第三章 05
聖エイストロム教団。
夕暮れ時の、藍から茜へと移り変わる空を背に、その建物は聳え立っていた。
周辺はきちんと刈りこまれた生垣で囲まれている。正門から入ったところには広い庭。芝生や薔薇の茂みは入念に手入れされ、小道や駐車場にはテラコッタが敷かれている。
その西側にある、最も大きい建物は宿泊棟。三階建てで、信徒が寝泊りし、食事を供する食堂もここだ。
そして、正門から真っ直ぐ奥に入った北側には、事務棟。教団の運営に関わる作業はこちらで行われる。教主も、寝起きする以外の時間帯はほぼここにいる。尖塔のある二階建ての建物だが、面積はさほど広くはない。
そして庭を囲むように東側に配置されているのが、礼拝堂だ。
二階分の高さを吹き抜けにした、木造の礼拝室。その奥には、祭具を保管している倉庫や控え室がある。礼拝などに使われる時以外は、基本的に人気はない。
二階に通じる階段とは別に、人目を避けて設けられているのが、地下に降りる階段だ。
杉野は、大学に行っている以外の時間を、ほぼそこで過ごしている。食事すら自室に持ってこさせることも多い。
「裏門から入って、事務棟に入りこもう。杉野はまずそっちには来ないし、奴の配下は、僕らを追いかけて殆どが出払っている筈だ。僕が教主様に会いたい、と言って訪ねても、不審に思う人はいないだろう」
紫月が提案した通り、彼らは裏門へと回りこんだ。
それは、敷地内の北東の角に近い。どちらかと言えば礼拝堂の傍だが、それだけに人目にはつかない。
そして、彼らは、もう十分ほどその裏門の外に立っている。
「……まだ行けないのか?」
苛立ちを隠し損ねた声音で、紫月が問いかけた。
「いや……。何だこれ」
当惑して、小さく返す。
「この辺り、一切防御の呪が張られてないぞ。本当に、杉野はここにいるんだろうな?」
ちょっとした違和感はある。咲耶が触れ慣れていない流儀で聖別された、気配。
ここが宗教施設であるなら、それがあるのは、まあ当たり前のことだ。
だが、通常、術師が厳重に施すであろう自己への防御。それが、この地には全く感じられない。
あまりにも無防備だ。
「君が何を気にしてるのか判らないし、杉野はひょっとしたら外出中かもしれないけど。でも、ここは普段からこんな感じだよ」
「マジか! 何でだ! あり得ないだろ!」
紫月の説明に、立て続けに拒否感を表明する。
「確か独学で身につけた、って言ってたしなぁ……。ひょっとして、今まで一度も攻撃されたりとか呪い返しが来たりとかしなかったのか。呪殺までやってて、どんだけ幸運だ。いやいやいやないな。あり得ない。うん。弥栄はうちに張ってた結界も認識できなかったし、ひょっとしたら普段ここに張られてたのも単に鈍感で気づかなかっただけかもしれないし。とすると、今俺が感知できないのは罠か……」
「何だか色々失礼なこと言われている気がするんだけど」
「気にするな」
否定もせずに言い切ると、吐息を漏らす。
「まあ、ないものを捜してても仕方ないな。弥栄」
軽く、視線を向ける。待ちかねたような表情を浮かべる少年に、小さく苦笑した。
「お前に、渡しておきたいものがある」
裏門に鍵はかかっていなかった。ゆっくりと、裏庭を進む。
が、事務棟までもう少し、となったところで、咲耶は足を止めた。
「誰かいる。あの茂みの奥だ」
頷いて、紫月は先に立った。慎重に、茂みの向こうを透かし見る。
「……教主様?」
小さな呟きに、頭上を見上げて立っていた男は、振り向いた。
「紫月くん? 帰ってきたのか」
少しばかり驚いた表情を浮かべ、向き直る。
これが、教団の教主。有馬。
白いワイシャツに、明るいグレイのスラックス。上着とネクタイはしていない。髪にはやや白いものが混じり、五十を過ぎた頃、と聞いている年齢にしては皺も多い気がする。
だが、彼から悪意は全く感じない。
「教主様、こんなところで何を」
まさかここで遭遇するとは思っていなかった。戸惑う紫月の言葉に、小さく笑む。
「君に会えるかと思ってね」
「覚えていないかい? この木。君が昔、これに登って一晩降りてこなかったことがあっただろう」
「いや、あれは小学校に入る前のことじゃないですか」
懐かしげに傍らの樹木を見上げる有馬に、やや肩を落とし、紫月は力なく返す。
「藤田さんが大騒ぎしていて、本当に大変だった。三回目に迎えに行ったときに、ようやく降りてきてくれたがね」
「杉野……、さんは顔も見せませんでしたけどね」
ぽつりと漏らした言葉に、教主は痛ましげに眉を寄せた。
「紫月くん。先生の手は、本を持ち、教え導く手だ。木登りには向いていない。だからと言って、先生が君を愛していないという訳ではないのだよ」
「いえ、すみません、そういう意味じゃないんです。だから、もう、その話は」
聖職者というものは、ある意味とても質が悪い。教主を制止しながら、紫月は背後に視線を流す。咲耶は至極真面目な表情を保っていたが、連れは更に胡散臭そうに睨み返してきた。
「……そちらは?」
今気づいた、というように、有馬が尋ねる。
「その、僕の、友人です」
「ああ。なるほど。紫月くんがお世話になったね。ありがとう」
教主はその紹介を、杉野から聞いた、紫月を泊めてくれているという友人だと捉えたのだ。柔らかく、礼を述べてくる。
「あ、いえ、はい」
不意打ちすぎて、うっかり色々と肯定する。紫月の視線の温度が、更に下がった。
「実は、教主様にお話したいことがあって」
「私に?」
だが、冷静さを装って告げられた紫月の言葉に、驚いたような表情を向けた。
教主から、警戒心を向けられてはいない。まるで。
人がいい、という評価を再度思い返す。
これは、説得するのに手がかかるかもしれない。杉野への信頼感、共に過ごした十数年を覆せるかどうかだ。
「何かね、お若い人」
「……人に聞かれると困るんです。どこか、僕たちだけでお話できませんか」
紫月が促した。ふむ、と呟いて、踵を返す。
「ならば私の仕事場に行こうか。人払いをしておけば、誰も」
言いかけた言葉に、電子音が被る。慣れた手つきで、教主は胸ポケットから携帯電話を取り出した。
「私だ。……電話?」
眉を寄せ、手短に数語を交わして、すぐに電話を切る。
「すまない、大事な電話が入ったようだ。折り返さないといけないので、しばらく待っていてもらえるだろうか。……そうだな、ラウンジにいるといい。二十分ほどしたら、部屋に来てくれるかね」
紫月が頷くのを確認し、教主は急ぎ足で事務棟の表玄関へと向かって行った。
「……何か感想でもあるのか?」
「俺が?」
肩を竦め、紫月の隣に並ぶ。じろり、と見返してくるのに口を開いた。
「ラウンジ、って?」
「宿泊棟の一階にある。食堂に隣接してて、信徒の方とかが交流する場になっているんだ」
だが、あまり人の多いところに行きたくはない。
「二十分ね……。しばらくこの辺で時間を潰していればいいか」
とりあえず、教主と接触して話ができるところまでは漕ぎつけた。説得できるかどうかは、かなりの賭けではあるが。
とにかく人目を避けようと、事務棟の裏庭へ足を向ける。もう随分と空は暗くなってきていた。
ふらふらと、木々の間を進む。
小さな違和感を覚えたと同時、咲耶は声を上げた。
「退がれ、弥栄!」
同時に、自分は一歩大きく踏みこむ。
次の瞬間、彼らの間に開いた空間で、空気が圧縮し、そして破裂した。
熱を持った風が、吹きつける。
舞い上がった土が、小石が身体を打つ。
幸い、二人とも長袖の服を着ている。咄嗟に顔を庇ったおかげで、被害はさほどでもない。
土埃が治まりかけたところで透かし見ると、ほぼ平らかだった地面に、拳大の窪みが幾つも生じていた。
爆発音はしなかった。なのに、この威力だ。
歯を食いしばり、周囲に視線を走らせる。
「動くな、守島」
緊張した声で、紫月が警告する。
「こっちの居場所がばれてる。早いところ移動しないと」
一旦逃げるか、むしろ人のいるところに向かうか。
だが、紫月はそれを拒絶した。
「駄目だ、動くな。これは、〈火竜の棘〉だ」
まじまじと、咲耶が西洋魔術師を見つめる。
「……何だその顔は」
「とりあえず、説明するならぼんやりとやってくれ」
頑ななまでに、己の扱う術以外を拒絶するその信条から、酷く無茶な要求をされて、溜息をつく。
「単純に言うと、周囲に炎のエレメントを撒き散らす道具だ。任意の条件を満たすと、発動するようになってる。作る為には知識と技が必要だけど、できあがってしまったものは誰にでも扱える。君にだってね」
付け加えた一言で、咲耶は更に嫌そうな顔になった。
「仕掛けられた場所は判るか?」
「簡単に判るようなら、罠の意味はないだろう?」
皮肉げに返されて、舌打ちする。
「攻撃範囲はどれぐらいだ?」
「ものによるけど……。最大で、直径三メートルってところかな。先刻のはそれほどでもなかったから、あまり精度がいいものは作れていないのかも」
即座に、咲耶は決断した。
「よし。上を行こう」
「上?」
「空だ。昨日、二回も飛んだだろう」
勿論、あの純白の鳥の姿をした式神を忘れた訳ではない。だが、紫月は一瞬息を詰めた。
「正気か!? 空気の動きに反応するかもしれないんだぞ!」
「危険性は把握した。あの程度の威力なら、俺の結界で充分防げる。それとも、お前は、杉野がここに直々に首輪をはめにくるのをおとなしく待ってるつもりなのか?」
嫌味を言われて、沈黙する。確かに、いつまでもここから動けないなど、愚策だ。
だが、決断できない。
杉野から向けられる害意に、身が竦む。
実際のところ、迷ったのはほんの十数秒だった。
だけど。
「……紫月様」
細い声が、かけられる。
木々の下、既に深くなりかけた闇からひっそりと姿を見せたのは、一人の少年だった。
「……織原」
小さく呟く紫月に、苦々しげに咲耶は言い放つ。
「ほら。早速、首に鈴をつけにきたじゃないか」




