お題『声』
指が覚えている番号を押して、電話をかける。
呼び出し音が10を越えたところで、かちり、と音声データが再生された。
聴きなれた声。録音のせいか、どこかぎこちない、彼女の声が響く。
事務的にメッセージを読み上げていいものか、せっかく自分の声なのだから、少しはくだけた物言いをすべきなのか。
悩みながら、結局どっちつかずのまま、半端でちぐはぐな口調と台詞が再生される。
『――ごめんなさい。今手が離せなくて電話にでられないみたいです。ご伝言があれば電子音のあとに録音しておいてくださいね』
無機質な電子音が響く。
「僕です。マコトの卒園式、無事終わりました。お母さんがこない家はうちだけで、ちょっとごねられたよ。……いや、責めるわけじゃないよ。それじゃあ、また後で」
小さな手を握り、我が子を見る。
さあ、二人で帰らないと。戻ったら、やることはたくさんあるのだから。
◇ ◇ ◇
指が覚えている番号を押して、電話をかける。
呼び出し音が10を越えたところで、かちり、と音声データが再生された。
聴きなれた声。録音のせいか、どこかぎこちない、彼女の声が響く。
あまりうまく喋ることができなくて、僕に録りなおさせようとしたのを止めた結果のつたないメッセージ。
話すことが得意でない彼女らしい、たどたどしい言葉に、安堵の息が漏れる。
『――ごめんなさい。今手が離せなくて電話にでられないみたいです。ご伝言があれば電子音のあとに録音しておいてくださいね』
無機質な電子音が響く。
「僕です。転勤が決まりました。マコトには、泣かれるんだろうな。友達、たくさんできてたみたいだから。引っ越し、嫌だろうけど。一人置いていくわけにもいかないし。ごめんなさい。愚痴を言いました。また、後で」
深呼吸を一つ。
さあ。家路を急ぐとしよう。あの子に、できる限り丁寧に説明しないと。
◇ ◇ ◇
指が覚えている番号を押して、電話をかける。
呼び出し音が10を越えたところで、かちり、と音声データが再生された。
聴きなれた声。録音のせいか、どこかぎこちない、彼女の声が響く。
いつもと同じ口調。そのことが、今は心底ありがたいと思った。
その声を聞きながら、混乱する思考を整理して、録音すべき言葉を頭の中で紡いでいく。そうしなければ、叫びだしてしまいそうだった。
『――ごめんなさい。今手が離せなくて電話にでられないみたいです。ご伝言があれば電子音のあとに録音しておいてくださいね』
無機質な電子音が響く。
「僕です。マコトが、家を出ていきました。……僕は、男だからマコトのことがわからないって。母さんなら、私をこんなにしなかったって。昨日、そう言われました。僕は、下手くそで、無神経で、臆病で、大切なものにほど手を伸ばせなくって、伝わらなくて……昔から変わらないね。君にもそう思われていたのかな。ごめん。また、後で」
電話を切って、頬を叩く。
この通話が終わったら、僕は弱い男でも、頼りない夫でもなく、子と生きる父にならなければいけないのだから。
◇ ◇ ◇
指が覚えている番号を押して、電話をかける。
呼び出し音が10を越えたところで、かちり、と音声データが再生された。
聴きなれた声。録音のせいか、どこかぎこちない、彼女の声が響く。
改めてこのメッセージを聞いて思い当たる。サ行が舌足らずなところは、先ほど涙まじりで手紙を読み上げた花嫁も、そっくりだった。
まったく。世界は繋がっていく。残酷に。優しく。どこまでも。
『――ごめんなさい。今手が離せなくて電話にでられないみたいです。ご伝言があれば電子音のあとに録音しておいてくださいね』
無機質な電子音が響く。
「僕です。マコトの式、終わりました。君によく似ていたよ。僕の血の分、ちょっと可哀そうなことをしたかと思ったけど。大丈夫、すごく綺麗だった。お相手は……僕よりしっかりしていると思う。きっと、あの二人はうまくいくと思うよ。それじゃあ、また、後で」
さて。帰ったら、何をしようか。
父としての仕事は一つ終わって、夫としてすべきことも、ほとんど片づけてしまった気がする。
かといって、男として何かを求めるほど、強い欲求はなくなってしまった。
それでも、僕の生は続いていく。
◇ ◇ ◇
震える指は、それでも覚えている番号を無意識のうちに押していた。
呼び出し音が10を越えたところで、かちり、と音声データが再生された。
聴きなれた声。録音のせいか、どこかぎこちない、彼女の声が響く。
あの日からずっと変わっていない、若々しい彼女の声。
データは劣化して、随分とひび割れてしまったけれど。電話の向こうの彼女は、我が子よりも若い声ではにかんでいる。
『――ごめんなさい。今手が離せなくて電話にでられないみたいです。ご伝言があれば電子音のあとに録音しておいてくださいね』
無機質な電子音が響く。
「僕です。明日、手術です。もしかすると、うまくいかないかもしれないそうです。マコトとハルカが見舞いに来てくれました。ハルカの成人式くらいは見たかったのですが、こればかりは仕方ないね」
そこまで喋っただけで、息があがる。
胸を押え、僕は、絞り出すように言葉を続ける。
「君が声を残してくれたおかげで、僕は父親をやり通せたよ。いい置き土産をもらった。ありがとう」
そして、細くなった指で、通話を止める。
一番伝えたいことは、口にしなかった。
照れもある。空しさもある。だけど何より、この言葉を伝えるのに、録音では悪いと思ったから。
明日か、数年後か、向こうで彼女に出会えたら、直接話すことにしよう。
なに。もう四十年以上、待たせているのだ。
今さら数年間くらい、どうということはないだろう。
いなくなった彼女の声を思い出しながら、僕は電話の電源を切った。




