お題『春雷』
頬を濡らして流れていく雫。
流れるそれは、自分から噴き出たものなのか空から降ってきたものなのか、もうわからなかった。
肌に絡みつく湿った服が腕を、足を、動かすまいと抵抗してくる。
全身を蛞蝓に這いまわられているような、と想像しかけ、精神的な傷を誘発しかねない光景を振り切った。
そんなことより、脚を動かさねば。
早く。コンマ1秒でも早く足を動かす。回転するモーターのイメージ。
エンジンにガソリンを。爆発させ、爆縮させ、回れ回れタービンのように。
もうやめてしまえと。
降り注ぐ一滴一滴は秒ごとに勢いを増し、滝のように打ち据えてくる。
知ったことか。これでやめてしまえるのなら、そもそもこうやって駆けだしたりしていない。
ふくらはぎが、腿が、踵が、地を弾く爪先が。軋み、ぎしぎしと音を立てる。
錯覚だ。そんな認識は、今はいらない。痛みなら後から十分に味わってやる。だから今は黙って動き続けろ。
もう捨ててしまえと。
立ち込める雲で灰色になった空に、白い線が走った。
無機質な輝き。太陽とは異なる、殺意すら感じられる明滅。
知ったことか。これで捨ててしまえるのなら、そもそもこうやって背負ったりしていない。
肺が縮み、容量が一呼吸ごとに削られていく。
気管は新鮮な空気を拒み、ひゅうひゅうと出来の悪いリコーダーのような音を立てている。
足りない。空気が足りない。体力が足りない。筋力が足りない。
この一年間、様々なものを積み上げてきたつもりでいた。
その結果が、これか。違うだろう。そうであっていいはずなんて、ないだろう。
また、投げ出すのか。
また、五人の想いを、踏みにじるのか。
もう止まってしまえと。
轟、と世界が揺れた。それほどの音だった。
雷鳴。獣の叫びじみた残響。それは、あの日と同じ。自分の弱音をかき消した音と同じ。
雷の輝きのように、コマ落としの記憶が脳で点滅する。
左肩から右わき腹にかけて赤熱する鎖。
重く。重く。この身を縛っていく。
感覚のない脚。朦朧とした意識。最速の一人を自負していた。思いあがりの代償。
耳を過る歓声と悲鳴。揺れる世界。遠く響く春雷。
白く染まる視界。それは、光か、酸素欠乏の見せた引き延ばされた意識か。
五人は、何一つ責める言葉を口にしなかった。
ただ。 細く軽いはずの一本の布きれが、この身体をきつく苛んだ。
叫ぶように呼気を吐いて、去年の追憶を振り払う。
視界は白い。だが、それは雷の光だ。
この目には、街頭の観客の一人一人、先導するバイクのナンバーまでも見えている。
咆えるように呼気を吐く。
耳をよぎる悲鳴と歓声。音の洪水だったような去年とは違う。
今は、その言葉までも聞き取れる。単に校名を連呼する人。自分の名を叫ぶ人。
そんな中で、具体的な秒数を伝えてくれた人がいた。
それは、自分が討つべき相手の背中までの距離だ。
十字路を曲がる。
そこには、一歩ごとに大きくなっていく誰かの背中。
先導するライバルに感謝を。その背中を追うことで、きっと自分は、より速く走ることができた。
気温の変化。気圧の相互作用。前線の輻輳。
最速の孤高に見える春の雷ですら、無数の条件に支えられて成立しているように。
自分は一人で最速なんかではありえない。一人で最速である必要なんてない。
この一年で気が付いた、あまりにも当たり前のこと。
かつて自分を重く縛り、苛んだ、一本の布。
それが、今は揺らぎがちな軽い信念が吹き飛ばぬための、碇となっている。
左肩から右わき腹にかけて赤熱するもの。
指先でそれに触れる。
五人がそれぞれ身に着けて、駆け抜けて、手渡してきたもの。
無数の観客が。前を走る誰かが。後ろを走ってくれた仲間が。
雨を払う熱を、軋む脚にしなりを、縮む肺に力を、ほんの少しずつ与えてくれる。
視界の先に、ゴールテープが見える。
さあ、このわずかな距離で、自分はあの背中を越えることはできるだろうか。
全く、去年はそのテープに触れることもできなかった身が、今はその順番を気にしているのだから、随分な話だ。
先導してくれる人。応援してくれる人。情報をくれる人。
自分に順番を渡してくれた五人の仲間。
自分の前を、後ろを走る無数の競争相手。
その全てに支えられて、自分は曇天を駆け抜ける春の雷になる。




