第二章 05
裏口の上には、常夜灯が白い光を放っている。
鉄製の扉は、ぴったりと閉じられ、全く何の異変も起きていないかのようだ。
それでも、周辺に明らかに漂う臭いに、咲耶は眉を寄せた。しかし、薄い。残り香だろう。外に出てはいないようだ。
扉から五メートルほど離れたところで、彼は足を止めた。
「お二人はここまでです。俺たちが中に入ったら、駐車場まで戻ってください。いいですね」
後ろについてきていた那賀谷が渋々と、顔色を青褪めさせた竹田が安堵の表情で頷く。第一発見者の社員は、流石に再びここへ来ることを拒み、車に留まっていた。
「長くなりそうですし、今夜は一旦帰ってくださっても結構ですよ。終わったら連絡します」
「いや。待たせて貰う」
だが、きっぱりと那賀谷は主張した。それは予測できていたので、反対せずに頷く。
「弥栄。彼らを護っていてくれ」
『助手』に視線を向けて指示を出す咲耶の腕を、紫月が軽く引く。
「僕を置いていくつもりじゃないだろうな」
囁くように問い質したのは、せめてもの気遣いか。咲耶も小声で返す。
「判ってる、置いてかねぇよ。あの二人を連れていかないぐらいには、確実だ。ただ、入り口を確保する間、二人を護ってくれ。無理だと思ったら連れて逃げろ。それぐらいのことはできるんだろうな?」
「当たり前だ」
ややむっとして、紫月は返した。にやりと笑んで、咲耶はふらりと裏口へと近づく。
正直、ついてきた三人を護りつつ敵を処理するぐらいは余裕である。だがまあ、色々知っておきたいことはあった。紫月の肝の座り具合とか。
扉まで三歩を残して、少年は足を止めた。
手を延ばしても、まだ扉には届かない。
非常口を兼ねた裏口は、外開きだ。こちらから開いては、片手が塞がることもあり、内側からの襲撃には一手遅れてしまう。
がたがたと、扉が奇妙な音を立て始めた。内側から、何者かが開けようとしているような。
那賀谷と竹田が息を飲むのが聞こえてくる。
鍵はかかっていない。中のものが、外に出ようとするなら、簡単だ。
出てはならない、と命令されていなければ。
咲耶が、吐息を漏らす。
声は発せられない。かろうじて、唇が何かの言葉を刻んだようだ。
ばァん!
瞬間、扉が勢いよく開き、コンクリートの壁にぶつかって甲高い音を立てた。
咲耶は、それに触れてさえいない。
そこにいたのは、人間であれば大柄ともいえる体格をしていた。長い黄金色のたてがみを後ろに流し、ぎらついた双眸は僅かに虚を衝かれたかのように見開かれている。鋭い牙が、半ば開かれた口から覗いていた。服装は、黒のモーニングコートの礼服。意外と礼儀正しい相手だった。
だん、と、咲耶は扉が通り過ぎた空間に、大股に一歩、踏みこむ。
頭を掴もうと延ばしてきた鉤爪を、身を屈めて避けた。
宙を空振りした相手を、睨め上げる。
右手の人差し指と中指を、揃えて伸ばした形の手を、斜めに振り上げるように、薙ぐ。
その軌跡に沿って、立て続けに悪魔の身体が、爆ぜた。
ぐらりと揺れたその巨体が、ざらりと灰になって散る。
撥ね返ってゆっくりと戻ってきた扉が、がちゃりと重い音を立てて、枠に嵌った。
咲耶が背後を振り向く。
ぽかんとして一連の行動を見つめていた三人に、小さく笑いかけた。
「ほら、行くぜ。弥栄」
建物の中は、暗い。
裏口の上に点いた非常口を示す緑色の光以外、通路の奥までが真っ暗だ。
「灯りを点けるか?」
「点きゃいいがな」
囁き交わし、戸口の横にある照明のスイッチを押す。
数秒待ったが、周囲に光は溢れなかった。
「点かないようになってるな」
「いや、でも停電じゃないだろう。警備用のカードキーは、電気が通ってないと認識しない筈だ」
意味が通らない、と紫月が呟く。
「術師の作り出す世界なんて、基本的に子供の我儘みたいなもんさ。思いつかないものはその通りにならない。奴は、そんなことを気にもしてないんだろう」
とん、と軽く、一歩前に出る。
「杉野か」
不機嫌な口調で、紫月が呟いた。
「判るのか?」
「なんとなく。この建物の中の、何と言うか……雰囲気、が、奴が儀式をしていた礼拝堂と似ている」
「そりゃあ居心地の悪そうな場所だな」
喉の奥で笑って、咲耶はもう一歩前に出て、そして止まった。
「んー。面倒くせぇな。集めるか」
右手を、ゆらりと肩の高さまで上げる。
「榊」
小さく呼んだ瞬間、彼の爪先で小さく渦が巻いた。
黒い、風が。
ひゅんひゅんと小さな音を立てて留まっていたそれは、一体何の命令を受けたのか、一直線に通路を奥へと突き進んだ。
「あれも、君の式神か?」
興味深げに尋ねるのに、頷く。
「ああ。そうだ、弥栄」
思いついた、というように、咲耶が肩越しに視線を向ける。
「部屋でも言ったが、これは俺の仕事だ。俺のやり方でやらせて貰う。お前は、一切手を出すな。心配しなくても、お前の身ぐらいちゃんと護ってやるよ」
「いや、守島……」
「それが嫌だってなら、今すぐ外に出て待ってろ」
陰陽師の、口調と瞳の色は本気だ。
溜息をついて、紫月はあっさりと判ったよ、と答えた。
それに、やや胡乱な視線を向けていたが、とりあえず信用することにする。
「それで、どうして僕たちはここに立ちっ放しなんだ?」
どちらかと言えば、連れはそっちが気になっていたらしい。
「このビルは、フロアが十四階ある。推測だが、その全部に悪魔が陣取ってる。数はまちまちだけどな。ビルの面積はさほどじゃないが、部屋が幾つも分けられてるから、それを一つずつ回っていくのは、かなりの手間だ。だから、先刻のやつに、集めさせてる」
「集め……?」
「もうじき来るさ。手ぇ出すなよ」
視線を暗い通路の方に戻し、咲耶は更に念押しした。
しんとした空気の中に、やがて、再びあの渦を巻く風の音が近づいてきた。
紫月が、小さく息を飲む。
淡い緑色に照らされた通路に、咲耶の式神を追って、三体の悪魔が突進してきたのだ。
二人の立つ、一メートルほど手前まで来た式神は、ふいにその姿を通路いっぱいに広げた。
黒い空気が、渦を巻いたまま、悪魔たちを包みこむ。
この世のものとも思えない絶叫と、何か硬いものを削っているかのような音が、一分ほど響いて。
そして、再び渦は小さくなった。
その中にあった筈の存在は、どこにも見当たらない。
「何が……」
呆然として、紫月は呟く。
長く息をついて、咲耶はしばらく肩を落とした。見ると、その額には汗が滲んでいる。
「よし。じゃあ、進むぞ」
紫月の疑問を全く意に介さず、咲耶は足を進めた。
やがて、その通路はエレベーターホールに通じていく。
「エレベーターで上がるのか?」
「動かねぇだろ、きっと。動いたとしても、その後どんな酷い目に遭わされるか、賭けてもいいぜ」
皮肉っぽくそう告げて、咲耶は少し離れたところの扉に手をかけた。
「階段で上がる」
「……十四階まで?」
「嫌なら帰っていいんだぜ?」
再度そう言い渡され、むっとした表情で、紫月は後に続いた。
その後は、意外と単純作業だった。
階段を登ると、咲耶は非常階段の扉を開け、〈榊〉を放つ。数分で戻ってくる式神の後ろには、もれなく悪魔たちが追ってきていた。
「どういう理屈なんだ?」
五階に上がるまでずっと問い続けて、ようやく咲耶は口を開いた。
「榊は、風を司る式神だ。ああやって渦を巻く勢いで、周囲に風の刃を撒き散らしてるんだよ。物理的には何の威力もないが、悪魔やら幽霊やらの妖には、それで傷がつく。ここに出てきてる奴らは、敵対行動を取ってるからな。ちょっと刺激すりゃ、追っかけてくるだろう。それで一箇所に纏めて、一気に潰す。多少なりと考える力がある奴は引っかからないだろうけど、有象無象なら充分だ」
「へぇ」
感心したように呟いて、紫月は踊り場でひょい、と屈む。躊躇いもせず、片手を〈榊〉の渦の中へ差しこんだ。
咲耶が息を飲む。
「本当だ。ちょっと涼しいな」
呟いて、身を起こす。連れの表情を目にして、小首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「お前……。何だってそんな危ねぇことやるんだよ……」
声を掠れさせる咲耶に、更にきょとんとした顔になる。
「だって、君が物理的には大丈夫だって言ったじゃないか」
「だからって人に無害だって言った訳じゃないだろ! 変な呪がかかってたりすることだってあるんだから、ちったぁ警戒しろ!」
大声で怒鳴りつけて、ようやくその可能性を理解したらしい。
「ああ、そうか。すまない」
素直に謝ってくる相手に、長く溜息をついた。そのまま、今度は咲耶がその場に腰を下ろす。
「守島……?」
「ちょっと休憩だ」
素っ気ない口調で隠そうとしているが、やや呼吸が荒い。額に浮いた汗は、一向に引く気配はなかった。
確かに空気はまだ昼間の熱を孕んでいる。だが、空調が入っていた屋内は外に比べればはるかにましだ。
「具合が悪いのか?」
気遣わしげに言葉をかける紫月から、ふいと視線を逸らせる。
「ちっと疲れただけだ。すぐに動ける」
「……手伝おうか?」
だが、次いで発せられた言葉には、きつい目線で見返した。
「駄目だ。何もするな、って言っただろうが」
「だけど、まだ五階が終わったところだ。この先、今までの倍はあるんだろう」
壁にもたれ、咲耶はひらりと片手を振る。
「仕方ねぇだろ。俺は、西洋の悪魔とは相性が悪いんだよ」
当たり前のこととして言うが、しかし紫月は要領を得ない顔になる。
「……お前って、本当に基本的なところを何も知らねぇんだな」
呆れ顔で呟く。
まあ、休んでいる時間、間を持たせる役には立つ。
「前にも言ったが、俺は陰陽師だ。これは、大陸で発生し、日本にもたらされた後、また独自の発展をした」
やや文句を言いたげだったが、好奇心が勝ったのだろう。紫月は静かに頷く。
「だから、俺の術が一番通じるのは、まず日本で生じた妖だ。次に、大陸で発生したもの。今回みたいな西洋魔術を基本にした奴は、術理論が違いすぎて、余計な手間がかかっちまうんだ」
「つまり、相手と比較すると、君の力が弱い、ってことになるのか?」
端的に纏められて、むっとする。
「莫迦なことを言ってんじゃねぇぞ。俺以外の陰陽師で、ここまでできる奴なんざ、日本に五人もいねぇよ」
それは別に否定材料にはならないんじゃないか。そう紫月は思うが、流石に反論は控えておく。
「南京錠、って、知ってるか?」
だしぬけに尋ねられる。その意図が掴めず、紫月は無言でただ頷いた。
「俺は、陰陽術で対応できる妖なら、俺の持っている『鍵』でその南京錠を簡単に開けることができる。だけど、今みたいな西洋の悪魔が相手だと、俺の『鍵』は殆ど役立たずだ。それでも、それは絶対に開けないといけない。だから、俺は」
右手を拳に握り、左の掌に打ちつける。
「南京錠を、力任せに引き千切るしかないんだよ」
革の手袋にぶつかった音は、不快な軋みとなって聞こえた。
「なるほど。それは、確かに疲れそうだ」
薄く笑んで、告げてくる。それを理解した印だと受け取って、咲耶は立ち上がった。多少、楽にはなっている。この先のことを考えると、慰めにもならないが。
隣で、とん、と段に足を乗せる音がした。
「しかし、そう考えると、やっぱり僕が手を貸した方がいいんじゃないか?」
「だーかーら。俺の仕事だ。ちょっとは覚えろ。そもそも、お前に何ができるかも判らないのに、何を任せろってんだよ」
冷静に見えるが、実は血気に逸っているのだろうか。
そっと、涼しい顔をした連れの表情を伺う。
紫月は、特に気を悪くしたようでもなかったが。




