第三章 02
食事も終わり、二人はやや手持ち無沙汰であった。
本来なら店の手伝いでもするべきところだが、かくまって貰っている身でもある。あまり、人目に晒されたくはない。特に、紫月は。
先ほど取り上げた文庫本をぱらぱらとめくる。
見たところ、大した内容ではない。さも大発見のように色々と書き立てているが、大抵の結論は疑問形で終わっている、よくある類の大衆向けの本だった。
これなら、目くじらを立てるほどでもなかったかもしれない。
とはいえ基本を譲るつもりは毛頭ないが。
「……あれ」
ふと思いついて、呟く。
訝しげに見返してくる紫月に問いかけた。
「お前、これ、買ってきたって言ってたよな」
しかしそれなら、マスターが知らせる筈だ。この部屋から外に出るのは、厨房を通り抜ける以外にはない。
ああ、と紫月は呟く。
「カルミアに買ってきて貰ったんだよ」
その返答に、目を見開く。
「どうかしたのか?」
「どうかもなにも! カルミアって言ったら、お前の使い魔だろう! あの、派手な鎧を着た」
「ああ」
「あんな目立つ奴を買出しに行かせるとか、一体何を考えてるんだ!」
咲耶の非難に、納得したように紫月は小さく笑んだ。
「それなら心配ない。彼は、あの格好で出かけた訳じゃないから」
無言で、しかし眉を上げて見返してくる相手に、続ける。
「カルミアの一番得意なことは、変化だ。どんな生物にだって化けることができる。鼠からドラゴンまでね。変化している間は、対象の能力も自分のものにできる。その本を買いに行ったのは、どこにでもいるただの人間だよ」
「そうか……。なら、いいが」
若干腑に落ちないものがあったが、頷く。
「君は、これからどうするつもりなんだ?」
しばらくして、暇を持て余したか、紫月の方から尋ねてきた。
「流石にちょっと疲れたからな。何時間か休んで、夕方ぐらいからまた動く。教団とやらの様子も見てみたいし……」
これ以上の被害をこうむることは避けたいところだが、このまま無理して動くよりも体調を万全にしておいた方がいい。
勿論、部屋を焼かれたことは怒っている。一人でいる時に、ひたすら罵詈雑言を吐いていたほどに。
生家を飛び出して、一年半。元々、ものに執着する人間ではないが、幾つかは想い出の品もあった。仕事上、必要なものも。
しかしその怒りや喪失感に惑わされ、今、目の前の仕事に支障をきたすほど、彼は経験が浅くはない。
「君に、頼みがあるんだ」
そのまま真面目な顔で告げられて、姿勢を正す。
「何だ?」
「夕方から出かける時に、僕も連れて行っては貰えないだろうか」
紫月の要請に、咲耶はぽかん、と口を空けた。
「君の大事な仕事だということは、判っている。昨日から迷惑をかけ続けていたことも。でも、僕としても、今ここで杉野から逃げる訳にはいかないんだ。頼む。僕は教団に住んでいたし、少しは君の役に立てると思う」
真面目な、しかしやや切羽詰まった口調で続けてくる。
そしてこちらの様子を推し量るような視線で見据えられて、咲耶は焦った。
「あ、いや、その、ちょっと待ってくれ」
片手を上げて、押し留める。僅かに視線を落とし、参ったな、と呟いた。
「俺としては、とっくにそのつもりだったんだが……」
「……え?」
少々声を落としたせいで聞き取れなかったのか、紫月が問い返す。
「や、そりゃ、お前の意向は聞いてなかったし、俺の一方的な思いこみだったんだけど。まあ、そっちもそのつもりだったんだから、それでいいだろ」
慌てて続けた言葉に、紫月は安堵したような笑みを浮かべた。
なんとなくいたたまれない気分になっていた時に。
扉が、小さく叩かれた。
「ちょっといいか、守島くん」
扉を開けて顔を出したのは、マスターだ。
「ああ」
「あ、ご馳走様でした」
慌てて紫月は頭を下げる。小さく笑んで、男は片手を上げた。
「いやいや、お粗末さま。口にあえばよかったんだけど」
「美味しかったです。ありがとうございました」
「何かあったんじゃなかったのか?」
礼儀正しく会話を続ける二人に、皮肉げに口を挟む。マスターが真面目な視線を向けた。
「表に、不審な車が停まってる」
そっと店内に戻る。
この店のランチを利用するのは、近隣のサラリーマンが殆どだ。自然、午後一時を過ぎると客足は一気に減る。今も、カウンターに二人、奥のテーブル席が一つ塞がっているだけだった。
テーブル席のある方の壁には窓があり、表通りに面している。下から中を見透かすのは難しいが、三人は身を隠すように低くして、空いている一つのテーブルについた。
「あそこに二台、白のワンボックスカーが停まっているだろう。私が最初に見つけてから、もう、一時間を越えている」
喫茶店からみて、斜め向かい側の路肩だ。特徴のない、どこにでもあるような車。
じっと見ていると、一人の男が、周囲を見回しながら車に乗りこんだ。入れ替わるように、違う男が降りる。
「ああやって、常に一人は車にいる。後はあちこちに散らばっているみたいだ」
制限いっぱいまで人を乗せてきたとして、二台で十六人。かなりの人数だ。
「服装がばらばらだな」
咲耶は呟く。ポロシャツにスラックス。スーツ。
この辺りはどちらかと言えば、ビジネス街だ。スーツ姿の人間が多いが、それ以外の服も悪目立ちするほどでもない。
「見覚えのある奴はいるか?」
「遠すぎるよ。流石に顔まで判別できない」
小声で紫月に尋ねるが、眉を寄せて答えられた。
「一番大勢が出入りしていたのは、あのビルなんだけど」
マスターが示したのは、ちょうど、車が停まっている正面のビルだ。上層は倉庫と事務所、そして下層二階は。
「……本屋?」
つい先刻、その言葉を聞いた。
視線を向けると、紫月はゆっくり顔を背けた。
「……結局お前のせいか?」
「いやだって、朝、ぼんやり周りを見てて、ああ本屋があるな、って思ったから……。仕方がないだろう、この辺りの土地勘はまるでないんだよ」
「逆ギレか」
言うほど語彙は強くないが。
紫月自身の居場所が判るなら、もっと早くやってきている。居所を掴まれたのは、彼の使い魔なのだろう。
「あれ。でも、だったら、この場所も判る筈だよな……」
本を買いに行くように命じられた時と、本を手に入れて来た時。最低でも二回は、カルミアはこの店の中に現れる筈だ。
「ああ。カルミアは、そもそも杉野が召喚した悪魔で、護衛として僕につけている者だから、確かにこちらの世界にいる時にはあいつに居場所が判ってしまうんだ。だけど、呼び出していないときは、そうじゃない。彼らは普段は魔界と呼ばれる、僕らが生きているのとは全く違う世界に存在している。そことこことは、全然違うんだけど、ある意味繋がっていたりもして」
「いやいい。もうこれ以上詳しく説明するな」
苦虫を噛み潰した顔で、咲耶が制止した。
彼は、他の術の理論を、微塵も理解したくはないのだ。
いつの間にか、マスターはカウンターの中へ戻っている。
「……つまり、僕からの命令を伝えたり、物だけを届ける時には、彼は居場所を掴まれることはないんだよ」
僅かに呆れた表情で、しかし簡単に、紫月は事象だけを告げた。
本を買う時には、流石に現出しなくてはならなかったのだろうが。
「元々が杉野が呼び出した、って言ったな。今でも、奴はカルミアを呼び出せるのか?」
「ああ」
「お前の居場所を聞き出すことだってできるだろう」
できるだけ踏みこまないように、言葉を選んでいる相手に、紫月も慎重に返す。
「大丈夫だ。彼は、口が堅い。……というか、喋れないからね」
「喋れない?」
「悪魔の姿では、声を発する能力がないのさ」
「人間に化けても、喋れないのか?」
だが、咲耶はそれで満足しない。しつこく問い質す。
「それは、喋れるようになるけど。でも、喋らない。この場に彼を呼び出す以外、魔界からこちらの正確な位置の把握はできないから、彼はまだ僕のいる場所を知らない」
ややこしい言い回しだが、はっきりと理解したくないのでそういうものだと思っておくことにする。
咲耶は話題を変えた。
「杉野は、あそこにいると思うか?」
「いない、と思う。あいつは、他人に奉仕させるのが好きだ」
侮蔑を滲ませて、疑問に答える。
「なら、少しは楽か……?」
街路を行きかう人々を見下ろす。さほど多くはない。
通り過ぎる人間を、見落とさない程度には。
「守島。何を考えている?」
不審げに、紫月が問い質した。
「なに。お前を追ってきた全員、一人残らずここから遠ざけないと、後々面倒なことになりそうだからな」
にやりと笑んで、咲耶は、悪巧みを話すかのように相手に顔を寄せた。
時刻表示を、苛々と見つめる。
ここに来て、もう一時間以上経っている。あの方が、ここへ行け、と命じてからは、もっと。
とっくにこの辺りにはいないのではないか、という不安がこみ上げる。
だが、命令に反して動くことは、彼らにとって酷い恐怖を伴う行為であった。
あの方の言葉は、常に正しいのだから。
あの方に従っていれば、常に成功するのだから。
失敗する、ということは、もう、彼らには耐えられない事態だ。
開け放った窓から、外の熱気と騒音が流れこんでくる。
じきに誰かが交代にくるだろう。じりじりとそれを待っていた彼は、漏れ聞こえた声に振り向いた。
「待てよ、弥栄!」
窓の向こう、車が停まっているのとは逆の歩道を歩いているのは、学生服を着た、明るい髪の、見慣れた少年。弥栄紫月だ。
大股で進むその後ろを追ってくるのは、長い黒髪を一つに結んだ少年。
彼のことも、あの方から聞いている。
「待て、って! お前、一体何のつもりで」
「何のつもり、だって?」
ふいに足を止めると、紫月は振り向いた。その強い視線に、追いかけてきた少年は一瞬怯む。
「君の言うように動いていて、一体どう事態は好転したんだ? 僕が、どれだけ酷い目に遭ったと思ってる! もう僕に関わるな。一切だ」
最後通牒を突きつけるような口調で言い放つ。そして、紫月は足早に再び歩き始めた。
その間に、ちらちらと携帯の画面を見ながら仲間たちへ発見の報を送信する。
そして、静かに車を降りた。もう一台の影にいた男と顔を合わせる。
小さなジェスチャーで、役割を負担する。相手は紫月を。彼は、もう一人の少年を。
黒髪の少年は、紫月の後姿を苦々しげに見つめていたが、すぐに踵を返した。両手をデニムのポケットに突っこみ、歩道を歩いていく。
彼は、その数メートル後ろを、こっそりとつけていった。
追うべき相手の姿を直接見たのは、彼ら二人だけだ。
だが、皆が持つ携帯電話には、全地球測位システム、いわゆるGPSが搭載されている。彼らの位置情報を仲間たちは把握し、やがて追ってくるはずだ。
仲間と合流するまで、相手を見失わなければそれでいい。
黒髪の少年は、横道へ入った。ざかざかと歩く先は、徐々に人通りが少なくなっていく。
逃げられないように、そして見咎められないように、と気を使っていた男は、やがて、突然視界を闇に覆われた。




