第78話 怪物
B4にて
薄暗いフロアの中央で、セッカは血を流しながら床に倒れ込んでいた。それは、セッカがドバトに連絡をしている最中の事だった。
「ヤバいっす。B4の奥に、大量の子供の臓器がホルマリン漬けで保管されてるッス!」
通信の向こうから、初の声、そしてドバトの低い声が重なって聞こえた。
その時だった。
ビーッビーッ
耳障りな警告音が、部屋全体に鳴り響く。
【侵入者!侵入者!】
無機質な機械音声が、何度も繰り返された。
(……マズいッスね)
セッカは歯を噛み、立ち上がろうとする。その背後で、低く唸るようなモーター音が響いた。
反射的に、足が止まる。
振り向いた先─部屋の奥に、巨大な円筒が鎮座していた。今まで気づかなかったそれは、まるで棺のように冷たく光っている。
中には、何かがある。円筒が、ゆっくりと開いた。
溢れ出した液体が床を濡らし、鼻を突く刺激臭──ホルマリンの匂いが広がる。
次の瞬間だった。
ガァァァァァァッ!!
空気を震わせる、獣じみた咆哮。
巨大な影が、液体を蹴散らしながら飛び出す。それは、巨体に似つかわしくない速度で、一直線にセッカへ迫ってきた。
セッカは防御姿勢を取る。
(まず──
振り抜かれた腕が、セッカを直撃した。
衝撃で宙を舞い、背中から別のホルマリン筒へ叩きつけられる。ガラスが砕ける音が響き、薬液が床に流れ落ちた。
「ッ……!」
血を吐き、床に倒れ込むセッカ。だが怪物は止まらない。腕を高く振り上げ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
セッカは即座に横へ転がった。
ドォンッ!!
拳が床を叩きつけ、コンクリートが抉れ飛ぶ。あの一撃を受けていれば、即死だった。
薄暗い照明の下で、ようやく全貌が見えた。
人の二倍はある巨体。不自然に引き伸ばされた四肢、歪んだ骨格比。異様に広い肩幅に、ほとんど存在しない首。頭部は胴体に押し潰されたように埋まっている。
前屈みの背中から垂れ下がる、異常に長く太い腕。皮膚は生乾きの死体のように灰と黒が混じり、裂け目を縫い合わせたような歪な継ぎ目が無数に走っていた。
(何なんスカ…?これ…)
セッカの背筋を、冷たい緊張が走る。
怪物が、ゆっくりと距離を詰めてくる。
セッカは立ち上がり、丸ノコの電源を入れた。
ギィイイイイイィィン!
金属音が、室内に甲高く反響する。
「……まぁ、切り刻めば分かるッスよね!」
セッカは踏み込んだ。先に仕掛ける。
斜めに振り上げられた刃が、怪物の脇腹から胸元を抉る。
ギャリギャリギャリギャリッ!!
肉片が飛び散る──が
(ッ!?)
次の瞬間、裂けた肉が蠢き、まるで逆再生の映像のように塞がっていく。
怪物は一切怯まず、腕を振り抜いた。
(ヤバ───)
ズガァン!!
拳が床を砕き、その衝撃でセッカの身体が浮き上がる。受け身も取れず、背中から再び筒に叩きつけられた。
ガラスが割れ、肺の空気が一気に吐き出される。視界が一瞬、暗転する。
それでもセッカは、丸ノコのスイッチを切らなかった。
ギィイイイイイィィィィィィィン!
回転数を上げる。
怪物が迫る。その影が、完全にセッカを覆った。
長い腕が伸び、肩を掴まれる。
ミシィッ。
骨が悲鳴を上げ、指が肉に食い込む感触がはっきりと伝わる。
セッカは歯を食いしばり、丸ノコを怪物の腕に押し当てた。
ギィィィィィッ!!
刃が骨に噛み込み、火花が散る。左腕が弾かれ、怪物は一歩退いた。
だが、右腕は違った。
筋肉が異様に盛り上がり、刃を内側から締め上げる。
嫌な振動が手に伝わる。
次の瞬間
バキンッ!!
鋭い破断音。刃の一部が欠け、回転軸が狂った。丸ノコが暴れる。
怪物の右腕に、さらに力がこもる。
「ガァッ!」
思わず悲鳴が漏れた。
バキッ。
鈍い音が、空気を切り裂いた。肩の骨が折れる感触。
投げ飛ばされ、床に叩き伏せられる。
ドォン!!
視界が揺れ、天井灯が滲んだ。丸ノコは異音を立てながら、かろうじて回っている。
それでも、セッカは手放さなかった。片手で、なおも武器を握り続ける。
「……まだ、終わりじゃないッス」
血を流し、追い詰められたその瞬間──セッカは、次の一手を必死に探していた。




