第77話 イヌ
そこは、だだっ広い空間だった。
いくつもの机が規則正しく並び、その上には実験用と思しき機材が所狭しと置かれている。
星は、こちらをちらりと一瞥する。そして次の瞬間、腹の底から湧き上がるような笑い声をあげた。
「はは!まさか、スペアが自分から来てくれるとは!」
僕は迷わなかった。星に向け、引き金を引く。
バンッ!
弾丸は一直線に心臓へと向かった。
しかし、セラさんが、静かに手を前へ突き出した。
炎が生まれる。次の瞬間、弾丸は熱に飲み込まれ、跡形もなく溶け消えた。
「……ッ!」
虚ろな瞳。そこに、僕の知っているセラさんはいなかった。
「……セラさんに、何をした!」
怒鳴る僕をよそに、星は指先を忙しなく動かし、答えようともしない。背後で、かすかな声がした。
「あれが……ママ?」
ノアちゃんの、震える声だった。
「答えろ!!」
僕が叫ぶと、星は露骨に苛立った顔をした。
「うるさいな。セラには“私の言葉に絶対服従する”薬を投与しただけだよ。取引先を勝手に殺す、渡した金を全部ゲームにつぎ込んで消える、よく分からんオスを研究所に連れてくる……本当に手のかかる女でね。だが今は──ただの、従順なイヌ」
怒りで、指先が震えた。
「……お前は、セラさんのことを何だと思ってる!」
星は楽しそうに笑う。
「ん〜?優秀な“母体”かな。なぁ、セラ。お前、何体産ませたんだっけ?」
セラさんは、何の反応も示さない。理性が切れた。
僕はナイフを握り、星に向かって駆け出す。
ドゴッ。
次の瞬間、視界が跳ねた。セラさんの蹴りが腹に突き刺さり、身体が宙を舞う。
「悪いがな。お前と遊んでる暇はないのだよ。スペアを渡せ」
「……渡すわけ、ねぇだろ」
睨む僕に、星は深いため息をついた。
「はぁ~。物分かりの悪いガキは、嫌いなのだよ」
星が手にしたリモコンのボタンを押す。
低い駆動音。机や機材が床に沈み、足元がゆっくりと下がっていく。
何もできず、立ち尽くすしかなかった。
五メートルほど下がったところで、床は止まった。星だけが上に残り、こちらを見下ろしながらパソコンを操作している。
「ママ!!」
ノアちゃんが叫んだ。
「わたし、ノアって言うの! あなたの娘なの!会いたかった……ずっと……ねぇ、ママ!!」
セラさんは、答えない。
星が苛立たしげに叫ぶ。
「セラ!その男を殺せ!スペアは動けなくしろ!」
ノアちゃんは、叫び続ける。
「ねぇマ────
その言葉を遮るように、セラさんの蹴りが放たれた。
反射的に、僕はノアちゃんへ飛び込む。突き飛ばすように抱え込み、蹴りをかわす。
ノアちゃんの顔は、恐怖で引きつっていた。
僕はコートを脱ぎ、彼女に被せる。
「ノアちゃん……待ってて。ママは、絶対に僕が元に戻す」
振り返らず、セラさんを見る。
虚ろな瞳のまま、彼女はこちらへ歩いてくる。
蹴り。横へ転がり、辛うじてかわす。風切り音が、耳を裂いた。
「セラさん!僕です!初で───
ドゴッ
全体重の乗った蹴りが、鳩尾に叩き込まれた。
息が潰れ、身体が折れる。続けざまに顔面を蹴られ、視界が砕ける。
面が吹き飛び、床を転がった。
霞む視界の中、セラさんはノアちゃんの方へ向かう。
「ママ……」
セラさんの手が、ノアちゃんの足に触れる。腕が、赤く発光していく。
───まずい。
「……いや……」
ノアちゃんの、か細い悲鳴。
──ごめん、セラさん。
バンッ!
僕は引き金を引いた。
だが、セラさんは腕を振る。炎が生まれ、弾丸は溶け落ちた。
彼女はノアちゃんから手を離し、僕に向き直る。腕には、燃え盛る炎。
振り払われる腕。炎が、空を裂いて迫る。
後ろへ跳ぶが間に合わない。炎が、僕を包んだ。空気が焼け、喉が灼ける。皮膚が突っ張り、激痛が全身を貫く。叫ぶ間もなく、床を転がった。
スーツが燃え上がり、引き裂くように脱ぎ捨てる。
視線を上げる。
炎を背に、セラさんが立っていた。揺らめく火が、彼女の影を歪めていた。




