第60話 実験動物
「起きろ」
鉄格子を叩く硬い音が、眠りの底から意識を引きずり上げた。まぶたを開くと、廊下の向こうに警備兵が立っている。
「飯だ」
ぶっきらぼうな声とともに、鉄格子の横長の小窓の鍵が外される。金属音が乾いた壁に反響した。
兵士は中へプレートを押し込み、
「三十分後にまた来る。食べ終えていろ」
短く告げると、鍵を掛け直し、足早に去っていった。僕は思わずトレーに駆け寄った。
金属皿の中央に、灰色の塊がひとつ。かすかに湯気らしきものが立っているが、匂いはまるでない。世に言う “ディストピア飯” というやつだ。
床に腰を下ろし、ベッドの縁にトレーを置く。スプーンを取ると、金属が触れ合う乾いた音が部屋に響いた。
すくい上げたそれは、つぶした紙粘土を思わせる柔らかさだった。一口、口に運ぶ。
噛むまでもなく崩れ、舌の上に淡々と広がる。味と呼べるものがない。普通に美味しくなかった。
───……『りうか』の料理が恋しい。
それでもスプーンの手を止めることはしなかった。ただ黙って、機械のように飲み込んでいく。
食べ終えたプレートを扉の前に置き、ふと腹の奥に重たい感覚を覚えた。トイレに行きたくなった。
振り向けば、部屋の隅にポツンと便器。仕切りもない。天井の防犯カメラがいやに存在感を放っている。鉄格子越しに廊下から丸見えなのも気分が悪い。
はぁ~と ため息をひとつつき、便器に腰を下ろす。頭上の棚には、ご丁寧にトイレットペーパーが一本だけ、ぽつんと置かれていた。
用を済ませ、洗面台で手を洗い、再びベッドに横になった。
───昨夜の言葉が、脳裏に浮かぶ。
[「……一緒に逃げちゃいましょうか?」]
セラさんの声が、まるで部屋のどこかに残っているようだった。
───セラさんもここから逃げたいと思っているのか…?
そんなことばかりを考えていた。
ここでは、囚人のように作業が課せられるわけではない。ただ、白く無機質で、何もない箱の中で、時間が溶けていくだけだ。
ガギィィ……!
突然、鉄格子の開く音が響き渡った。胸が跳ねる。
どうやら、どこか別の独房が開けられたらしい。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
喉を裂くような叫びが廊下にこだました。
思わず身体が固まる。
ロン毛の男の言葉が蘇る。
[「お前なんぞ、そこら辺で拾ってきた動物みたいなもんや」]
本当にその通りなのだろう。
僕はただ、実験にかけられる順番を待つだけの、名もない実験動物にすぎないのかもしれない。




