ちる血を凝視している。やがて足から力が抜け、がくん、と地面に膝をついた。
それでも、視線だけは紫月から離れない。
「答えろ。お前が、真に仕えるべき者の名を」
痛みなど一切感じていないように、静かに、少年は促した。
織原の口が、言葉を発しようとしてか、薄く開く。
だが、次の瞬間、掛け値なしの爆音が夜空に響き渡った。




