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インナーヒットマン  作者: 太田
第5章 真実と雛

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第81話 存在

 焼けつくような痛みが、胸の奥を一直線に貫いた。


 僕は、ゆっくりと痛む場所を見る。


 ナイフが深々と胸に突き立ち、そこから赤い血がぽたぽたと床に落ちていた。


 音が、やけに遠い。


 身体の感覚が、ゆっくりと失われていく。冷たい。


 血が流れ出ているからだろうか、それとも…もう、終わりだからか。

 

 視界が霞む。


 不思議と、今になって昔のことを思い出した。


 僕は、汚らしいスラムで生まれた。ゴミと犯罪と悪臭が渦巻く、そんな場所だった。


 母がいた。優しくはなかった。殴られることの方が多かった。


 ある日、いつものようにゴミを漁って家に戻ると、母は床に倒れていた。


 異様なほど身体に浮かんだ斑点を、今でもはっきり覚えている。


 それから、僕は一人になった。


 影が薄いせいなのか。それとも、この世界に最初から存在していなかったのか。誰も僕の名前を呼ばず、そこに「いる」ことすら気づかれなかった。


 それでも、生きるためにゴミを漁った。


 ある日、スラムの連中に捕まった。リンチだった。


「サンドバッグになれ」と言われた。


……不思議と、嬉しかった。こんな僕にも、役に立つ価値があるのだと思えたから。


 殴られ、蹴られ、血が飛び散った。


 床や壁に散った自分の血が、やけに綺麗だったことだけが、妙に印象に残っている。


 息も絶え絶えで、もう死ぬのだろうと思った、その時。


 突然、武装した人間たちが現れ、リンチしていた連中を一方的に叩き伏せた。


 顔を上げると、白衣を着た男が立っていた。


「君……名前は?」


「………………」


「そうか……今日から君は、ニトラだ。君は今日から、私の所有物だ!」


 星さんは、実験に使う人間を探していたらしい。


 僕は、その日から“ニトラ”になった。


 僕は研究所へ連れていかれた。


 そこには、今まで知らなかった生活があった。食べ物があり、寝る場所があり、それだけで十分すぎるほどだった。


 それだけじゃない。


 皆が、存在を認めてくれた。誰も、僕を忘れなかった。


 そんな場所を与えてくれた星さんは──僕にとって、神であり、父だった。


 ニトラは、残った力を振り絞るようにして、懐から黒い球体を取り出した。


 それを見た瞬間、スズメの顔が苦く歪む。


「ッ……また、それ!?」


 遮蔽物のない廊下。逃げ場は、どこにもなかった。


「これで終わりだぁ!!」


 ニトラは、床に向かって球体を叩きつける。


 ボンッ!!


 爆煙と同時に、無数の弾丸が四方へと弾け飛んだ。


 ニトラに向かってくる弾丸は、すべて塵へと変わり、空中で霧散する。


 煙からは、声はせずニトラは、戦いが終わったと確信をした。


「終わった…」


 ニトラは、その場に膝をついた。気づけば、床一面が自分の血で赤く染まっていた。


「……早く、応急処置を……」


 背を向け、立ち去ろうとした、その時。


「───待ちなさいよ」


 背後から、声がした。


「ッ!?」


 煙が晴れる。


 そこに立っていたのは、全身から血を流し、今にも倒れそうなスズメだった。


「なぜ……死なないッ!?」


 ニトラの声は、明らかに動揺していた。スズメは、ふらつきながらも走り出す。


「アンタと……気合が違うのよ!」


 ニトラは即座に銃を抜き、引き金を引いた。


バンッ!バンッ!


 乾いた銃声。


 スズメは、避ける力もなく、それを受ける。だが、彼女は止まらなかった。


 衝撃に身体を揺らしながらも、前へ出る。


シュッ!


 スズメの手から、ナイフが放たれる。


(爆発する奴か──


 そう思った瞬間、視界が白く弾けた。


 世界が、潰れる。


「ッ──!!」


 何が起きたのか、ニトラには理解できなかった。自分がどこにいるのかすら、分からない。


──気づいた時には。


 スズメが、目の前にいた。

 

 彼女は、ニトラの鳩尾に突き刺さったナイフを引き抜き、間を置かず、その刃で喉を切り裂いた。


 ぐちゃり、と嫌な音がした。


 呼吸が、血へと変わる。


 ニトラは膝をつき、やがて前のめりに倒れた。床は、さらに赤く染まっていく。


 薄れゆく意識の中、ニトラはスズメの背中をぼんやりと見つめていた。


(……星さん……ご……め…………)


 スズメは階段へ向かおうとしたが、数歩進んだところで膝をついた。


(……血、流しすぎた……)


 視界が歪む。


 壁に背を預けたまま、スズメは力なく崩れ落ちるように座り込んだ。


 呼吸をするたび、胸の奥が軋む。指先の感覚が遠のき、視界の縁がじわじわと暗く滲んでいく。


――まずい。


 そう思った時には、もう遅かった。音も、光も、意識も、すべてが底へ沈んでいく。


 次に気づいたとき、耳に飛び込んできたのは、間の抜けた声だった。


「あわわわわ」


 その聞き覚えのある響きに引き戻されるように、スズメはゆっくりと瞼を開いた。


「だ、大丈夫ッスか!!?」


 片腕を押さえたセッカが、慌てて駆け寄ってくる。


「別に……大丈夫よ」


 スズメは、ぶっきらぼうに答えた。


「アンタも、その腕……平気なの?」


「いや〜、やられちゃったッス!」


 セッカは、いつものように笑った。


「……まったく」


 二人は、互いに支え合うようにして、その場を後にする。


 歩きながら、セッカがふと尋ねた。


「相手、どんな人だったんですか?」


 スズメは、少しだけ振り返り、床に横たわるニトラの亡骸を見た。


「……さぁ」


 短く息を吐き、前を向く。


「忘れたわ」


 そう言って、彼女はもう一度も振り返らず、その場を去った。

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