お題『声』その2
「……もしもし」
彼女の方から電話もらったのは、珍しいことだった。
いつも、メールやチャットでのやりとりが中心で、文学女性然とした彼女はそういうコミュニケーションを好むものだと思ったのだが、どういう心境の変化であろうか。
「はい、もしもし。どうかしましたか?」
「い、いや。別に、理由がないと電話してはいけないかな?」
「そんなことはないですけど。先輩、電話苦手だと思ってました」
「いや、まあ、話すのが得意ではないのは事実だし、メールやチャットだと顔文字とかエクスクラメーションマークとか小さい「っ」をつけて明るい雰囲気を演出できるので少しは可愛げのある素振りができるかなあという浅知恵で文字媒体を中心に君とやりとりをしていたのは私の方なのだが」
「はあ」
早口言葉でよく聞き取れなかったが、一応彼女なりに、メールやチャットを好む理由があったらしい。
正直、声を聞きたくないとか、そういう理由ではないかと不安だったのも事実なので、少しだけ安心する。
「で、それが一体どういう心境の変化で」
「……ものの本で読んだのだが、人間がコミュニケーションをとるに当たり、言葉が印象に与える影響は2割程度らしい」
「意外と少ないですね」
「だろう。つまり、対面と比べて、メールやチャットは8割を相手の想像に委ねざるをえないわけだ。本来私が声や身振りや表情で制御できるはずの印象を放棄するということでもあるわけだ。これは不安だ。盛大に不安だ。確かに私は身ぶりや表情についての魅力の練磨について怠ってはいたが、それをぶん投げるよりはまだ、可能な限り統制下に置く方が安心できる気がする」
「ええと……」
「これは、車より事故率の低い飛行機を怖がるような錯覚であることは十分承知している。人は客観的危険性はさておき制御可能な方が、安全であるように誤認する傾向がある。私もそれにはまっている自覚はあるんだ。でも、それでも不安だという感情は無視できないしそれを放置しておく悪影響を考えるとやはり電話をかけてみるべきだと考えたのだ。まあ、口調が印象に与える影響も2割くらいなので、6割を占める表情や身振りが使えない以上、伝達率は合計4割でしかないのもその通りなのだが」
「……先輩のパソコン、カメラ機能ありましたよね。通話機能でテレビ電話できませんでしたっけ」
「それはダメだ!」
珍しく強い調子で先輩が言葉を遮った。
「それは印象の6割を埋めることができるメリットがある一方で、私の壊滅的なまでの部屋の汚さを露呈することになるデメリットが致命的だ! 前者よりも私は後者が重いと判断する! あ、汚いというのは非衛生的というわけではないからね。ただ、収納スペースに対して本が多過ぎて雑然としているというだけだよ。しかもそれは私にとっては効率的に、普段座っている位置から必要な書籍が手にとれるようにした配置であって、決して私が片づけられない女だというわけではないからね」
「……デリカシーなかったですね。ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃない。ただ、私が君に見栄を張りたがっているだけだし、むしろこんな時間に電話をかけているんだから私の方こそ申し訳ない」
電話ごしに聴く先輩の声は、いつもと少し違った。
学校にいるときよりも、どこか低くて、静かな声。
これが、夜、家にいるときの彼女の声なのだと思うと、不思議な感覚になった。
「しかし、その、なんだな」
「どうかしましたか?」
「君は、家ではこんな声なのか」
「……はい?」
まるきり、自分の考えていたことと同じことを逆に言われて、思わず言葉が止まった。
そして、自分がいつもの「声」を使っていないことに気づき、愕然とする。
「……ぁ、いや、この、それは」
変えるべきか? 学校での「いい後輩」の声に。
どうでもいい。都合のいい。調子のいい。嫌われないけど好かれもしない。つかず離れずコウモリのように。そんな、無害で無益な道化の声に。
「いや、君が猫をかぶっていることくらいは気づいているよ。無害な口調と裏腹に、君の使う言葉はどこかシビアだ。そんなところに、私は共感を覚えているんだから。まあ、素を見せてくれないことが、少し寂しくもあったんだけどね。これは私の我が侭でしかないが」
侮られることが処世術のつもりだった。
無害と自他に思い込ませれば、本当に誰も傷つけずにすむと思っていた。
妙に理屈っぽいこの先輩も、それなりに騙しおおせている自信があった。
そして、そんな自分が、心底恥ずかしくなった。
「しかし、想像していたよりも低いね。あと、語調も心なしかゆっくりだ。声だけだからかな。言葉を選んでくれている気がする。いつもと違って、笑顔で誤魔化せないからかな?」
「ちょ……ちょっと! 思っていても口に出さないでくださいよそういうの!」
「だって、電話だし。しゃべらなければ放送事故だよ?」
「だけど、何が悲しくて学校の先輩と電話中に普段の対人行動を分析されにゃならないんですか!」
「それだよ。うん。そうやって、容赦なく文句を言って欲しかったんだ」
「はい?」
「君は私に手加減して、いつも敬してフラットな感情で接してくれていただろう。でも、同性の友達にするみたいに気兼ねなく話してもらえないのが、私は悲しくもあったりしたのだ」
電話の向こうで、息が漏れる音がする。
先輩はきっと唇を歪めて、いつものような悪戯っぽい笑みを浮かべているに違いない。
「うん。たまには電話もいいね。声が聞こえるのと、言葉だけのやりとりでは、やっぱり情報量が大違いだ。主に感情レイヤーにおいて」
「まあ、よくわからんですけど。先輩が満足してるなら、僕には異論はないですよ」
「それなら、お言葉に甘えよう。たまには、こうやって連絡させてもらうから、覚悟しておいてほしい」
「……わかりました」
「ああ、あと電話の要件なんだが。二つお願いがあってね。一つ目。明日の講義の後で、喫茶店に付き合ってほしい。二種類新作のケーキがでて、一人では食べきれないんだ」
「いいですよ。で、二つ目は?」
「うん。今の君の声のまま、私の言葉に返事をしてほしいんだ。……それじゃあ、今日はこれで。おやすみ」
何のことかわからないまま、僕は猫かぶりをしていない、家族と話すときのような声で先輩に言葉を返す。
「はい、おやすみなさい、先輩」
一瞬の空白。電話を切ろうとした瞬間、耳元で先輩のため息が漏れた。
「……なかなかの破壊力……。声ってのは馬鹿にならないなあ」
「なんですかそれ」
「なんでもないよ。今日はよく眠れそうって話さ。じゃあ、また明日」
はにかむような先輩の声が耳に残る。
まったく、こっちは今日は妙に眠れそうにないようだ。




