第三章 04
扉を叩く音に、思考が乱される。
それはおずおずと、しかし断続的に響いた。
「何だ」
苛立って、短く返す。怯えの混じった声が聞こえてきた。
「あの、教授。教主様がお会いしたいと」
畏怖されるのも、服従されるのも快いものだ。だが、相手が自らの無能を隠す手段として使っては、それは逆効果になる。
小さく舌打ちする。が、拒絶はできない。
「判った。すぐ行く」
「いえ、ここで結構ですよ」
続いて聞こえてきた声に、目を見開く。慌てて扉に近寄り、開いた。
「教主様……」
無機的な、打ち放しコンクリートの廊下に立っていたのは、おどおどとこちらを見上げる織原と、悠然とした笑みを浮かべる、教主だ。
教団の主は、普段、あまり居住部へは入ってこない。
「変わらないですね。貴方は」
部屋の中を見渡されて、苦笑する。
「いや、お恥ずかしい。散らかっておりますが、どうぞ」
半身を引いて、教主を招き入れる。織原は廊下で、扉が閉まるまで軽く頭を下げていた。
杉野がいたのは、書庫である。部屋の中は何列もの書棚で区切られ、その棚にはみっしりと書籍が詰まっている。通路を半ば塞ぐように、更に本は積まれていた。
机は二台。パソコンのモニタ類が置かれたものと、そうではないもの。部屋の角の壁にそれぞれ押しつけられていた。どちらも、机の上は本と紙で埋もれている。
椅子は二脚あったが、片方で二台の机を兼用しているらしい。もう一脚は少し離れた場所に放置されていた。その上に積まれていた本や紙を、杉野は慣れたように机の上に移動させる。
どうぞ、と示された椅子に、しかし全く無頓着に教主は腰かけた。
「貴方の家に初めて行ったときを思い出しますよ」
微笑ましげに告げられる。
「あの時は私も必死でしたからね。数年かけて集めたもの、友人から譲りうけたもので、家の土台が傾きかけている、と大家に責められていて。その上、紫月を引き取るには、どうしてもあのまま住んではいられなかった。どちらも手放せない、とは、私も欲張りだったものです」
杉野も、懐かしそうに口を開く。
「その、紫月くんのことなのですが」
しかし、言いづらそうに切り出されて、内心気を引き締める。
「紫月が、何か」
「昨夜は戻ってこなかったようですが、どうしたのですか?」
「友人の家に泊まりに行っています。夏休みですし」
やや伏し目がちになって、答えた。普段なら杉野の言葉を疑わない教主は、しかし更に声を上げる。
「もう帰ってこないかもしれない、とも聞きましたよ」
舌打ちしそうになるのを、堪える。あえて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あれも今年で十七です。そろそろ反抗期でしょう。私を疎ましく思うことも、自然な成長の証しです。どこにいるのかは把握しておりますし、早く戻るようにと声をかけてもいます。教主様が心配されるほどのことではありません」
昨夜、教主のことを引き合いに出したから、ばれたのだろうか。ちらり、とそんなことを考える。
しかし、そんなことはない。この状況の原因は、ただ単に何者かの口の軽さからだ。
魔術を扱う身であるのに、彼は実に論理的であった。
教主は、まだ心配そうではあったが、頷いた。
「先生。いえ、杉野さん。紫月くんと貴方は、縁あって家族となったのです。その繋がりを大切にしなくてはなりませんよ」
「勿論ですとも、教主様」
そうだ、逃がしはしない。
あのような良質な実験体は、もう手に入らないのだから。
静かに扉が開くのに、慌てて顔を上げ、壁にもたれていた身体を起こした。
和やかな雰囲気で教主が現れたのに、ほっとする。
「織原。教主様をお送りしなさい。最近は物騒だからね、お部屋に着くまでお傍を離れないように」
「大袈裟ですよ、先生」
はい、と答えて、苦笑する教主の傍に寄る。
「送り届け次第、すぐにこちらへ戻ってくるように」
しかし、続けて投げられた命令に、まだ幼さの残る少年は顔を強張らせた。
熟睡はできなかったものの、ある程度身体を休めることはできた。割とすっきりした頭で、咲耶は厨房の奥の扉を開く。
「……何やってんだ?」
そして、思いもしなかった光景に小さく問いかけた。
知人は、ソファに座ってこちらを見上げてきていた。その足元に、ぐるりと雑誌や新聞の山ができている。おそらく、この店に置かれていたものだ。
「君があの本を読むな、って言ったから、暇を持て余していたんだ」
素っ気なく告げられる。
「少しは休んでおけとも言っただろ」
「僕がそれに従わなきゃいけない理由でもあるのか?」
不機嫌だ。
まあ、無理もない。彼は今、決定的に養父と対立しているのだ。いくら、以前から覚悟を決め、準備をしていたからと言って、緊張を解ける筈もない。
ましてや、何もしないでいる時間を耐えられるかどうか。
焦燥感は、募る一方だっただろう。
なるほど。荒削り、か。
一人、それなりに気分を切り替えてきた咲耶は、内心で納得する。
「もうすぐ出るつもりだが、行けるか?」
「いつでも」
すぐさま返ってきた言葉に頷く。
「一本、電話をかけてくる。戻ってくるまでには、この部屋は片づけておけよ」
紫月は、ほんの少し、ばつの悪い顔をした。
帰宅ラッシュ直前の電車は、さほど混んではいなかった。
規則正しい揺れが、乗客の眠気を誘ってくる。
「どこに電話をしていたんだ?」
しかし、その誘惑など微塵も感じていないように、紫月は隣に座る少年に尋ねる。
「客にな。一日放っておいたから、何かなかったかと思って」
「どうだった?」
「彼らに判る限りは、何もない。結界は今まで一切反応してないし、空気も電話越しでは荒れてはなかったから、多分無事なんだろう。お前を捕まえようとする方に集中してるのかもな」
「君もだろう」
短く指摘されて、眉を寄せる。
今のところ、〈榊〉もカルミアも追っ手を翻弄し続けている。居場所を誤認させている状態で、しかも昨日の今日だ。この二人の少年が教団へ直接乗りこむなどと、予想の外だろう。
そうであれば、と思っている。
「教団に行って、まずどうするんだ?」
続く問いに、胸の前で腕組みする。
「……正直、迷っている」
直接、杉野と対決するか。
それとも。
「教主に会ってみたくもあるんだが」
小さく呟いた言葉に、紫月が首を傾げた。
「教主様に?」
「結局のところ、問題になっているのは土地の件だ。宗教団体が引越ししづらい以上に、杉野は拠点を移しづらいだろう。だから、俺の依頼人に土地を売り渡すことを防ぐために、なりふり構わなくなってきている」
紫月には、昨夜、ナガタニの本社へ向かう徒然に、大雑把な説明はしておいた。守秘義務というものは勿論あるが、同行を拒めなかった以上、やむを得ない。二人の間に齟齬があっては、助手と紹介した依頼人たちにも不審感が芽生えてしまいかねないのだ。
「これが、教主の意向そのままだという可能性はあるか?」
今度は紫月が眉を寄せる番だった。
「確かに、土地に関して揉めていて、困ってらっしゃるとは聞いていたけれど。教主様はむしろ温和な方だから、どこかで折れてしまわれないかと心配する人が多かったな」
「うん。だから、杉野が何をやっているかを教主が知れば、あいつを教団から追い出すということも考えられる。そうなったら、残るのは純然たる商取引だ。後は当事者に任せればそれでいい」
「杉野は放っておくのか?」
非難するように、養い子は強く問いかけた。
咲耶は、ひらりと片手を振る。
「莫迦言え。この先の解決策と、奴が何をやったかは別問題だ。依頼人がこうむった被害と、俺が失くしたもの、全部。ぎっちりと償わしてやるさ」
「具体的にはどうするんだ?」
しかし、紫月は詳細を知りたがった。
「とりあえず、教主のところに忍びこむ。上手くいけば説得できるだろうし、駄目なら杉野の気を変えに行くだけだ」
「……つまり行き当たりばったりなんだな?」
僅かに呆れた声に、顔をしかめた。
「お前な、そうやって端的に物事を纏める癖をなんとかしろよ。大体、相手がいる仕事なんだぞ。こっちの都合に拘ってたら、流れについていけなくなる。臨機応変に対処しなきゃいけないんだ」
「間違ってはいないと思うけど」
「言い方があるだろ」
咲耶が言い募るのが訝しくて、促した。
「例えば?」
「……出たとこ勝負とか」
あまり変わらなかった。
流石にそう言葉に出すのは控える。
「なに、笑ってんだよ」
じろりと睨みつけられるのに、紫月は可能な限り穏やかに口を開いた。
「別に」




