お題『眼鏡』
自分と世界の認識の在り様が違うことに気が付いたのは、物心ついてからのことだった。
他人が見えているはずのものが自分には見えず、他人には自分が見えているものが見えていない。
周囲と話がかみ合わないことを自覚し、大多数と比べて自分がずれているのだと知ったときには、少なくない衝撃を受けたものだ。
認識は心を形づくる。
そも、受けた刺激を認識のフィルターを通して入力し、そして反応として出力するまでの過程が心という代物だ。
認識のフィルターが他と大きく異なれば、そもそもが心も反応も多数と同様に形成される訳がない。
救いがあるとすれば、自分の認識は、視覚においてのみ異様であり、その他の感覚認識は他者と近い軸を持っていたことだろう。
まったく軸の違う異なり方をしていたならば、言葉を交わすことはおろか、数日たりとて生きることはできなかったはずだ。
周囲には、特殊な視覚の不調と理解された。日常生活に支障がなかったので、目が少し悪いのだと思われていたのだろう。幸い、文字については不自由なく理解できた。
自分が正しく……というより、周囲と同様に認識できなかったのは、人だけであった。
大人たちからは、早熟な子、飲み込みの早い子と見られていたようだ。
そうだろう。知識のある大人と対面しているとき、自分の知的な性能は一時的に跳ね上がる。
一方で、同年代の子供たちからは、ずるをしている卑怯者だと言われた。
まあ、それも仕方ない。彼らといるときの自分は、自分が知っていることしか答えられない、年相応の子供でしかないのだから。
自分の「認識」のことを説明もできず、自分はひたすらに学校の中で孤立していった。
◇ ◇ ◇
ある日、親から、眼鏡を創ることを勧められた。
自分は、目が悪いわけではない。だが、両親から読み取れた心底心配そうな気持に罪悪感を抱き、自分は店へと足を運ぶことにした。
古びた店舗。無数の眼鏡が置かれたショーウィンドウ。
『メガネの天視堂』と書かれたガラス戸を押すと、乾いた鈴の音が響いた。
「いらっしゃい」
髭を蓄えた初老の男性が奥に座っていた。
黒ぶちのぶあつい丸眼鏡の向こうから、細めがちの瞳で見据えられる。
言葉を失った。
「あらあら、あなた。そんなきつい目で睨んで。可愛いお客さんが怯えてしまっていますよ?」
隣で商品の整理をしていた女性が男性をたしなめる。
だが、自分が驚いたのは彼の眼光に……ではない。
その瞳が、見えた、その事実に驚愕したのだ。
彼の表情が、五十からなる字の羅列ではなく、いわゆる周囲がいうところの画像的な情報として、文字情報に圧縮されない状態で理解できた。その事実に。
後ろを振り返る。
道を行く人々の顔を見る。そこには、見慣れた細かな文字情報が並んでいる。
「……なっ」
「ようこそ。眼鏡天視堂へ。君に、平凡な視界をお売りしよう」
そう言って、男性は口元を歪め、瞳の端を下げて喉を鳴らした。
今の僕にはよくわからないが、おそらくはこれが周囲の認識する「笑った」ということなのだろう。
「あらあら。また色々わけありのお客さんみたいねえ。はい、お茶をどうぞ」
全く緊迫感のない老婦人の声を聞き流し、自分は息を飲んで男性を見つめ返した。
◇ ◇ ◇
「眼鏡は、目の悪い人間の目を良くするものだという人もいるが、僕はちょっと違うと思っているんだよ」
コーヒーを啜りながら、男性……この店の店主だという……は帳面を書き続ける。
様々な採寸の結果だけではなく、自分の視覚の特徴、傾向、視認距離に至るまで、細かく聞き取りをされた。
「眼鏡が必要なのは、大多数の人間が見ている世界と違う世界を見ている人間だ。機械文明圏の届かない地で暮らす視力6.0クラスの人間が、一昔前のテレビを光の点としか見られなかった逸話を聞いたことがないかい? 事実関係は知らないが、つまりはそういうことさ。世界は、大多数の認識に適合するようにできている。表示も、表現も、伝達手段、社会通念も、常識も、だ。だから、それと比較して認識能力が高すぎても、低すぎても、不便が起きるというわけだ」
一通りの聞き取りが終わると、今度はくるりと背を向けられ、照明のつけられた作業台にこもられてしまった。
小さな引出から幾つもの部品を取り出し、手にした指先ほどの工具で何やら細やかな工程を繰り返しはじめる。
「眼鏡とは、大多数の人間の見ている世界に、認識を調律するためのチューナーだ。少なくとも、僕の作るのはそういう用途のものが多いんだよ」
それから、この店の客について様々なことを聞いた。
人の心の色が見える視覚。
相手の視覚が見える視覚。
数秒の未来が見える視覚。
死者の思念が見える視覚。
美醜が反転し見える視覚。
様々な「特殊な見え方」の持ち主に、店主は眼鏡を創りだしたのだという。
非常に珍しいことに、店主は自分と似た系統の視覚の持ち主だったらしい。
店主の眼鏡を通して、彼の表情が見えたのは、そういう理屈だったらしい。
「もっとも、完全に君の見ている世界を周囲と同じにできているか、僕には確認する手段もないのだがね。悲観的な言い方をするなら、脳の檻に囚われている限り、人は究極的には孤独なのだから」
三時間ほどして、店主は小さなふちなし眼鏡を完成させた。
なんということもない、ただの道具。
それを、目の前に翳す。
――世界が、変わった。
人の顔から、思考の文字が消えるだけで、そしてそれが画像情報へと切り替わるだけで、これほどまでに眩しい。
まず感じたのは不安だ。言葉にならない微妙なニュアンスを、眉の角度、口元の動き、目の細め方、頬の筋肉の強張り、そういったものから類推せねばならない。
また、相手の表層知識を読むこともできなければ、知識を読むことも不可能だ。
認識の性能としては、むしろ退化したとすら言えるかもしれない。
それでも。
次に感じたのは、素直な希望だった。
周りが見えていないもので得をすることもない。損をすることもない。
親から持たされた資金を渡して、どうしてこんな商売を、と聞いた。
店主は頬を掻いてぶっきらぼうに言った。
「笑ってしまうようなくだらない理由だよ。惚れた相手ができたのさ。たとえ元の視界が便利でも、脳の檻がどうのとか達観しようとしても、やっぱりできれば、好きな奴と同じ世界を見たいと思うのが、人情だろう?」
「あらあら、あなたったら」
……なるほど。まったく、ごちそうさまな話ではある。
自分にも来るのだろうか。
大多数と、ではなく、特定の相手と同じ世界が見えることを、この眼鏡に感謝するような日が。




