第二章 06
「それでお前は、西洋魔術を使うのか?」
次のフロアに〈榊〉を放流している間、世間話、とでも言うように咲耶が尋ねる。
まあね、と軽く紫月は頷いた。
「どんなことができるんだ?」
更に問う。手を出すな、と戒めてはいるが、何があっても彼がそれに従うだろうなどと楽観的には考えていない。
情報は必要だ。不本意だが。
「上手く言えないな。今まで、実際に使ったことはあまりないんだ」
しかし、あっさり返されて、信じられない気持ちで見返した。
「お前……。それでよく、俺を手伝おうとか言い出したな」
「実践は大事だろう? 機会があれば逃す手はないよ」
人を食ったように、とぼけた風情で返してくる。
「……今回は、くれぐれも手を出すんじゃないぞ」
かなり疲れた心持ちで、咲耶は念を押した。
もうすぐ、十四階に辿りつく。
咲耶は、デニムのベルトに通した腕時計を確認した。このビルに踏みこんで、一時間が経っている。
特に仕事中は、彼は身体に金属を触れさせたがらない。こうして、せめて肌との間に数枚の布地を挟んでおくのは習慣だった。
「さてと。ちょっとばかり大物が出そうだぜ」
連れの少年に警告して、扉を開く。
月明かりの下、見覚えのある、秘書課のブースとその奥に続く通路が確認できた。
〈榊〉が、暗がりに姿を消す。
数分後、戻ってきた式神は独りだった。
「なんだ……?」
「大物って言っただろ。ひっかかるほど頭が悪くないんじゃないか」
片手を一振りして、〈榊〉を霧散させる。
悪魔の臭いはする。もう、フロアはここしかない。屋上にいる、という距離でもない。
軽口は叩いたものの、慎重に、咲耶はエレベーターホールに足を踏み入れた。
眉間に皺を寄せ、ぐるりと周囲を見渡す。
近い。近い、が。
戸口から顔だけを出して、きょろきょろとしていた紫月が、息を飲んだ。
「上だ、守島!」
弾かれたように、視線を上げる。
ここは、他のフロアよりも、天井が高い。
その、暗がりに塗り籠められた天井から、もぞもぞと、何か奇妙なものが身を乗り出してきていた。
一瞬息を詰めただけ、動きが遅れる。
跳び退きかけた咲耶の身体を、何かがずるりと延びて叩き落とした。
「……ッ!」
背中から床に転んで、しかし咲耶は即座に横に避けようと動いた。
意図は、悪くない。
天井から出現し、落下してきた悪魔が、エレベーターホール全てを覆い尽くすほどの大きさでなければ。
脚を挟まれて、舌打ちする。
目の前に全容を現した悪魔は、まるで巨大な肉塊のようだった。
皮膚はぬるぬるとぬめった光を反射し、人の、獣の器官が雑多に突き出されている。腕や脚は十数本、翼も幾枚か、眼球はそれ以上、鼻や耳や口も、それらの間に無秩序に点在する。
結果、機能としては重量ぐらいしか特化できていないように見えたが。
悪態をついて、咲耶は掌を敵に向けた。
鈍い音と共に、その肉体の一部が弾け飛ぶ。
が、すぐにそれは再生を始めた。先ほどまでその場にあったものとは、また違う器官を生じさせて。
やはり、効きが悪い。
じりじりと、咲耶の上半身へ向けて押し広がってくる肉塊を、嫌悪の目で見つめる。
一気に捻じ伏せるしかないか、と覚悟を決める。周囲に少々被害が出てしまうが、仕方がない。
そう、決断しかけた瞬間。
「カルミア!」
涼やかな声が、響く。
そして咲耶の傍らに、軽く誰かが降り立った。
銀色の軽量鎧を身に着けた青年だ。細い、針のような形状の剣を手にしている。ただ、その鎧の隙間から覗く肌の色は、鮮やかな群青色だった。
彼は、素早くその剣を悪魔の肉体へと突き刺した。
瞬間、ずん、と腹に鈍く衝動が響く。
幾つもの悲鳴が、耳を劈いた。
ありとあらゆる人の言語、ありとあらゆる獣や鳥の鳴き声、そしてそのどれでもない喚き声が。
表面がぶるぶると震えていた醜悪な肉体は、やがて、どろりと溶け始める。その、体表を流れる液体状のものは、すぐに蒸発していってしまう。
脚の上の重みが徐々に軽くなっていくのを感じ、咲耶は素早く身体を引き抜いた。
鎧を着た青年が、未だ剣を醜悪な悪魔へと突き刺しながら、礼儀正しくもう一方の手を差し延べるが、無視する。
「……おい。弥栄」
立ち上がり、背後に視線を向ける。その言葉は、問いかけでもなければ、確認でもなかった。
いつの間にか、彼らの数歩後ろまで進んできていた紫月は、軽く肩を竦める。
「紹介しておくよ、守島。彼はカルミア。僕の使い魔だ」
「そーいうことが聞きたい訳じゃない!」
一瞬で、咲耶は怒声を上げた。
「俺は! お前に! 手を出すなって言っておいた筈だよなぁ?」
その勢いに圧されて、紫月はやや身を引いた。
「しかし、守島。結果としては、カルミアの方が効率よく動けた訳だし」
「そーいうことが聞きたい訳でもない」
再度、言下に否定されて、流石にむっとする。視線の温度をやや下げて、彼は陰陽師に対峙した。
「君の、仕事に対するその姿勢には、僕だって充分に敬意を払うつもりはある。だけど、こっちにだって譲れないところはあるんだ。僕は、杉野と決着をつける。そのために今まで生きてきたんだし、その機会を逃して、このまま生きていくつもりもない!」
二人の少年の間に、鋭さの混じった沈黙が満ちる。
微かな音と悪臭を放ってその体積を縮めていた悪魔は、やがて、カーペットに小さな焼け焦げ一つを残して、消滅した。
剣を引き寄せた戦士が、主人に向き直る。
小さく吐息が落ちた直後、二人は同時に踵を返した。並んで、通路を進んでいく。
「言っておくが、このことについては後ではっきりさせるからな、弥栄」
「勿論だ」
見るからに苛立っている若者たちの後姿を見つめながら、カルミアは兜の面頬から覗く口元に、小さく笑みを浮かべているようだった。
社長室。
ほんの十四、五時間前に入った部屋に、再び入りこむ。
扉を開けたのは咲耶だ。こと、ここに至ってまで、彼は自分が先頭を進むことを譲りはしなかった。その行動に、敢えて紫月も異を唱えてはいない。……今のところは。
流石に同じ日のうちに清掃を済ませられはしなかったのだろう。室内は、粘液に塗れたままだった。
足の下から、慣れた感触が伝わってくる。
一つの壁が一面の窓になっていて、天井から床までのバーチカルブラインドで覆われている。それを通した月明りが、室内をぬらりとした光で満たしていた。
南西の、窓。
咲耶の使う陰陽術では、坤 の方角。俗に言う、裏鬼門だ。北東の艮と併せて、妖との相性がいい方角だ。
それを防ぐため、敷地内のそれらの方角には出入り口や水を扱うものを置かないようにするのは、一般にも割とよく知られた事象である。
今回出現したのは西洋の悪魔であったから、全くそれとは関係ないのだろう。だが、窓に加えて更に〈水気〉を蔓延させられていては、陰陽師である咲耶には少々居心地が悪い。
「酷い臭いだな」
紫月が小さく呟く。
「お前に判るのか?」
少し驚いて、尋ねた。
「悪魔には、出現する時に悪臭を伴うものがあるんだ。これ、結構しみついてしまっているんじゃないか?」
眉を寄せて、西洋魔術師の少年は説明する。
悪魔がここに具現化してから、数日経っている。可能性は高い。
「そうか。……気づかなかったな」
自分だけが判る、この世ならざるものたちの臭い。
それに、紛れてしまっていたのだろう。
彼の仕事には特に支障はなかったが、しかし気が回らなかったことを、少し反省する。
「この程度の臭いで参るとは、少々神経質になっているな、紫月?」
皮肉げな声が、空気を揺らす。
一人の男が、机にもたれかかるような姿勢で、立っていた。
気配はしなかった。今も。
少年たちは、揃って無表情で男を見つめ返していた。
「非常口を護っていたものが滅せられてから、一時間と十二分五十秒。想定したよりも早くここまで来れたな。なるほど、いい手助けを得たようだ」
嘲るような口調で、男は告げてくる。
「……杉野」
やっと発せられた紫月の声は、酷く軋むようだ。
これが、杉野孝之。
四十一歳という年齢よりは、やや若い印象だ。薄い銀縁の眼鏡の下から、奇妙な感情の籠もった視線が投げかけられる。
咲耶の視界の片隅で、小さく何かが動いた。二人の背後に控えるように立っていたカルミアが、やや及び腰になっている。
「さて、そろそろ鬱憤も晴れただろう。戻ってこい、紫月」
「嫌だ」
杉野の言葉を、即座に拒絶する。
だが、男はそれに動じた素振りもなかった。
「お前の友達の手際は見せて貰った。そこそこ使えるようだな。カルミアも、少しはお前の役に立つだろう。だが、その程度だ。彼らは、お前に絶対服従は、しない」
ちらりと視線を向けられた使い魔が、一歩、後じさる。
その気配を察したか、紫月は小さく唇を噛んだ。
「戻って来い、紫月。お前が私に好意を持っていないことは、判っている。だが、お前が今日、家を飛び出したことで、私以外の人間に一体どれほどの迷惑がかかったと思っているのだ?」
小さく、養い子の身体が震える。
「教団の人間は、殊に教主様は、お前の身を案じている。お前が借りたマンションの関係者も、酷い被害を受けた。しかも、今夜、お前の助けを必要としていた相手は、問題の解決を先送りにせざるを得なかったのだ」
紫月は、僅かに俯いた。その手は、きつく握り締められている。
「判るな、紫月。これは、義務だ。個人的な感情から義務を怠り、人々を失望させて、お前は一体どうやって胸を張って生きていけると思っている?」
息が、詰まる。
押し黙った紫月に向け、更に杉野が口を開こうとしたところを。
「ふざけたこと言ってんじゃねぇよ。莫迦か」
無造作に遮ったのは、紫月ではなかった。
杉野が、険しい視線を向ける。ゆっくりと顔を上げた紫月は、信じられない、というように目を見開いていた。
「他人に対する義務だ? そんなもん、自分が生きてくのに邪魔だったら、放り出しちまっても構うもんかよ」
胸の前で腕を組み、真っ直ぐに、この場の唯一の大人を睨み据え、咲耶は吐き捨てるように言い放った。
「それは、よくない考えだ。人と人とが共に暮らしていくには、それなりに譲りあわなくてはならない。君が紫月の力になりたいと思うなら、そこは間違えてはいけないことだ」
穏やかに、諭すように言う相手を、露骨に蔑んだ目で見ると、咲耶はくるりと視線を隣に立つ少年へ向けた。
「お前が親父を嫌う理由が判った気がするぜ。俺の兄貴たちと、そっくり同じようなことを言いやがる」
「お兄さん?」
きょとん、として問い返した言葉は、きっぱりと無視された。
「あんな手前勝手な理屈に振り回されてんじゃねぇぞ。人間、自分のことが一番大事でいーんだよ。自分を大事にもできない奴が、どうやって他人だけ大事にできるってんだ」
「……守島」
「自分が生きていくのに向いてない環境なら、とっとと飛び出してしまえばいい。それでも追いかけてくるようなら、力づくでも後悔させろ。向こうには、放っておくっていう穏便な選択肢もあったんだ、気にする必要はねぇよ」
強く言い切る少年に、力なく笑みを浮かべる。
「そうやって、君は家を飛び出したのか?」
「まあな」
肩を竦め、咲耶は肯定した。
「便利な手駒を見つけたものだな、紫月」
杉野の言葉は、もう取り繕う様子もない。あからさまに憎々しげだ。
改めて、咲耶はそれに向き直る。
「それも間違ってる。俺は、別にこいつに頼まれてここにいる訳じゃない。行く方向が同じだったから、ついでに一緒に来ただけだ」
そして一歩、拝み屋の少年は、足を進めた。
「で、どうする弥栄。お前の養父の申し出に乗るのか?」
「まさか」
やや顔色が回復した紫月は、言下に拒絶する。
咲耶は、嘲るように薄く笑んだ。
「そういうことだ。用事は済んだんだから、さっさと帰んな。戻り方が判らないってんなら、俺が手を貸してやってもいいぜ。格安にしといてやるよ。そうそう、あんたの息子はどうか知らないが、俺は是非近いうちにもう一度会いたいもんだね。その時は、実体で頼むよ。じっくりと話し合いをするには、今のあんたはかなり失礼だ。そうだろう?」
杉野から放たれる、凄まじいまでの苛立ちと憎悪の視線を、受け流す。
数秒の沈黙の後、杉野の姿は、ふいに消滅した。
大きく、紫月が息をつく。じっとりと汗のかいた掌を広げる。無意識に、ワイシャツの襟を寛がせた。
「……あそこまで言う必要はあったのか?」
扉に近づき、傍らの照明のスイッチを入れる咲耶に、問いかける。
一瞬の間があった後、ちかちかと瞬いて室内に光が満ちた。
「いいだろ。別に。俺だって、いい加減苛ついてたんだよ。あの程度の会話で理性的な判断力を失うようなら、こっちの思う壺だしな」
「そんなことを言っているんじゃない」
不機嫌な声に、振り返った。
「あんなに何度も、あいつとの親子関係を強調しなくったってよかっただろう、守島?」
憮然として告げる少年をまじまじと見つめ、そして次の瞬間、咲耶は爆笑した。




