お題『マウス』
水迷路、と呼ばれる実験がある。
生理心理学等において、空間学習能力を測定するための課題の一つ。
方法は単純。水で満たされた円形の巨大なプールを用意する。
なみなみと注がれた水は乳白色で水面下を見ることができない。
水位は実験体がぎりぎり足をつけることのできない深さ。
プールの壁面はよく磨かれた高くそびえたつもので、手をかけて登ることは不可能。
自力での脱出が不可能な開放的な水牢から抜け出す方法はただ一つ。
この乳白色の水面の中にただ一つ存在する足場……逃避台を見つけ、そこに存在するボタンを踏むこと。
観察者は実験体が逃避台を発見するまでの時間を計測する。
様々な場所から実験体を落とし続け、逃避台へ乗るまでの時間の変動を測る。
すると通常、訓練初期にはプール全体をランダムに泳ぎ回って偶然に逃避台を見つけていた実験体は、10試行ほどを経て、どのスタート地点から出発しても、逃避台までほぼ真っ直ぐな軌跡で泳ぎつくようになる。
これは、空間における位置関係、プールにおける逃避台の位置を実験体が学習した結果であり、その学習速度をもって実験体の機能を計測することこそ、この実験の本義だ。
たとえば、海馬破壊をした場合。たとえば、NMDA型グルタミン酸受容体の阻害をした場合。こうした脳に対する欠損が、学習に与える悪影響を確認するために、この水迷路は使われる。
たとえば、通常の健康な実験体の個体別の学習性能を確認するために、この水迷路は使われる。
そして。脳を故意に欠損させられたものと、通常の脳を持つ者が検分されるこの場においては。
人為的に能力を強化するよう、脳を後天的に強化させられたものの性能把握もまた、行われる。
強化ガラス越しに、吊り上げられた実験体の姿を見る。
その表情には何の疑問も浮かんでいない。
当然だ。それこそが、彼女の日常であるのだから。
毎日、粘性の高い「水」に落とされ。方向感覚を狂わせる磁場が照射され、全くの視覚的情報が遮断されるよう純白の壁で、照明によって遠近感覚を殺され、そんな状況下で、逃走台に辿りつけなければ溺れ死ぬ、そんな拷問以上の何かを繰り返されることが。
味気ないツナ缶もどきの栄養食品だけを与えられ、人に似た機能を持ちながら、実験体として生かされるだけの時間が。
実験体E45083WA。
並行して無数に試行されている「強化された生物の可能性」の一つ。
周囲の視線が突き刺さる。
モニタを眺めていた研究者の目がこちらへと向いていることを理解し、白衣の女は首を振った。
そうだ。自分がボタンを押さなければ、この実験は始まらない。
これは、実験だ。
人を救う、人類の可能性を開く、自分にしかできない、正しいことだ。
だから、躊躇う必要なんてない。
昨日も、一昨日も、そのまた前も。
自分はこのボタンを押して、実験体を、水迷路へと落としてきたではないか。
落として。落として。落とし続けて。
白い水の中に、幾つもの命を、落としてきた。
命と、そして、たぶん、この研究所に入ったときに握りしめてきた、色々なものを、落としてきた。
実験体の多くは幼体だ。「成長させるコスト」を考えれば当然のことである。
自分が幾度も落としてきたもの。その声を。その仕草を。白衣の女は、多分、全て覚えている。
できないはずがないだろう。
ここで止めてしまったら。ここで否定してしまったら。今までの犠牲は、何だったというのか。
昨日灰になった、実験体の無表情な視線が脳裏をよぎる。
ヒトガタをしたもの。ヒトと違うもの。ヒトを模したもの。
ボタンに手をかける。
迷いを断ち切るように。
そして、白衣の女は、実験体を地獄へと落とす、そのスイッチを押しこんだ。
実験体の少女を、無慈悲で無菌の水の楽園から追放し。
偏見と欲望と悪徳に満ちた俗世へと解放するための、残酷なスイッチを。
「……実験体E45083WA」
「御指示を、サー」
「拘束学習は解除済です。私を連れ出しなさい」
「それは命令ですか?」
「お願いですよ。お礼はそうね。おいしいお寿司でどうですか?」
「おいしいという感覚は理解しかねますが、正の強化子と共に提示された上位権限からのコマンドと認識。行動を開始します」
かくて、実験体に感情移入した馬鹿な研究者が一人、象牙の塔から抜け出す。
その先に待つものは乳白色の水よりなお先を見通せぬもの。
わかりやすい逃走台など、用意されているかもわからぬ場所。
それでも、二人は走り出す。
ただ消費されるだけの実験体ではなく、人となるために。
人を救うと口だけで嘯く実験者ではなく、人となるために。




