第81話 存在
焼けつくような痛みが、胸の奥を一直線に貫いた。
僕は、ゆっくりと痛む場所を見る。
ナイフが深々と胸に突き立ち、そこから赤い血がぽたぽたと床に落ちていた。
音が、やけに遠い。
身体の感覚が、ゆっくりと失われていく。冷たい。
血が流れ出ているからだろうか、それとも…もう、終わりだからか。
視界が霞む。
不思議と、今になって昔のことを思い出した。
僕は、汚らしいスラムで生まれた。ゴミと犯罪と悪臭が渦巻く、そんな場所だった。
母がいた。優しくはなかった。殴られることの方が多かった。
ある日、いつものようにゴミを漁って家に戻ると、母は床に倒れていた。
異様なほど身体に浮かんだ斑点を、今でもはっきり覚えている。
それから、僕は一人になった。
影が薄いせいなのか。それとも、この世界に最初から存在していなかったのか。誰も僕の名前を呼ばず、そこに「いる」ことすら気づかれなかった。
それでも、生きるためにゴミを漁った。
ある日、スラムの連中に捕まった。リンチだった。
「サンドバッグになれ」と言われた。
……不思議と、嬉しかった。こんな僕にも、役に立つ価値があるのだと思えたから。
殴られ、蹴られ、血が飛び散った。
床や壁に散った自分の血が、やけに綺麗だったことだけが、妙に印象に残っている。
息も絶え絶えで、もう死ぬのだろうと思った、その時。
突然、武装した人間たちが現れ、リンチしていた連中を一方的に叩き伏せた。
顔を上げると、白衣を着た男が立っていた。
「君……名前は?」
「………………」
「そうか……今日から君は、ニトラだ。君は今日から、私の所有物だ!」
星さんは、実験に使う人間を探していたらしい。
僕は、その日から“ニトラ”になった。
僕は研究所へ連れていかれた。
そこには、今まで知らなかった生活があった。食べ物があり、寝る場所があり、それだけで十分すぎるほどだった。
それだけじゃない。
皆が、存在を認めてくれた。誰も、僕を忘れなかった。
そんな場所を与えてくれた星さんは──僕にとって、神であり、父だった。
ニトラは、残った力を振り絞るようにして、懐から黒い球体を取り出した。
それを見た瞬間、スズメの顔が苦く歪む。
「ッ……また、それ!?」
遮蔽物のない廊下。逃げ場は、どこにもなかった。
「これで終わりだぁ!!」
ニトラは、床に向かって球体を叩きつける。
ボンッ!!
爆煙と同時に、無数の弾丸が四方へと弾け飛んだ。
ニトラに向かってくる弾丸は、すべて塵へと変わり、空中で霧散する。
煙からは、声はせずニトラは、戦いが終わったと確信をした。
「終わった…」
ニトラは、その場に膝をついた。気づけば、床一面が自分の血で赤く染まっていた。
「……早く、応急処置を……」
背を向け、立ち去ろうとした、その時。
「───待ちなさいよ」
背後から、声がした。
「ッ!?」
煙が晴れる。
そこに立っていたのは、全身から血を流し、今にも倒れそうなスズメだった。
「なぜ……死なないッ!?」
ニトラの声は、明らかに動揺していた。スズメは、ふらつきながらも走り出す。
「アンタと……気合が違うのよ!」
ニトラは即座に銃を抜き、引き金を引いた。
バンッ!バンッ!
乾いた銃声。
スズメは、避ける力もなく、それを受ける。だが、彼女は止まらなかった。
衝撃に身体を揺らしながらも、前へ出る。
シュッ!
スズメの手から、ナイフが放たれる。
(爆発する奴か──
そう思った瞬間、視界が白く弾けた。
世界が、潰れる。
「ッ──!!」
何が起きたのか、ニトラには理解できなかった。自分がどこにいるのかすら、分からない。
──気づいた時には。
スズメが、目の前にいた。
彼女は、ニトラの鳩尾に突き刺さったナイフを引き抜き、間を置かず、その刃で喉を切り裂いた。
ぐちゃり、と嫌な音がした。
呼吸が、血へと変わる。
ニトラは膝をつき、やがて前のめりに倒れた。床は、さらに赤く染まっていく。
薄れゆく意識の中、ニトラはスズメの背中をぼんやりと見つめていた。
(……星さん……ご……め…………)
スズメは階段へ向かおうとしたが、数歩進んだところで膝をついた。
(……血、流しすぎた……)
視界が歪む。
壁に背を預けたまま、スズメは力なく崩れ落ちるように座り込んだ。
呼吸をするたび、胸の奥が軋む。指先の感覚が遠のき、視界の縁がじわじわと暗く滲んでいく。
――まずい。
そう思った時には、もう遅かった。音も、光も、意識も、すべてが底へ沈んでいく。
次に気づいたとき、耳に飛び込んできたのは、間の抜けた声だった。
「あわわわわ」
その聞き覚えのある響きに引き戻されるように、スズメはゆっくりと瞼を開いた。
「だ、大丈夫ッスか!!?」
片腕を押さえたセッカが、慌てて駆け寄ってくる。
「別に……大丈夫よ」
スズメは、ぶっきらぼうに答えた。
「アンタも、その腕……平気なの?」
「いや〜、やられちゃったッス!」
セッカは、いつものように笑った。
「……まったく」
二人は、互いに支え合うようにして、その場を後にする。
歩きながら、セッカがふと尋ねた。
「相手、どんな人だったんですか?」
スズメは、少しだけ振り返り、床に横たわるニトラの亡骸を見た。
「……さぁ」
短く息を吐き、前を向く。
「忘れたわ」
そう言って、彼女はもう一度も振り返らず、その場を去った。




