5章10話『悪夢は私のもの』
黒く揺らぐ髪が終わりの始まりを宣言している。雨粒が滴りキラリと光るナイフが惨劇の幕開けに怯えている。
今から始まるのは絶望の無限階段。底知れない絶望が何もかもを喰らい尽くす混沌。
額に流れる水を払い、シュルバはニヤリと笑った。
「ホントはこれ使いたくなかったんだけど…………使わないと勝てないもんね」
シュルバはスカートのポケットから黒く光る短剣を取り出した。持ち手にすら棘があるそのナイフは使い手に己の覚悟を証明せよと言わんばかりに握られるのを待っている。
シュルバはそれを、義手ではない右腕に持った。
「っ〜〜!!」
シュルバは奥歯を噛み締めて痛みを堪える。痛みのピークを乗り越えた彼女の顔には恐ろしいほどの笑顔があった。
「そして…………これ」
彼女の反対側のポケットに姿を隠していたのは紅い液体の入ったガラスの小瓶。そして銀色に輝く太いの針だった。
「おい、なんだそれ」
アルトがすかさず声をかける。シュルバは瓶の蓋を取り、アルトに返した。
「ちょっと前にタクトに上げたチョコに入ってた疲れが飛ぶ薬。それの原液だよ」
シュルバはアルトの目の前でその液体を一気飲みした。喉の動きから飲んだフリなどではないのは間違いない。
アルトは心配そうにシュルバを見る。
「大丈夫なのかよ、確か前タクトがお前のチョコを食べた後、あいつ一瞬ぶっ倒れてたよな?」
「うん。この薬は蜘蛛から採れる猛毒だのトリカブトの毒だのを調合したものなの。確かに疲れは一瞬で取れる。でもそれは猛毒によって体内の雑菌や有害物質を殲滅すると同時に体を限界ギリギリの状態にして逆に活性化させるっていう荒業なの」
「んだよそれ…………」
「でも私は一瞬でも倒れてる暇はないからね。そのために、この針ってわけ」
シュルバは針を上に向けて見せつけ、手元でくるりと回転させた。
「この薬飲むと体に毒が回って、どうしても眠くなっちゃうんだよね〜…………」
シュルバは針を自分の腕に刺した。
その行動は刺したというよりはむしろ叩きつけた。そう表せる程の勢いだった。
「あぁ〜スッキリする〜!」
針はシュルバの白く綺麗な腕を貫通し、彼女の腕からは黒く濁った血がこれでもかというほど流れ出した。
もちろん、痛くないわけがない。彼女の全身には今、生命活動に影響を与えるほどの猛毒が回りながら、同時に腕に鉄がのめり込んでいるという、生き地獄と言い表して差し支えない状況だった。
その悪夢をシュルバは狂気的な笑顔だけで耐えている。言うまでもないが、そう簡単に出来る事ではない。
「やっぱやべぇな、あいつ」
アルトは生き地獄から目をそらしながら後頭部を掻いた。
この「やばい」には、勝利のためなら自分の身を犠牲にする彼女への尊敬の念の「やばい」と、常人とはかけ離れた思考を持ち、それを実行してしまう彼女への恐怖心を言葉にした「やばい」の2つが入っている。
だからこそ、アルトはアルト本人にも見えない心の奥底でこの状況を楽しんでいるわけだが。
「さーてと!」
すっかり疲れの抜けたシュルバは肩をぐるぐると回しながら目の前の仮面に声をかけた。
「おおかた準備できたよ!」
「…………待ちくたびれたぞ」
ゴーストは首を横に傾け、骨をコリコリと鳴らす。
「アルト。レイナちゃん」
突然呼ばれた自分の名前に驚く2人。
「私が合図したら、ゴーストに悪夢を打って」
「悪夢…………?余裕そうに振る舞っているあの男に効果があるとは思えないんだが…………?」
「いーのいーの!よろしくね!」
シュルバは中指と人差し指を立て、敬礼のポーズを取った。
「さぁ…………絶望を始めよう!」
シュルバは左足を後ろに下げ、強く蹴りだした。雨で濡れたアスファルトの上をぴちゃぴちゃと駆け抜ける彼女の目はまだ希望に満ちていた。
「今だよ!」
シュルバは笑顔でそう叫んだ。2人は手を合わせ、その手を前に出した。
「「悪夢」」
2人の背後から伸びる大きくドロドロとした黒い手はうねうねとその形を歪ませながらゴーストに向かう。
ひと目見ただけでそれがいかに危険かが分かる。亡霊は自分の身を守るように剣を構え、予測可能であり予測不可能な悪夢へ備えた。
「ここだっ!」
悪夢を追うように走る黒髪の少女は体を捻じりながら高く飛び、ちょうど同じ位置にあった悪夢に飲み込まれた。
「なっ…………」
誰もが息を呑んだ。シュルバは自ら味方の攻撃に当たりに行ったのだから。
悪夢との接触と同時にシュルバは地面に落とされた。バランスを崩しながらもよろよろと立ち上がるシュルバ。彼女の目は涙で覆われ、彼女の口からは泡になった唾がドロドロと流れ落ちている。全身が小刻みに震え顔色も悪い。
これが悪夢の力。レイナのトラウマをアルトの力で引きずり出して相手にぶつける矛盾。対象に絶対的な絶望を植え付ける、文字通りの悪夢。
だからこそ、わからないことがあった。
「あいつ…………死にてぇのかよ…………!」
アルトは恐怖と心配が混ざった瞳でシュルバを見た。彼女はなぜ悪夢に当たったのか、なぜ死の恐怖を恐れずにいられるのか、
なぜ彼女はそんなにも絶望を好むのか。
「あ…………ぁはは…………」
絞り出したような笑い声はかすかに聞き取れるかどうかというくらい弱かった。
「これで…………勝てる……………………」
「勝てる?」
「ありがとね…………2人とも…………。あとは…………わ、わた……しが…………」
その瞬間、シュルバは魂が抜けたように倒れた。
「シュルバ!」
レイナは地面に横たわるシュルバに近づこうとする。アルトは彼女の腕を引きそれを止めた。
「逃げるぞ」
曲がった足を無理やり動かし立ち上がるアルト。それは人間にはできるはずの無い、荒業だった。
何が言いたいかというと、そんな荒業を成し遂げるほど、アルトは焦っている。
「でも…………シュルバが…………!」
「選べ。シュルバに殺されるか、ゴーストを殺すか」
レイナは耳を疑った。
「シュルバに…………殺される…………?」
「急げ。どっちを選ぶんだ?」
レイナの回答に迷いはなかった。
「ゴーストを殺す」
「そうか」
アルトはレイナの手を強く引き、シュルバから離れるように走った。
「とりあえず、近くのビルにでも隠れるか」
「ねぇ…………アルト…………」
「なんだ?」
「どういうこと…………?シュルバに殺されるって……………………」
「…………そういえばお前、あの時いなかったっけな」
「あの時…………?」
「あぁ。冥王星の地下で運命のクリスタルをぶっ壊した時だよ」
2人はひび割れたビルに入り、階段を登る。
「あん時、シュルバは今回と同じようにメガネを外したんだが…………あれは、なんつーかもう言葉に表せねぇな」
「何が起きたの…………?」
「暴走だ。シュルバは暴走したんだ。あの時のあいつはもはや敵味方見境なくぶち殺す殺戮兵器だ」
「殺戮兵器…………」
「で、その殺戮兵器のエネルギー源だが、それはシュルバのトラウマなんだ。あいつ自身が抱えてるトラウマを無理やり記憶の奥底から引きずり出す。そしてそのトラウマを消し去るためにナイフを振り回す。要は、あいつは攻める力じゃなくて守る力を利用したんだよ」
「守る力………………?」
レイナは息を呑んだ。
「じゃあもしそこに、レイナのトラウマも加わったら…………どうなるんだろうな」
アルトは窓の外に目を向けた。
「ああぁあああぁあぁああぁあああ!!!!」
シュルバの悲鳴とも呼べる叫びはガラスをも粉々に砕いた。
「それはもう、いよいよ人とは呼べないだろうな」




